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Channel: 死ぬまで生きよう!
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やはり、ワカランことは分かりたい

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自殺はワカランといいながらも、新幹線車内で焼身自殺という、前代未聞の、特異な、信じ難い、自殺について脳が反応する。多くの人が「自殺の理由」、「他殺の理由」を述べている。人の主張もイロイロあるように、考えればそれなりに自己の考えも少なからずまとまるかも知れない。誰がこんな自体、こんな自殺を想像できるだろう?が、現実に起こった。

「オカシなことをするもんだな…」と結論すれば、どんなにオカシなこともそれで済ませられる。「何であんなことするのか?ワカラン…」で、済ませる人もいる。「何であんなことをするのか解りたい」という人もいる。分らないことを分かりたいも人間の欲求だ。ある人は、「考えても仕方ないこと」と言う。「自分のこと以外、興味ない」という人も、結構多かったりする。

「情けは人のためならず」という言葉がある。この意味を間違って解釈していたのに気づいたのは高1であった。誰だったかに用法の間違いを指摘され、正しい意味を知っただけでいたく感動したのを忘れない。知らないことを知ったとき、間違いを間違いと気づいたとき、人は向上する。成長するというのはオーバーかも知れぬが、目くそ程度でも成長だ。

学童期に毎年5~6cm程度身長は伸びるという。が、気づいたことはない。誰だったか、「夜中に身長が伸びる音を聞いたことがある」と言っていた。何の音だか、骨の音だという。バキバキはオーバーだが、表現できない音だという。そんなバカな、身長なんて、あるときふと「背が伸びたな」と感じるものだろう。と思いきや、ある女優がテレビで同じ発言をしていた。

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元バレーボール選手の三屋裕子だったか、真面目でネタを振るような選手ではなく、「夜中に自分の膝の関節がバキバキと音がした」という。バキバキ音はオーバーではなかったようだ。ネットには14歳で15cm、15歳で10cm伸びの体験者が、あちこちの関節がきしむように痛いので、整形外科に行ったところ、「関節や骨に異常はありません、成長痛です。」と言われたという。

人はいろいろな体験をするものだ。デブになる音というのは聞いた事はないが、アレは骨ではない、肉がつくから無音だろう。少しそれるが、時代劇映画で人を斬ったときの「バシっ」とも「ズサっ」とも、表現しにくい効果音を「斬殺音」という。日本映画で初めて刀の斬殺音を入れたのは黒澤明監督の『用心棒』であるが、斬殺音についての逸話が残っている。

従来、東映作品に象徴されるような時代劇の殺陣は、舞台殺陣の延長のいわゆるチャンバラであった。黒澤は、そうした現実の格闘ではあり得ない舞踊的表現を排除したリアルな殺陣の表現を探り、それが『用心棒』でひとつの完成形を見、当時の人々を驚かせた。本作の殺陣の特徴は、主人公の桑畑三十郎は相手を斬る際、必ず1人につき二度斬っている。

これは、黒澤と三船の、「1度斬ったぐらいでは、すぐには死なないだろう」との考えにより完成した殺陣である。また、「逆手不意打ち斬り」という殺陣も話題になったが、この意表をつく殺陣だけでは満足できない黒澤は、人を斬った時に出る斬殺音を加えようとした。そこで音響効果担当の三縄一郎に相談を持ちかけた。三縄は黒澤が最も信頼するスタッフである。

イメージ 3「黒澤さんと食堂の前で会った時、立ち話で言われたんですよ。『人を斬ると音がするだろう。あの音をつけてくれないか。考えといてよ』って。その発想に驚きました。斬り合った時、チャリンていう刃合わせの音はよくやりますが、自分で人を斬った時の音をつけるのは初めてです。最初、牛や豚でやったんですが、柔らかすぎて音にならないんです。

いろいろ試してみたんですが結局、羽をむしった鶏を丸ごと使い、そこに割り箸を何本も差して、そいつを斬ったんです。それだと乾いた音なんで、水を含ませた雑巾を叩き、その音をダブらせたんです。首を斬ったり、腹を斬ったり、腕を斬ったり、いろんな種類の音を用意したんです。」と、三縄一郎は「斬殺音」作成にかかわる苦労話を語っている。

『用心棒』(61年)の続編ともいうべき『椿三十郎』(62年)では、リアル効果がさらに増し、映画のラストで三船と仲代の決闘シーンで、ポンプを使う手法で斬られた仲代の身体から血が噴き出すという特殊効果が用いられた。この手法自体はすでに『用心棒』で使われていたが、夜間シーンで画面が暗いことと出血の量が少なかったために目立たなかった。

