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「自殺」について ④

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さて、昨日6月26日は何の日であろうか?「何かの起こった日」というのは、ナゾナゾ的答え方のようだ。で、正解は「長女の誕生日」である。○○家限定のローカルなクイズだが、では、6月24日は何の日だ?ヒントは、誰かの死んだ日。これで分かる人は余程の知識人?というより、余程のファンであろう。第二ヒントは、1969年6月24日である。第三ヒントは、自殺である。

第4ヒントは、当時20歳の女子大生である。第5ヒントは、立命館大学である。第6ヒントは、彼女の出身は栃木県である。第7ヒントは、彼女のイニシャルは、E・Tである。第8ヒントは、学生運動に熱心であった。第9ヒントは、死後、彼女の日記が父親によって出版され、ベストセラーとなる。最終ヒントは、本のタイトルは『二十歳の原点』という。と、ここまで言えば…

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正解は高野悦子。彼女は鉄道自殺であった。神奈川の中3女子もだが、駅のホームから電車に飛び込むのを飛び込み自殺というが、高野は、深夜に真っ暗闇の軌道上を歩いていてひかれた。これは飛び込みとは言わないだろうが、分類的には飛び込み自殺である。なぜ、鉄道なのか?轢死を選択する者は、最もむごたらしい死にザマになるのを知らないのか?

それとも、死んだ後の自分がゴミであろうが細切れミンチであろうが、どうでもいいのか?それとも、電車への飛び込みは衝動的なものが多いといわれる。電車が速いスピードでやってきて、「あ、今なら死ねる」と、ふらっと電車の前に…、そういうことなのか?軌道上を歩いていた高野も死ぬためにそうしていた。痛いのは嫌だろうから、電車に轢かれるのは痛くなさそう。

今から死ぬとはいっても、やはり痛いのは嫌だろう。自殺手段をみると、もっとも多いのは首吊りである。なぜなのか?痛くないのか?苦しくないのか?実は、首吊りは苦痛を伴わないのを自分は知識として知っている。ふつう、首を絞められると、息ができなくて苦しいと、多くの人は思うだろうが、首吊り自殺は気道を塞がれ、酸欠で死ぬのではないのである。

柔道等の絞めワザや、男女のsex時の、"窒息プレイ"と称されるような、頚動脈の血液を脳にいかないようにすることでの気絶(あるいは失神状態)であるから、息苦しいなどはなく楽な死に方である。死刑刑罰における絞首刑はそれとは違って、落下という物理的な方法を用いて、頚椎を折る(骨折させる)ことにある。瞬間意識が跳ぶのでこちらの方が苦痛がない。

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とはいえ、首吊り遺体は惨たらしいくらいに汚くなる。涎や鼻水、ウンチもオシッコも垂れ流しになるというが、死んだ後の事は知ったことではないといわれると、羞恥心もクソもない。几帳面な人、あるいは「立つ鳥、後を濁さず」を頭に思い描く人は、出すものは出して、という事もないではないだろうが、なにぶん経験もないし、体験談を聞いたこともない。

確かに落下による頚椎骨折なら楽にしねるが、木の枝などに縄を吊るして、リンゴ箱の上に乗っかって箱を払うという首吊りは、そうそう楽ではないという説もある。アラブの国などでは衆目の面前で行われる首吊りもあり、動画サイトでみると結構、もだえ苦しんでいるようだ。結局、すぐに気を失うことはなく、3分間ていどは苦しむことになるのだろう。

痛くない死に方、苦しまない死に方は、なるべく生と死の時間感覚が短い方がよいし、それを「瞬間」ともお、即死と言っている。となると、高いところから飛び降りるのがいいのだろう。しかし、あまり高いと死に向かう時間が長くて、それは恐怖心なのだろうか?こういうことも経験的に聞けないので想像するしかない。あまりの恐怖で落下の際、失神するとも言う。

