25日午前6時半頃、神奈川県横浜市青葉区の東急田園都市線「たまプラーザ駅」で、都内の私立中学3年生の女子生徒が電車にはねられ死亡した。女子生徒がホームから線路内に小走りで飛び込む様子が防犯カメラに映っていて、同様の目撃情報から自殺とみられている。女子生徒は制服姿で登校中とみられ、ホームには通学カバンが残されていた。母親は「普段と同じ時間に家を出た」と話している。
自殺の記事を書いている最中に、なんとも悲しい知らせである。彼女の親の気持ちは、それなりに理解はできるが、中3女生徒の気持ちはまったく分らない。何もなくて死ぬことはないだろうから、何かがあったのだろうが、その「何か」が今、わかったとしても何になるのだろう。親はその「何か」を知りたいだろうが、時すでに遅し、知ってみても気休めでしかない。
早朝の6時半に駅のホームということは、1時間前には起床するのだろうし、同様に親も子どものために早起きして準備をするわけだ。どちらも大変だが、親の方はそれもやりがいとなろう。親ならわかりだろうが、どんなに大変でも子どもを育てていることが「生き甲斐」という、それが親というものだ。そこを思うと、しんどい、疲れているのは子どもの側かも知れない。
一般的にというと変だが、親は子どもを近くの学校に通わせたいと思うのだが、遠くの私立中学に通わせる親を、一般的と言うのは違うだろうが、頑張る子もいるが、頑張れない子もいる。自殺の原因は学校にあるのか、家庭にあるのか、別の何かなのかは分らないが、少女はそんな日々の「何か」に頑張れなかったのだろう。勉強が頑張れない子も、部活が頑張れない子もいる。
いじめや陰湿な人間関係を頑張れない子もいる。親との人間関係に疲弊する子もいる。「学校なんか大嫌い」、「親なんかいなくなればいい」、これらは子どもの心身を揺さぶる言葉としてしばしば耳にするが、それでも生きていかねばならないのか?と言われると、「それでも生きていかねばならない」と言うのは簡単だが、「なぜ?」と言われると正解は見つからない。
「生きていく」という事において、万人に共有の普遍的な正解があるのか?と自分は思うし、人それぞれに相応しい正解があると考える。誰かが誰かに、「あなたの正しい生き方はこうですよ」とは言えるのか。自分にあった、自分に相応しい正解は、誰あろう自分が見つけるものだから。人間の置かれた環境は(子どもの時期から)、一方的に与えられたものもある。
自分の意思とは無関係に、親の都合で従わされる場合がほとんどである。積極的にそれに従う、消極的に従う、積極的にそれに抗う、消極的に抗う、あきらめ気分で虚無的にやり過ごす、などの選択は子どもに委ねられる。親が王様で、子どもは奴隷ではないのだから、自分の意思を見せてもいいんだし。という前提で(つまり奴隷のように隷属させない親)上の選択を眺めてみる。
そして問う。「こどもの視点に立ってみて、どれが正しいと思うか、客観的な考えを述べよ」。「客観的に」としたのは、正しい判断をさせるためにである。でないと、親が現実に子どもに押し付けていること、望むことを「正しい」とする場合があるからで、それを自己正当化という。正当化とは、(正当でない)自分の言動などを、道理にかなっているように見せること。
少し話を広げると、医師には「正当業務行為」というのが認められている。これは、読んで字の如しで、"正当な業務による行為"のこと。つまり、刑罰法規に触れる行為であっても、違法性がないものとみなされて罰せられないという特典だ。そうでなければ人の体を切り刻むという行為は、何が起こるか分らないという、予測し得ないリスクをも背負っている。
最低限、人体のメカニズムや知識は持っているが、持っているとはいっても、学んだ知識である。経験という知識を得るためには、とりあえず非経験の段階から、人の体にメスを入れるしかないのだ。医療ミスと一言でいうが、書類の整理ミスや、レジの打ち間違いミスと違って、人の生命に関わるミスというリスクを医師は負う。いちいち咎められたり収監では気の毒であろう。
「千人殺して一人前」という比喩はこういうことだ。学んだ知識は大事であるが、「習うよりは慣れろ」の世界である。親の子に対する欲というのは、「正しい」と正当化されるもので、間違ったことを子どもにやっていると実感するのは親も辛い。「自信」というのは、そういった「負」の要素を排除し、これがいいんだ、これでいいんだ、子どもの幸せのためなんだ、も自信となる。