ピーカン(映画用語で快晴)で撮られた『椿三十郎』の印象が強すぎたため、この手法はこの映画が最初と思われた。この血飛沫は公開後、「はたしてあそこまで血が噴出するものか?」と、観客の間で医者まで巻き込む大論争となった。役者の土屋嘉男もこの場面については、「ちょっと、血が出過ぎたみたい…」と著書で感想を述べている。(『クロサワさ~ん!』)

欧州の新聞も映画祭のルポで、「日本の時代劇のヘモグロビンの噴射は、もうたくさんだ!」などと悪口を書きたて、この種の時代劇作品が、「ヘモグロビン噴射剤」などと皮肉を込めて呼ばれることとなる。黒澤は強い罪悪感ならびに自己嫌悪感を抱き、「人を斬る音と、血の噴出を日本の時代劇で流行させてしまった本家本元は、自分だ」と悔いいる言葉を吐く。

本作『椿三十郎』の後、黒澤は派手な殺陣をみせる斬り合い作品を作らなくなってしまった。『赤ひげ』での乱闘は武道を使った素手によるもので、これは黒澤の反省の表れである。天皇と呼ばれた黒澤も、思いの他周囲の反応を気にする性質であり、彼が追い求めたリアリズムが、結果的に映画を娯楽からグロに変えてしまった後悔はかなりのものだった。


「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉を思い出す。扇情的で猟奇的、かつバカバカしいことを意味し、日本でも大正末期・昭和初期に流行した低俗な風潮をさす語句であるが、サブカルチャーとして残っている。下の画像は、女性の全裸はエロティック、身体を向日葵の茎が突き抜けている残酷趣味が窺えるが、よくよく見れば、これはフェイクであり作り物である。

つまり、これで「エロ・グロ・ナンセンス」が三拍子そろい、『HARA KIRI』 とかの表紙になっている。ちなみに、芸術運動としてのシュルレアリスムのはじまりは、「シュルレアリスム」宣言が発せられた1924年で、日本では大正13年である。シュルレアリスム(フランス語: Surréalisme, シュレアリスム)は、芸術の形態、主張の一つ。日本語で超現実主義と訳されている。

「シュレアリスム」のことは知らなくとも、「シュール」という言葉を使う女性は多い。男が使うのはあまり聞かないが、それは「シュール」という言葉が"ぼかす"という点で女性にむいているのであろう。実際、「シュール」の意味を正しく説明できる人は少ない。「シュールなギャグというが、どういう意味だい?」と聞くと、女性は困惑するから聞かないけれど。

「非現実的」というのがもっとも近いようだが、別にそんなことでもないのに、「シュールなギャグね」という。いう側が意味を理解していってない以上、この言葉をあまり深く考えないで、聞きのがす方が正解かも。エロは好きだが、グロは嫌いというのは多い。では、ナンセンスは?これも言葉の理解がおぼつかないから、近年は死語気味である。

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谷岡ヤスジに代表されるギャグの多くはナンセンスの根幹と書いたが、そもそもイヌが背中にバターを背負って歩いているという、その事自体があり得ないが、非常に現実志向的なイヌで面白い。つまり、ナンセンスというのは、現実を志向するけれども、行動・動作的にあり得ない、行わないであろうというあれこそが「シュール」に相応しい作品と言える。

谷岡マンガはナンセンス(意味が無いこと・馬鹿げていること。また、そのさま。」 というが正しくない。「シュール」というべきであろう。彼の存命の時代、そういう言葉がなかっただけで、堂々シュレアリスムの代表マンガである。友人が、「あれを見て笑えない奴とは友だちになりたくない」と言ったが、それは言えてる。あの面白さが分らない人間を自分は理解できない。

「理解できな~い!」とはね付けるのではなく、「頼むから理解してくれ!」という懇願である。もっとも、女に理解されたことは、かつて一度もなかったが、別にそれはいいし、どうも思わない。異性だから違っていい。「ちょっと面白いから読んでみないか?」などと貸し出しする気にもならない。が、貸し出した男に、「何が面白いの?」と言われたら悲しいぜ。

別のある谷岡ファンの友人は、「これを面白いと思う自分が異常なのだろうか?」と嘆いて見せた。「そんなことはない、別に異常でもなんでもない」という見え透いたエールや応援歌の類を好まぬ自分は、「いいんじゃないか?異常なら異常で」という。これも一種のエールであろうが、「人に分かってもらわなきゃいけないは、すべてにそうでなくていい」ということ。