死ぬ予定はないから、どれが楽か、どれがキレイな死かはどうでもいいとして、高野悦子の『二十歳の原点』は、今でも売れているという。彼女の本がなぜにベストセラーになり、こんにちなお売れ続けている背景には、日記というプライベートな、それも思春期時期の少女の心の内を、という覗き見趣味的なものあろう。実は彼女の日記は父親によって加筆修整されている。

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それが娘の日記を世に出すという編集者としての父親の、最低限の愛情であり、配慮であったのだろう。これを世間に出すのを母親は反対であったらしい。男と女の感受性の違いであろう。そっとしておいてやりたいというのは紛れもない母親の心情であろうし、父親の意図(よくいえば公益性)は理解できる。これで一儲けをなどは、出版動機としては皆無であろう。

社会全体の大学進学率が高くない時代、ましてや女子の進学率などは一桁の時代に、彼女は栃木の有名女子高校から立命館大学の史学科に進学する。当時は「進学校」などという呼び名もなかった時代である。今で言う偏差値の高い高校であるから、受験勉強をした様子も、家庭教師を雇った形跡もない。向学心はあれど経済的余裕がない限り、そうそう大学には行けない。

高野のことは数度書いたが、「自殺」という主題で、同世代的に彼女の名、顔が浮かんでくる。だから、彼女について何を記そう、何を書きたいというのではなく、時々に浮かぶ彼女の何がしかを、思い出として復唱する。過ぎ去り日、永遠の二十歳の彼女に思いを寄せるものもいれば、「彼女が一体何をし、何を残したというのだ?」いうクソマジメな批判もある。


「彼女は『己を律せよ!』、『己自身に忠実であれ!』、『読書せよ!』など自らを叱咤激励するが、彼女がこれと言った勉強をしたあとは全く見られない。もっとも当時大学に行っても講義もゼミもほどんど行われていなかったので、アルバイトをしたり、タバコを吸ったり、伊達メガネをかけて背伸びをしたり、時々手首を切ったりするなどくだらないことばかりやっていた。」

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という批判もある。そういう奴が結構、AKBオタクだったりするように、くだらないものが人間には重要なのだという思考が欲しい。かの発言者はこう続ける。「学生運動が盛んで、しかも講義がないのならば、図書館に籠ってマルキシズムの本を片っ端から片づけていけばいいのに、彼女は史学科であるにもかかわらず唯物史観に関するまともな本を読んだ形跡は見られない。

そして彼女は心の空洞を埋めるべく男に救いを求め、失恋し、学生運動にも満足出来ず、自殺の道を選ぶ。こうして日記の要約を書いてみたが、なんだかちっとも面白くない。私が学生時代になんでこんな本がベスト・セラーになった(り、映画化もされたらしい)のか良く解らない。今の人にはもっと解らないであろう。」と、人は自分の脳に無いものは見えないのだ。

高野悦子を批判する人だからと言って、それは構わない。ものの見方はいろいろだからいいのだが、「くだらない」ものは、くだらないと思わない人には「くだらないもの」ではないし、普遍的で絶対的な「くだらないもの」がない以上、それは自由に思っていい。真理を見つけて批判する人などいない。人の多くは、自分の好き嫌いという価値基準で批判をしている。

したがって他人の価値基準にも耳を傾けるべきであろう。「大学は学問することだ。それもせず、心の空洞を埋めるべく男を求め、失恋し、学生運動にも満足出来ず、自殺の道を選ぶ。この程度のくだらない女ではないか」という批判は、批判者にとっては正しいのである。彼の意見を間違いとも思わないが、そんな教科書どおりに生きた奴なら本は出ないだろう。

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読む機会もないし、名すら知らない人間である。善悪正誤よりも、彼女は高野悦子的に生きたから、高野悦子として名を残している。それ以上でも以下でもなく、批判に晒されるなら無名のナナシゴンベでよかったと、この批判者は言ってよいのだ。ナナシゴンベなら批判の対象とはならない。この批判者は高野悦子が高野悦子的生き方を批判するのは、それは賛同と同じこと。

