Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

「自殺」について ⑦

$
0
0
人間が基本的に姑息なのは、親や教師が子どもや生徒を姑息になるように教育するからではないか?それを教育というのかは異論のあるところだが、教育が「教え」、「育む」を旨とするなら、「姑息」を教え、育んでいるのであろう。どんな子どもであれ、親にどう対処すれば、機嫌がよくなるかを知っている。生徒はどういう作文を書いたら教師が喜ぶか知っている。

子どもや生徒に暗黙にオトナの価値観を要求し、子どもたちがその要求に答えようとするのが「姑息」。「姑息」の正確な意味は、根本的に解決するのではなく、一時の間に合わせ。その場しのぎ。とある。自分の意味は相手に"おもねる"という時に、「姑息」を使う。相手におもね、媚びへつらう人間を「姑息な人間」と称しているが、意味は多少違っている。

イメージ 1

相手におもね、姑息になるかどうかは性格にも起因するし、性格と言うのは後天的な要素も大きいが、素質や遺伝もあり、脳科学は、生まれ持った脳の働きの特性が人間の性格に大きく反映されると解明した。性格は「生まれながらのもの」と同時に「作られるもの」でもある。これが日本人、中国人、フランス人、ロシア人となると、「作られるもの」の要素が大きい。

「日本人は真に勤勉にして、昼夜なく働く。体面を重んじ、やや短期である。ただ、忙しく働き、忙しく去る。定住することはない」と、これは江戸時代、日本と交易を許されていたオランダ商館長のエレミアス・ファン・フリートの日本人観である。西欧人は聖書の創世記にあるように、労働を苦とみなしていたが、日本人が勤勉なのは、労働を神聖とみなしていたからである。

同様に日本人は姑息な民族である。物事を根本的解決しようとせず、一時の間に合わせ、その場しのぎが好きである。アイマイミーと英語の初期に習うが、アイマイ好きは日本人。集団志向が強く、集団意見と異なる発言をして、「外」の人間になることを恐れる。全体の意見が決まるまで、たとえ発言したとしても、曖昧な表現で自分の考えをはっきり伝えないでおく。

日本人の好きなところもあり、嫌いなところもある。好きなところは温存したいが、嫌いなところは変革したい。が、日本人の総体が変革しようとしなければ、変革で浮いてしまう。集団主義の日本人は浮くのを恐れるが、「そんなこと恐れていられるか!」という自分のような人間は、物事を曖昧にしたり、言葉を濁して誤魔化すようなことを嫌がり、それをやらない。

イメージ 2

近年はそういう若者が増えてきているようだ。何を考えているか分らない人間より、自分に合う、合わないも含めてはっきりスタンスが示される方が付き合いやすい。大事なことは、「意が同じ」ではなく、「相手の考えが分かること」である。相手の考えが分かったとしても、互いが「分かり合える」か否かは別。分かり合えるとは、違いを許容しあうことであろう。

違いを寄せ付けない人間もいる。同じ考えの人間の集団を、「仲良しグループ」といい、それも典型的な日本人気質かもしれない。自分は人に媚びず、人におもねない性格で、是は是、非は非を行動原理にするから、親密になるまでは距離感を保つ。でないと、仲良しと思われた相手を批判したりで、その際、相手は裏切られたような気に陥る場面にしばしば遭遇した。

「仲良し同士は合わせなければならない」などはまったく思わないし、考えや価値観が違っても仲良しはあり得る。日本語の「仲良し」という言葉が、人によって受け取り方が違うようだ。神を信じる者と、信じない者は仲良しになれないのだろうか?信じる根拠と信じない根拠を対等に、話しあうことも仲良しと思うが、どれだけ話し合っても結論は得られない。

だから、最初から神の「有無」の結論を求める話はしないこと。神を信じるものはそれを前提に、信じない者はそれを前提に話し合い、難しい問題が生じれば、さらに突っ込んだ話をすればいいのである。価値観が違っても仲良くできないことはない。自分の考えを押し付けない限り…。考えの異なる同士が共存、共栄するのが社会である。人は人、自分は自分である。

イメージ 3

自分の価値や思考を持つならいいが、それすら持たずのパラサイト人間であり、近年は、そういう姑息な若者が増えていると感じる。学歴信仰が崩壊か存続かの過渡期であることもその要因か?受験勉強はするが、基礎的な学力低下が起こっているのは、勉強して偉くなって何か得するのか?という疑問が生じているからか?戦後の高度成長期は頑張って勉強して大学へ…