かつて奴隷というのはある種の職業であったが、人が人をそのように無碍に、非人間的に扱う時代は過去の遺物である。「奴隷解放」の歴史が示している。日本では「女工哀史」や「姥捨て山」、「唐ゆきさん」の時代もあった。避妊具のない時代に子どもが多くなるのは自明の理、おまけに貧困で食うに困る状況であらば、口減らしのために娘を売る非道理も正当化された。
そんな哀しい時代、歴史の積み重ねの上に我々は存在している。欲で贅沢しか見えない(興味ない)人間は、「温故知新」という学習法もある。「われらはいかにあるかを知るも、われらがいかになるかを知らず」と、これはシェークスピアの言葉。「すべて昨日という日は、阿呆どもが死んで土になりにいく道を照らしたものである」と、これはナポレオンの名言である。
自分が親として長女に課したことは、自己正当化をすれどもすれども、理性に阻まれた。結局、強引に何かをやらせるということは、自分が自分の憎しみを抱いた親と同じであるということであった。いかなる理屈も自己正当化でしかなかった。中学のある音楽教師が自分にこう言ったのを覚えている。「やりたくないピアノを押し付けられ、嫌でしかなかった。
でも、こうして音楽大学を出て教職に就いた今、親から無理強いされたことを感謝している。」その言葉を聞いたときにこう感じた。「彼のいうのも人の生き方であろう。一つの結果であって、普遍的なものではない。結果オーライというのは、結果が良かった場合にのみ成立する言葉」。世の中すべての親が、都合のいい結果を望み、自己正当化して子どもを育てている。
「こんなことは権威者の傲慢であって、許されない」という自分がリベラルな考えにあるのも、傲慢な母親に育てられたからである。同じことをやっているようでは、母親を批判する資格はない。何かを批判しながらそれをやる偽善者など腐るほどいるが、たとい乞食に落ちぶれてもそんな人間より心は汚れていない。「心が汚れて何が悪い」という人間はそう生きて構わない。
書きながらふと我に返ることがある。どうも自分は「親」に対して批判的である。自分は今、紛れもない親であるが、母親は存命であるから「子」でもある。しかし、「子」という職業はとっくに放棄している。「子」を放棄することがこれほど自分を楽にするものであったか、その事を満喫している。親の呪縛に徒労する子は、さっさと意識を外せと進言したい。
存在することで精神を病むような親など百害と思っている。「親を大事に」という儒教的精神論は、親に大事にされた子の自然な発露であろう。福原愛がベソかきながら、卓球をやらされていた少女時代は、痛ましい思いで眺めていた。しかし、それも彼女の明るさがネガティブさを跳ね返したのであろう。バイオリニストの五嶋みどりの母親も傲慢極まりないと思っていた。
みどりは福原と違ってナイーブな性格から精神を患ったりもしたが、世界的なバイオリニストの肩書きは彼女にふさわしくないと自分は感じている。人には本当に自分の性格にあった生き方があるからだ。そんな福原の父が亡くなった時、【 福原愛「不肖の父」急逝でわかった「絶縁」までの親子修羅 】という見出しが誌面を躍った。彼女も親の被害者なのかと。
「2008年の終わり頃を最後に、一度も会っていない状態にありました」。福原の父武彦氏の死去が公表されたのは、都内で開かれた世界卓球選手権団体戦の記者会見後のこと。会見での福原は、卓球以外のことについては一切語らず、一方的にコメントを送っただけ。福原は10代前半の多感な時期から父親との関係に悩まされ、関係者にとっても親子関係についてはタブーであった。
確かに福原の卓球選手としての成長は、武彦氏の存在抜きに語ることはできない。「福原の競技生活を支えたのが武彦さんでした。練習環境を整えるために仙台、大阪、青森などに拠点を移し、専用卓球場も所有。卓球王国である中国出身のコーチも招くなど、資金の捻出が容易でないことは想像がついた。借金報道があった時は『そういうことだったのか』と思いましたね」(アマチュアスポーツ担当記者)
福原は明石家さんまとの卓球勝負に負けて泣いてしまう、そんなけなげな姿が茶の間の人気を集め、一躍国民的アイドルに成長。CM出演料は卓球選手としては破格の1本3000万円とも言われていたが、「バラエティ番組に出すぎの感もありましたが、父親の借金という理由があったのでしょう」(前出・スポーツライター)。親子の確執は、当人以外には分るまい。
親と子は敵対するものではないが、「万年雪に閉ざされし古城」のように、雪解けしないでお別れする親子もいる。ただ、ハッキリ言えることはどちらにとっても不幸なことである。生を受けて寝食を共にした同士が、口を利かない状況になったその事が不幸である。嫌なもの同士がつくろって顔を突き合わすより、顔を見ない、口も利かない、そのことを憐れとは思わない。
