"人を殺すのはよくない"理由の中に、"人を殺すのは自分を殺すことになるから"というのがあった。酒鬼薔薇こと元少年Aも「(人を殺すのが)どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるのです」といっている。実際に人を殺した人間として説得力がある?
「ある」と答えた人に驚いた。元少年Aの答を「説得力がある」と思った人間は、彼の言葉を評価したことになる。「人を殺さないでください。もしやったらあなたが苦しむから」と、この言い方をだ…『元少年Aこと酒鬼薔薇は、学童を5人も人体実験と称して殺傷した奴ではないか?そんな罪人の言ってる事なんかくだらない!』そういった差別主義批判ではない。
「自分が苦しむから人を殺すなって」、こんな言い方ってあるか?「人の物を取ったら自分が苦しむから止めなさい」とどう違う?「万引きしたら苦しむよ」と、言っている。他人の物を取ったり、盗んだりで苦しむことはないが、命だと苦しむ。これのどこが素敵な言葉なのか?あまりに自分中心的な考えである。ではいうが、ISIL(イスラム国)の奴らを見よ。
彼らは人を殺してな~んも苦しまない。ということは、人を殺して苦しむこと限らないのだ。元少年Aは「苦しんだ」というが、謝罪(贖罪)の本質は言葉ではない、態度(行動)と自分はみる。とにかく、自分が苦しむから人を殺すなというのは、納得できない。苦しまなければ殺っていいのか?自分が苦しむ、苦しまないに関わらず人を殺してはいけないんだよ。
他人を思う(いたわる・配慮する・思いやる)、そういった心を人間は育んでいかなければならないが、人を殺すのに、自分の都合(理由)など関係ない。という情緒を持たない人間なのだろう、元少年は。それは単に彼の性格か?この言葉に賛同・賛美する人間は、基本的に自己中な気がする。人を殺してはいけない理由は、自分の都合より、相手の都合考えることだ。
「悪事をしてはならない。それは他人のためか、自分のためにか?」という設問について考えればいい。人は子どもの頃に親から「他人に迷惑がかからぬように…」といわれる。なぜそのように躾をするかといえば、自分は自分のことしか分らないからである。自分の欲、自分の喜び、自分の快楽は分かるが、他人のそれはまったく分らない。理由は他人だからである。
他人の心と自分の心はつながっていないからである。それでも、人間が社会で生きていく以上(二人も社会)、相手の心や気持ちを思う、洞察する、そういった想像力を働かさなければならない。親はそれを躾けようとするのだ。自分勝手では生きていけない、他人に迷惑をかけては生きられない。その大切さを教えるのだが、なかなか自分以外の事に目を向けられない。
そのために規則を設けるのである。「法」は、規則の中でもっとも重いものだ。それで暗黙に縛っておかないと、人間は自分の「欲」に負けてしまう。理性と感情のぶつかり合いの中で、感情が勝ってしまう。「悪を行為するのは、他人のためではなく自分のためにである」というのは、言葉だけで見ると崇高に思える。「勉強は人のためにするのではない、自分のため」。
「他人への親切は他人のためするのでなく、自分のためにする」。こういう主体的な「生」は素晴らしく、自己向上心の賜である。善い事はそれでいい。人のためにとか、人が見ているから善い事をする人間などたかが知れているが、悪事は違うようだ。悪事をしないのは自分のため、という自制心より、他人のためにしないと考えるのがよいと思うのだ。
他人に「善」を施すのは自身の快感となるなら素晴らしいが、他人に「悪」を施すのは自身の快感であってはならない。しかし、他人への「悪」は快感で行われる。悪いと思っても「定め」に負けてしまう。自分の都合(欲望)に負けてしまう。悪を行為するかしないかの際、普通心が葛藤するであろう。その時に利他を優先させたら、悪は行為されないであろう。
悪を抑止するためには利己より利他が勝る。他人のために悪事をしないという心を育むべきでないか。万引きするかしないかを葛藤の上、行為する人間。葛藤などまったくしないで、簡単に行為する人間。葛藤の末にやらない人間。この中でどれが善いであろうか?道徳の授業で奨励されるのは最後の、「葛藤の末にやらない」であろう。が、更に上回るものがある。
