我々は、大人も子どもも、バカも利口も、貧者も富者も、死ぬという事においては平等であるが、死の年齢においては不平等である。生まれてすぐに死ぬ子もいれば、10歳で生を終える少年、20歳で命を落す青年、40歳で亡くなる壮年者、80歳で元気なお年寄りも、100歳まで生きるお年寄りもいるわけだ。これらの違いの原因を「運命」とすれば簡単にケリがつく。
「運命」という言葉は便利だとつくづく思う。上記を「運命」という言葉を使わずに説明できるか?できたとしてもそれは理屈もしくは屁理屈であろう。人の寿命の違いに真理があるとは思わないが、宗教をやれば「幸せになりますよ」あるいは、「長生きしますよ」と勧誘する人がいた。「バカかコイツは」と正直思ったが、何に限らず、勧誘とはそうしたもの。
都合の悪いことを振り撒いて勧誘するなど聞いた事がない。宗教=幸福という論理は、人間の幸福を宗教に結論づけようとする焦燥ではないだろうか。真実を語るというより、直感というのでもない勝手な思い込みで、そのようなことをいう教祖は、強引に商品を売りつける営業マンと同等にタチが悪い。「オウム真理教」の教祖麻原彰晃に空中浮遊の写真がある。
こんなバカげた写真を撮る麻原もアホだが、それを真に受けた信者たちは何だったのか?オウムの大幹部の一人上佑史浩は後に、「あんなものがインチキだというのは、最初から分かっていました」と言っていたが、その言葉は如何にも後出しじゃんけんである。その時に疑念のある事、信じない事は、その時に言わなければ、すべては後出しじゃんけんと言われる。
「当時は信じていましたが、後になって嘘だとわかりました」の方が、人間的に信用がおける。人はいろいろ変わって行くものだし、変わるのは悪いことではない。認識の過程というのは終わりのない過程であり、その過程で獲得された真理は、部分真理、あるいは相対的真理に過ぎない。それらは高次の真理によって越えられる運命にあるものでしかない。
科学や技術の発展の歴史と同じであって、「これが最高!」は、どんどん超えられていく。一つの真理は無数の結びつきを持った全体を説明するに足りず、事実は常に多面的な顔を持つ。自分のブログはよく何が言いたいのか、書きたいのか分らない。焦点もボケているし、話があちこち牛若丸のように跳び過ぎといわれるが、これは批判というより事実である。
書くことの真髄は、①言うべきことをもつ、②言うに価する、③適切に表現する能力をもつ、の3つが生きた文章になる。お前は、①が肥大し、③が欠如し、②の判断に迷っているのか?と問われると、一応、①言うべきことはあり、②言うに価するかは「?」だが、③は無くて未だ勉強中である。自身の感性の扉を叩いて、でてきたものを理性でまとめている。
ブログを書く作業の楽しみは、そういった自身を刺激することにある。"事実は常に多面的"と言ったように、あらゆることは関連の枠にあるというのが、世の中に対する自分の世界観で、それらを理性的にまとめることが書く娯楽である。何事も単純に見えるものは、その側面だけ見ているに過ぎず、事実はさまざまな内部矛盾を含んでいる複雑怪奇なもの。
単純化した論理はある種の普遍性をもちながら、狭隘さを免れないでいる。当面を説明し尽しながらも、欠落部分には目もくれぬという偏狭さに陥ることにもなる。自分はよく夢を見る。夢が醒めて思うのは、「何であんな夢を見たんだろう?」と、しばらくはその夢について考える。以前は目が醒めて、夢の記憶が消えないうちに夢の中の出来事を書いていた。
多くはあり得ない夢だが、見ているときはなぜか現実の只中にいる。となると、夢の中の自分は現実の中にいる。目が醒めて悔しい思いをすることもある。夢の中でしか語れない人と語り、会えない人と同じ席にいる。夢の中で死んだこともあるし、それが自殺の場合もあるが、死んだ自分を見る何がしかの自分がいる。でなければ、死んだ自分の後は覚えてないはずだ。