そうすればよい会社に就職できる。そうすれば幸福になれる。などという人生の方定式が存在した。仮に、高校に行けず、大学にも行けずとも、「勉強でがんばる」ことはなんらかの報酬に直結するような価値があり、これが若者の全体の学力を高めていた。高校3年のときに、クラスで一番だった女子は、早い時期から、家庭の事情で進学をしないと決めていた子。

彼女は高校卒業と同時にJA支所(かつての農協)に就職したが、当時やりとりした彼女の手紙には、親族・友人に対する預金勧誘ノルマがキツクて苦しいとこぼしていた。成績がトップであっても、勉強と営業能力は無関係であり、できないこと、苦手なことを要求される非情さが社会の現実であるのを自分は知った。そういった社会の現実は、今も昔も同じであろう。

勉強がよくできることと実社会の現実はリンクしない事が多い。昔と違って昨今は、少々勉強が出来たくらいで就職はできないし、勉強で頑張ったからって報酬をたくさんもらえることはない。それでも勉強を頑張るやつとまったく勉強しないやつの、二極化が生じている。前者は医師、弁護士、公認会計士、MBAといった、報われる可能性の高い資格や職業を目指す輩である。

イメージ 4

本人が自分の将来を見据え、目的を持って勉強するのはいいが、2つの親殺し事件は、いかにも日本的である。1980年11月に起こった「神奈川金属バット殺人事件」は、東大経済学部を卒業し一流企業に勤務する父親が、2人の息子たちにも一流大学、一流企業へ進むことを期待し、意欲を持ち努力しさえすれば、一流大学に合格できるはず、というのが父親の人生哲学である。

母親は夫を尊敬し、夫の方針に従って子供の躾、教育に当たってきた。長男は両親の期待通りに一流大学に進学し、一流企業に就職する。しかし、2歳下の次男は有名大学の付属高校の入学試験に失敗したあたりから成績が振るわなくなり、次第に父親の期待から逸れていく。2度の大学受験に失敗し、もう1年浪人させて欲しいと父親に懇願し、浪人生活2年目に入る。

予備校に通うと毎朝家を出るが、予備校には行かず時間とお金を浪費する。ある夜、父親の定期入れからキャッシュカードを盗んだことがばれる。身に覚えのない現金盗難を疑われ、父親から「家に泥棒を置くわけにはいかない。出て行け!」と激しく叱責される。こんな場面ではいつも父親を宥め、次男を戒め、支援してくれていた母親も、この夜ばかりは違っていた。

次男は2階の自室でウイスキーを呷り、やるせない気持ちを紛らわしていたその時、父親が部屋に入ってくる。酒を飲んでいる次男を見て、さらに怒りを爆発させ、「大学に行くのを止めて、明日、出て行け!」と足蹴りする。次男は追いつめられて逆上、ウイスキーをさらに飲み犯行を決意する。もう一件は、2006年6月に起こった、「奈良自宅放火母子3人殺人事件」である。

イメージ 5

奈良の高校生が自宅に放火し、母と弟妹二人を焼死させた事件で、高校1年生の長男は調べに対し、「父親から成績のことで再三叱られたことが嫌になり、すべてをなくし、リセットしたかった」と供述。医師の父親は長男にも医学部に進学することを期待し、ICUと呼ぶ勉強部屋で勉強を見るなどしていたが、時には熱心さのあまり、長男に暴力を振るっていた。

これらの事件は外国では例外はあれ、一般的に起こり得ないのではないか。子供が親に暴力を振るうなどは、キリスト教の倫理観が存在する社会では起こり得ない日本独特の問題である。個人の能力や個性を尊重する西洋諸国では、親が子供の将来像を描き、それに沿って無理やりレールを敷き、時に叱咤激励、時にプレッシャーをかけてレールの上を進ませるなどあり得ない。

他のアジア諸国でも儒教的精神、あるいは仏教が日常生活の中に生き、血縁的繋がりが強く、子供が親に暴力を振るうことなどもない。親に暴力で抗する、言葉で抗する、これらは反抗期という自我の芽生えで必然的におこるが、それができなくて自我と悶絶したあげくに自殺を選択する子も少なくない。自殺は思考の結果というより、思考停止ということであろう。