それは、「葛藤もなにもない上、万引き等絶対にやらない」、この態度である。「何の葛藤もなく悪をする」の対極。これはお金を出さないで物を得たいという欲がない上に、善悪の倫理観が備わっている人。理由もヘチマもない。葛藤などもあり得ない。この情動を「観念」という。つまり、人を殺す理由などあり得ない。観念的に「悪」だと思っている人は最強であろう。
そういう観念を植付けるために躾をするのである。「約束には遅れない」、「借りたお金は返す」。前者は時間の観念、後者は金銭の観念を教え、身につけさせるためにうるさくいう。善悪の基準を個々に委ねるではなく、普遍的な観念として位置づける。これで人間は最強になる。最強の意味は、悪の行為に悩まない、葛藤しない。自分は絶対的な道徳としてそれらを持っている。
人の物を取るのなど理由抜きに悪。借りたものは返す。約束の時間には遅れない。人を殺すのも理由抜きに悪。自殺も自分が自分に行う殺人であり、理由抜きに悪。これらは、いちいち理由を考えていると、都合のいい方向に向いてしまうからだ。人間は弱い、だから観念で封じ込めておく。が、人間には矛盾がつきもので、その辺りを処理する思考は必要である。
「人を殺す=悪」を観念とするなら、「お前はお前を殺そうと向かってくる相手に、黙って首を差し出すのか?」、「国家に戦争に借り出されて、人殺しは悪だからと一回も引き金を引かないのか?」、「死刑は殺人ではないのか?」などが矛盾として沸き起こる。果たしてこれらに答を持っておく方が、自分の行動に説得力をもてるであろう。キーワードは「人」である。
同じ人でも、「自分を友と迎える人」と、「自分を殺しに向かってくる人」の「人」は別である。人はいろいろに変化する。つまり、同じ人間でも自分を殺そうとする人を普通の人ではない。戦争も人は敵と変化する。変化するものに対し、こちらも変化をしなければ、その人はバカである。親も人、他人も人なら、他人には言えるが、親に言えないことはあろう。
人によって言葉使いを変えるのも、人に対する変化であろう。様々な人に対してそれぞれの人に対して適切な言葉使いができない人間はバカであろう。やんわり無能といってもいいが…。すべての人間に友だち言葉で会話する人間は、適応性、対応力がないという意味で無能である。社会で生きて行くなら、身につけなければならないことは多い。
元少年Aの「なぜ、人を殺してはいけない」の答に思考を割いたが、彼が自己中人間であるのが、言葉から読める。自殺者の一般的な心理を「自己中者」とあるのを多くネットでみるが、自分はそうは思えない。むしろ逆ではないかと思っている。最近の二人のエリートの自殺といえば、長崎高一殺害事件の少女の父親、STAP細胞関連における理研の笹井氏である。
責任感と周囲の視線に耐えかねての自殺と思うが、周囲の目線と自尊心の崩壊後も逞しく生きる佐村河内氏に自殺の二字はない。上記の二名はエリートの脆弱さなのであろう。元少年Aも自殺などあり得ないタイプに思える。理由は人を踏みつけても、自分の「生」を実行できるからであろう。コイツは死んだ方がマシと思う人間はいないが、それに近い思いを抱く者はいる。
元少年Aは被害者遺族に許されてこそ贖罪である。ところが彼はそれらを裏切るかのような手記を出した。そのような事でお金稼ぎをせずとも、被害者遺族との雪解けに向かって、彼の人生は新しく作られつつあると思っていた。だから手記に驚き、中を読む以前に行為に怒り心頭であった。そんな彼の一字一句など、読む気も起こらなかったのは、さすがに憤慨である。
読んではいないが、謝罪の言葉は用意され、実際にくどいくらい本分には謝罪の言葉があったという。謝罪をしながら盗みをするような奴はいる。裏返せば、物を盗んでも謝れば許されるという人間であろう。そういう人間は、許しを乞うと態度自体がそもそも偽善である。自分勝手な偽善を平気で行えるのは、許しを乞い、相手に自分を認めてもらいたいからであろう。
詫びたり、謝ったりは自分のためである。決して相手のためではなく、自分の存在を認めてもらいたい行動である。だいたい、憤慨・立腹した人間は、そういう対象の存在を認めないし、無視するという感じであろう。罪の意識を強く感じているなら、むやみに謝れないと思うし、それが相手に対する誠実ではないの?「謝ったらどうなんだ?」と謝罪を求める相手もいる。
であるなら、相手の指示に従うべきである。その場における形だけの謝罪であれ、相手側が要求するなら答えるべきだ。相手の要求もないのにやたら謝罪する人間のズルさ、心の弱さとはいえまいか。自身の犯した悪(罪)に対する制裁は、相手が自分を憎み殺そうという怒りを受け入れることである。そういう強い心で自分の罪に向き合い、相手の怒りに向き合うことだ。