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逆もまた真。人のすべてを理解できるはずもない。好きな歌に「あなたのすべてを」というのがある。作曲は佐々木勉で、榊原郁恵の「夏のお嬢さん」も佐々木の曲だが、「星に祈りを」(ザ・ブロード・サイド・フォー)や、「いつまでも いつまでも」(ザ・サベージ)を作った佐々木と、「夏のお嬢さん」は到底結びつかない。そんな彼は47歳で他界した。

♪おしえて欲しい あなたのすべてを、という歌詞が1番から3番まで入って、ここがサビの部分となっている。「おしえられるわけないだろう?人は人のすべてを」と思いながら歌う奴はいないだろうし、"すべてをおしえて"は言葉のあや、歌詞というあやである。歌の歌詞には「あなたのすべてを知りたい」だの、「見せて」だの、「欲しい」だのが結構多い。

詞は詩であるから、何を言ってもいいし、取り付く必要もない。それこそ「シュール」な世界である。好きな作詞家に松本隆がいる。なかにし礼もいいが、松本の詞は腹が立つくらいにシュールである。これ見よがしの"お涙ちょうだい"ではなく、健康的な哀愁、惜別の歌詞もいい。松本の代表作といっていい、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(1975年)という曲。

あの曲は筒美京平マジックとでもいうのか、「私の特徴は地声がファルセットに変わるところだけど、京平先生はそこのところを上手く作ってくださってる」と裕美は言う。松本の詞についてはこのようにいう。「なんでこんなに女の子の気持ちがわかるのだろう。そんな心を見透かされてるような気持ちでした」。この曲を初めて聴いたときの身震いを自分は忘れない。

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「恋人と別れて、東へと向かう列車」、「華やいだ街でいきがって生きる自分」、「新しい恋人ができて田舎の恋人とお別れしたときの、彼女の涙の文字」まるで、自分のことが歌われている気になった。同じ思いを持った団塊の世代はおそらく多いだろう。また、松本の歌詞の特徴は意味を提示するより、「空気」、「情景」、「雰囲気」などの物語性を歌われる。

寺尾聡の「ルビーの指輪」にある独特の心理描写は特筆であり、松田聖子の「赤いスイートピー」は、当時スイートピーの品種に赤は存在せず、それを、"心の岸辺に咲かせる”とシュールに表現する。「風立ちぬ」では、「すみれ・ひまわり・フリージア」という夏の花を、彼との楽しい思い出とし、SAYONARA SAYONARA SAYONARAと、秋の別れの歌に花咲かせている。

その手紙は高原のテラスで、風のインクのよって書かれたのだ。よくもこんな表現ができるものかと、松本は才能という言葉では言い表せない。彼の綴る瞬間の「絵」や「ポエム」はなんと素敵であろう。彼の描く言葉に意味などない。桑名の「セクシャルバイオレットNo1」という詞の意味が解るものなどこの世にいない。ついでにCCBの「ロマンティックが止まらない」って「?」

というところで、今日は一体何を書いているのか?書きたいことは何もなく、書いてあることが、書かれてある事だ。何か奇異な行動した人間がいたとする。マスコミやメディアが、「何であんな行動したんですか?」と聞かれて、「そんな事、わかるわけないだろ」というのが、実はホンネかも知れない。現実に、今日書いたことを、書いた10分後に聞かれたとする。

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「何であんな記事書いたんですか?」と。「分かるわけないだろ、そんなこと」。10分後に分らないことが1時間後、数日後に分かりはずがない。世間も誰しも意味を持たせたがるが、それは松本隆に「何であんな歌詞を書いたのか?」と同じこと。彼は物事すべてを斜めから見る、超現実主義(いわゆるシュール)な人間である。だから非凡な才に溢れている。

そんな彼の作詞デビュー曲は、アグネス・チャンである。元ロックのドラマーがアグネスの詞を依頼されたときの困惑があったと述懐している。そんな松本がアグネスの「ポケットいっぱいの秘密」の中に自らの秘密を込めた。彼はシャイな人間であり、そういうオチャメでもなくば、アグネスに曲を書いたことの周囲への自我が耐えられなかったのだろう。↓ 太字四文字…

なた草の上 っすり眠ってた
がおやさしくて 「きよ」ってささやいたの



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