神奈川の中3少女の電車飛び込みという死に方は何という無残であろう。無残でない自殺があるとは思わないが、轢死体の悲惨さは、駅員がポリバケツを片手に体の一部を集める行為を想像するだけで分かる。ネットには「勇気がある」というコメントがあるが、断崖から海面に落ちるのも、ビルの屋上から宙に踏み出すのも、列車に飛び込むのも、首を吊るのも、勇気なのか…
原因が分からぬ自殺を家庭の要因と考えるのは、無知とか早計という以前に習性であろう。もし、我が子がいかなる原因で自殺したとしても、親の責任を感じないでいられない。いじめであって、失恋であっても、その他いかなる理由であっても、強い責任を感じるであろう。「そんな親のせいにしないで」と思う輩はいてもいいが、習性であり、自身の問題である。
つまるところ、親が責任を感じてもどうにもならない事なのだし、犯罪なら刑罰の問題もあろうから、原因を究明し、犯人探しをするのと訳が違う。昨日は2007年(平成19年)8月24日に『闇サイト殺人事件』と称された、「愛知女性拉致殺害事件」の主犯である神田司死刑囚の死刑が執行された。被害者の磯谷利恵さん(当時31)の人生を、金目的で奪った残りの2人は獄中にいる。
母娘2人のささやかな生活が一変、「娘は私の生き甲斐」と悔しさを社会にぶつけていた母親の磯谷富美子さんは、 「遺族にとっては刑が執行されることは大きい。事件のことを忘れたいと思うのが当たり前。そういう段階を終えたのかも知れません。私が(事件のことを)忘れたいのですから、利恵も忘れたいはず。だから利恵に一切、報告しません」と述べていた。
同じように社会に生息しながら、言われなき犯罪で肉親や拠り所を失う人を「不幸」、「不運」としか表現できないが、根拠のない行き当たりばったりの犯罪とは、まさしく交通事故のようなものである。事件でではないし、事故とも言いがたい天災の被害者も、同じように「不運」というしか言葉は見当たらない。我々は個々が、他人の不幸を痛ましく弔うことしかできない。
ネットなどで他人の不幸を嘲笑し、茶化すのも、人のいろいろ、それも社会である。中3少女の電車飛び込み自殺についても、「オレはハムスター飼ってるから、死ねない」、「迷惑駆けて死ぬなくそガキ」など言い合う、掛け合うのも社会である。愛知県大府市で2007年12月、徘徊症状がある認知症の男性(91)がJR東海の電車に はねられ死亡する事故が発生した。
一審の名古屋地裁の判決では、介護に携わった妻と長男にJR東海からの請求額通り、約720万円の支払いを命じていた控訴審の判決で、名古屋高裁は「長男には見守る義務はなかった」として、JR東海の請求を棄却、妻(91)のみに約360万円の支払いを命じた。長門裁判長は判決で、重度の認知症だった男性の配偶者として、妻に民法上の監督義務があったと認定。
外出を把握できる出入り口のセンサーの電源を切っていたことから、「徘徊の可能性がある男性への監督が十分でなかった」と判断した。一方、長男の妻が横浜市から転居し、共に在宅介護していた点を評価。JRが駅で十分に監視していれば事故を防止できる可能性があったとし、賠償責任を5割にとどめた。死亡した夫は「要介護4」、介護にあたっていた当時85歳の妻自身「要介護1」と認定されていた。
認知症高齢者らの電車事故が起きた場合、鉄道各社は通常、振り替え輸送の費用や人件費などを合わせた損害額を本人や家族側に請求している。ただし、家族らが支払いに応じるなどして和解することが多く、鉄道関係者は、「訴訟に至るケースは珍しい」と話したという。近畿日本鉄道(大阪)と、名古屋鉄道(名古屋)は、線路や駅ホームへの立ち入りによる死亡事故について。
認知症などの病気に起因しているかどうかにかかわらず損害額の賠償を遺族らに請求の構えのようだ。JR東日本(東京)や小田急電鉄(東京)も、「事故の原因や状況などを総合的に判断し、必要であれば損害賠償を請求する」と説明する。自殺は不慮の事故と言えなくもないが、認知症患者についての司法判断は納得できない。認知症患者の実態を裁判官は全く理解していない。
JR東海の告訴は訴訟権によるものだが、こんな判例を出す前に、司法修習生に介護体験をさせるのも一考だ。家族で介護する大変さや、上記、認知症患者について、裁判官には実体の把握がなさ過ぎる。首に縄でも縛っておけというのだろうか?NHKによると、認知症やその疑いがあり、行方不明になる人は年間1万人近くに上り、うち約350人の死亡が確認されている。