ところが詫びることで、相手が自分を抹殺したいという怒りをくじき、そのことで許され、自分の存在を認めてもらおうとするのは、弱者の偽善行為である。本来、心弱き善人が成すはずのない、人殺しという行為をしながら(はずみで死に至らしめた過失致死は別にしても)、手の平を返したような謝罪で自分を売り渡す。そういう人間が人を殺せるものなのか。
自らの確たる意思で持って人を殺すような悪の権化ともいうべく「愛知・闇サイト事件」や「女子高生コンクリート殺人」、「山口・光市母子殺人事件」などの凄惨な事件の犯人をして、「まったく反省の態度がない」、「ふてぶてしい」、「人間というより鬼畜」などとマスコミは書くが、当然であろう。鬼畜・極悪人間が事件後すぐに、ちゃらちゃら謝るはずがない。
彼らは善人ぶった演技はしない。酒鬼薔薇も家裁による『処分決定要旨』の処遇理由で、「少年は、表面上、現在でも自己の非行を正当化していて、反省の言葉を述べない」とあるが、そういう人間であるからこそ起こす犯罪である。あれ程のことをし、「少年は自己の非行を悔い、被害者並びに被害遺族に対して、反省と強い謝罪の念をもって…」である方が理解に及ばない。
元少年Aの手記は、型どおり遺族に謝罪すれば何を書いてもいいだろうという自己本位な考えを彼は医療少年院で身につけた。社会にあっては、媚び諂うことで利益を得ることも現実である。贖罪や更生とは程遠いそのような元少年Aの社会観であろう。そういった偽善を行為する限り、彼は生の実在感を手にすることはできない。謝ることで何が変わるというのか?
相手に及ぼした迷惑が取り返せるはずもない。言葉にする「謝罪」とて無意味であるにも関わらず、被害遺族の心情をくじくような行為は言語道断である。酒鬼薔薇に限らず、他者に認められて生きる、このため我々はありとあらゆる偽善を犯して生きているのだ。善良で善意な顔の裏にある真意は、弱々しく相手に取り入って生きようとする、人間の腹黒さであろう。
卑劣さと言っても過言でない人間もいる。いずれも本人は意図しているが、相手は気づいていないと思っている。確かに気づかぬ人間もいるが、気づく人間もいる。しかし、社会というのはそういう事を泳がせてくれるところでもある。つまり、社会自体が偽善で成り立っている。他人を偽善者というなかれ、あなたこそ偽善者である。もちろん、自分も偽善者である。
元少年Aを擁護する気はないが、彼は真に行動者であろう。人体実験と称して女児をハンマーで殴打し、人間の壊れ方を調べたいという、行動主義・実験主義者。想像力だけでは満たされないゆえに行動する。善悪の判断基準の欠如というより、善悪など考えない。万引き行為者は犯罪意識の欠如だが、人間の欲望と犯罪意識の自己格闘で、意識が上回れば犯罪はしない。
また、元少年は自らの犯罪の流れや過程を自身が楽しみたいという、それがマスコミに対する酒鬼薔薇によって起こされた挑戦的態度であろう。あのような人間がどういう理由で作られていくのか、心理学的な考察はなされるのか否かは分らない。特異な変種なのか、それも分らない。しかるに、更生プログラムが用意されてあって、医療行為として治癒するのか、それも分らない。
思い出すのは映画『真実の行方』で、エドワード・ノートン扮するマーロン。彼は人格障害を弁護士に告げる。弱々しくも善人気質な自分と、気性の荒いサディスティックな自分を見せたが、一切が罪を逃れるための演技であり、正常なマーロンはお硬くて頭のいい弁護士を騙して楽しんでいた。少年Aの医療少年院には、早熟で利発な彼に騙されない優秀な専門員がいたのか?
かつて日本の少年法では、どんな犯罪を犯した少年でもあまりの凶悪犯罪を除き、更生の可能性があると保護処分となり更生施設に送られた。凶悪な犯罪を犯した少年達が更生する可能性はあるのだろうか?法務省『犯罪白書』に依れば、少年犯罪の方が成人の再犯率よりも低いようだが、それでも40~50%内外という。記憶にあるのは「三菱銀行人質立てこもり事件」の梅川昭美。
彼は15歳のときに殺人を犯し、少年院に入ったがわずか1年余りで出所している。 そうして30歳の時、彼の人生における2度目の犯罪が、あの凄まじい「三菱銀行人質事件」。少年事件で捕まったとき、梅川は精神鑑定にかけられ、「情緒性欠如の精神病質」と判断されていた。「病気」ではなく「異常」という判断である。なぜに1年で出れた?彼はマーロンを演じたのか?