つまり、批判は賛同の裏返しである。自分にはそのように聞こえてくる。高野悦子の存在なくして、この批判者の批判は存在のしようがない。「私が学生時代になんでこんな本がベストセラーになったり…」というのは社会を見ていない、あるいは知らないのであろう。「何でAKBの曲が出す度に100万枚も売れるのか、さっぱりわからない」と言ってるのと同じこと。

ベストセラーは、良きものとは別だ。漱石や太宰の本を良いと思って読むのはイイことだが、漫画しかり、高野の日記をくだらんといっても、売れればベストセラーになる。AKBの歌がくだらんといっても、売れるからミリオンセラーなのだ。なぜそうであるか、そうなるかを知るのが、時代を知るということ。吠えてるだけでは負け犬である。AKBは聴かないが、売れる理由は理解できる。

同時代に生きる者として。この批判者は小心のようで、最後にこう結ぶ。「万一高野悦子さんのご遺族が読んで不快になられたら、私の描きたいのは「高野悦子」という一人の女子大生の精神病理ではなく、学生運動と失恋と自殺以外のことは何もしなかった女子大生をことさらに取り上げてベストセラーにする時代精神である、ということでご容赦願いたい。

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この時代に、これだけ恵まれた環境にいながら学問らしい学問をしなかった高野悦子という人は怠慢としか言いようがなく、その点では高い学費を支払った親御さんと見解の一致を見られるものと思う。また、彼女がもし今学生生活を送っていれば、もう少し有意義な生活を送れたという点でも多分意見が対立することはないことであろう。」

高野が今学生なら、「有意義」な生活を送れたというのは、学生運動のことをいっているのだろう。学生運動が過熱した時代に、それに沿って生きるのが有意義なのであった、歴史に「たら」をいうのは、ケネディがオープンカーを止めて、防弾ガラスのクルマの乗って手を振っていたら、などと言ってるようなもの。彼は自らがオープンカーを望んだのであった。

歴史の「たら」は後人の特権だからいいが、高野悦子の『二十歳の原点』を、大学で真面目に学問した者の批判の矛先になるならそれでいい。だから価値があるんだろうし…。読む側として苦しみを覚える部分は多く、以下の詩は彼女の排他的な性格に引き込まれる。

◎ 6月19日 雨 「ティファニー」にて
 一切の人間はもういらない 人間関係はいらない
 この言葉は私のものだ すべてのやつを忘却せよ
 どんな人間にも 私の深部に立ち入らせてはならない
 うすく表面だけの 付き合いをせよ
 一本の煙草と このコーヒーの熱い湯気だけが
 今の唯一の私の友 人間を信じてはならぬ
 己れ自身を唯一信じるものとせよ
 人間に対しては 沈黙あるのみ

 暗闇のなかで静に立っている私
 今日はじめて夜の暗さをいとしく感じる
 暗い夜は 私のただひとりの友になりました
 あたたかく私をつつんでくれます  
 夜は
 己のエゴを熾烈に燃やすこと!
 己のエゴの岩奨を人間どもにたたきつけ
 彼らを焼き殺せ!
 彼らに嘲笑の沈黙を与えよ1
 ちっぽけな つまらぬ人間が たった独りでいる。

威勢のいい言葉を吐くも、ふっとひ弱で孤独な自分に立ち返る。躁と鬱とが交互に襲い掛かる中で、3日後の22日、彼女は最後の日記を書き、その2日後に生涯を閉じた。22日の日記は、以下の出だしで書き始まっている。

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◎6月22日
また朝がやってきた。19日以来の、このどうしようもない感情、うさ晴らしに酔うだけ酔って、すべてを嘔吐し忘れた方がよかったかもしれない。死のうとする人は、その様子や前兆が日記や言葉に出ないままに死に急ぐようだ。最後の詩にある「笛」というツールが何かを意味するように唐突に出現するのだが、「笛」が何かは分らない。

 旅に出よう 
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち 旅に出よう

 衣服を脱ぎすて すべらじゃな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって 
 湖の水面を暗やみの中に漂いながら 笛をふこう
 小舟の幽かなるうつろいのざわめきの中
 中天より涼風を肌に流させながら
 静に眠ろう
 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう
  


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