親への反抗は殺す、暴力、言葉、自殺、それ以外にも選択肢はある。たとえば家出もその一つであろう。原因不明の家出には連れ去られなどもあるが、親や家庭が嫌だから家出する子どもはいる。これらの中で自殺を選択する子は、デリケートな性格であろう。親との問題に限らず、危機に際してすぐに上手く行かなければ死ぬしかないという思考の持ち主は傷つきやすい子だ。

イメージ 6

いじめや親との問題に限らず、大人にあっても不況の進行に伴う自殺の増加をみるに、日本人はデリケートな人種である。ストレスに弱く、危機に及んですぐに思考停止になりやすく、「もう死ぬしかない」という心境に追いやられる。戦時中の「特攻」や「万歳攻撃」、「玉砕」の数々は、日本人のそうした情動の典型といわれる。同じ敗戦国のドイツと比べてみるといい。

ナチス・ドイツは敗北濃厚にも関わらず、本土決戦を行い、ヒトラーが自殺するまでベルリンで市街戦を敢行したが、特攻や万歳攻撃などは皆無であった。前線に駐留するドイツ軍の各部隊は、敗北が決定的と判断した時点で連合軍に降伏した。「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本軍軍紀が、ドイツ軍との違いによるものだが、こうした軍紀そのものが思考停止である。

戦時であれ、平和な時代であれ、日本人は追い詰められるとすぐに自殺をする。キリスト教圏は自殺を禁ずる教義があったからともいえるが、危機に瀕してじたばたしない潔さという価値観を美学体系として日本人が持っていたのは事実であろう。自殺は人間に普遍的に見られる行動だが、自殺の美化、切腹、男女の心中(あるいは親子心中)は、日本人の伝統である。

日本人の文化意識「もののあはれ」は、日本人が情緒的人間である事を示す一面であるが、自殺という行為も日本人の情緒的意識ではないかと思いたくもなる。ハラキリは日本を代表する文化であるが、これは自殺を美化したものであり、このような様式美と名誉が与えられた自殺方法ないし自殺刑は、日本以外に存在しない。三島由紀夫もこの事に自覚的だった人物である。

イメージ 7

ハラキリなどというマゾヒズムは、突きつめると何のことかさっぱり分らない。外国人があんなバカげたことをして一体何になるのかと思うのも道理である。が、論理的に物事を突きつめず、ある時点で思考を停止させることで、「文化的意味だ」といわれれば、それ以上はないのだ。人間がオカシイと感じることに意味があるというのは、その時点で思考を停止させたものであろう。

だから「意味があるのだ」という言葉が生きてくるのであって、突きつめて考えると、特攻も、心中も、ハラキリも論理的意味はもたない。日本人がプリンシプルを嫌い、何事も情緒的判断を好むなか、プリンシプルに生きたカッコいい日本人と言われたのが白洲次郎である。彼はまた、「日本人がプリンシプルを持たない限り、永遠に敗戦と戦後を終えられない」と見ていた。

日本人に自殺が多いのは、日本人が情緒的な民族であるからという考えは間違っているのか?確かに、「情緒不安定だから自殺をしたのでは?」という言い方がなされる。情緒が不安定で自殺というなら、情緒が安定すれば自殺はないとの論理に受け取れる。民族の分類としての「情緒的」と、人間個別の精神的・情緒的の「情緒」とは「木を見て森を見ず」の木と森の違いがある。

自殺は、人の生き死ににかかわる極めて個人的な問題であると同時に、生活苦や過重労働、介護疲れやいじめ、それらと通底する社会的な問題である。そういった極めて今日的な社会の課題が、自殺の問題に凝縮されているともいえる。だから自殺は情緒的な問題ではないといえなくもない。であるなら、自殺を「情緒的な問題」と考える自分が、情緒的なのか?

イメージ 9

イメージ 8

と、自己問答しながら、少し意味の取り違いに気づく。自殺は想像でいうなら、思考停止状態でなされるのではないのか。また自殺は、死に行く我が身をある種美化する情緒性もあるのではないか?死に行く我が身は汚れているなどと思うより、美しい行為であると思うのではないのか?自分が死ねば、きっと周囲の誰かが悲しんでくれる、同情してくれるという思い。

そういうものが自殺者にあるなら、自殺は間違いなく情緒的であろう。遺書の多くは実に美しく情緒的に書かれている。もし、自殺を醜いもの、汚いもの、バカげたもの、アホのすること、間違ったもの、正しくないもの、損なことなどなど、考えたらできないのではないか?いや、それでも死ねるものなのか?わからない…。自殺はワカラン。記事はこれくらいにしとく。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>