「自分が死ぬ夢は運気が弱くなっているかと思いがちですが、事実は逆で強い運気の中にいます。死ぬ夢はむしろ成長をしたことを伝えています。もし自分が死ぬ夢を見ても怖がる必要はありません。死ぬ夢はむしろ成長をしたことを伝えています。」など書かれているが、怖がっちゃいないし、運気などもどうでもいいし、そんなの信じる気もさらさらない。
こんな風に書かれたことを信じて何が得するわけでもあるまいし、だから運勢・占いなど信じたことがない。ただただ、夢は自分が死ぬ経験ができていいな~とか、得した気持ちになる。夢だからこそ体験できることだ。若い頃は初恋の女や理想の女とやった夢を見たが、こんなの最大の得々気分であり、お金出すから続きを見させてくれなどと思ったものだ。
死んだ夢は夢の中では、「おれは死んだのか~、残念無念だ」と思っているわけで、シャレにならない切迫感を抱いたりする。やがて目が醒め、よかったな~夢で…と思ったりする。こんなだから、現実に死んだらやはり、損したと思うのではないか?「オラは死んじまっただ~」と悔いるのではないかと。死は体験できないが、それが死の現実ではないだろうか。
死んで得することなどない、と言う死に対する考えだから、自殺など考えられないし、他人の死でも、「自殺するなんてもったいないな~、後で悔いようにも悔いることさえできないだろに…」などと考えたりする。自殺した夢を見たときも、これと言った自殺の動機はないのに、なぜか夢では自殺をしてしまう。おそらく、自殺に対する懸念が自殺の夢を見させるのだろう。
荘子の話にこういうのがある。昼寝をしてる間に、夢を見た。夢の中では自分は蝶々だった。花から花へと飛ぶ。やがて目を覚ます。「あーあ、寝た寝た」と。「あーあ、夢を見た」と。「蝶々になった夢だったよ」と言う。しかし、まてよ。「今の方が夢かもしれない」などと思う。本当は、私は蝶々で、たまたま「人間になってる夢」を見てるのかもしれないのかも…。
吉田拓郎に「自殺の詩」があるといった。1971年、エレック時代の最後に出したアルバム『人間なんて』は、たいそう評判になったLPだった。なんといっても、拓郎は教祖的な存在感があったし、大ヒットした「結婚しようよ」は、あれがフォークといえるのかと、なぎら健壱はいうだろうが、日本のフォーク史上に残る名曲である。当時、人気作曲家だった筒美京平はこんなことを言っている。
「同時代の職業作曲家に怖れはなかったし、自分の自信が損なわれることはなかったが、彼(吉田拓郎)の出現には驚異を感じました」。「人間なんて」というタイトルでありながら、拓郎は人間が何かを説教臭く説明しない。♪人間なんてららーらららららーら、である。これは聴く者に想像させ、創造させるテクニック(売れるコツ)と言われ、ボブ・ディランが多用した。
小室等は拓郎が出てきたとき、「若僧のくせに説教臭いことを言ってる奴だな~、赤あげて、白あげないで赤さげない、みたいな…」などと正直な感想を持ったようだが、これは爺臭い(長老)意見の典型であろう。拓郎の驚異はフォーク界はおろか、隔たった歌謡界において驚異だったという。フォークは、生活臭のある"貧乏臭さ"が必須の時代、拓郎は哲学を持ち込んだ。
LP『人間なんて』には、多くのフォークファンや関係者が絶句した「結婚しようよ」。これには自分も絶句した。♪ボクの髪が肩まで伸びて、君と同じなったら、約束どおり、町の教会で結婚しようよ…このあり得ないというか、あまりの単純な結婚理由に絶句!これでいいのか?結婚が…、それでいいんだよ、と結婚をオシャレに主張した拓郎に影響受けた若者たち。
3フィンガーの名曲「花嫁になる君に」、叙情的な「ある雨の日の情景」、メロディラインの美しい「どうしてこんなに悲しいんだろう」、広島弁丸出しで彼の出身母体である広島フォーク村を歌った「わしらのフォーク村」、ロック調でブルージーな「川の流れの如く」など、キラ星のような曲に混じって、「自殺の詩」が、一風変わったニュアンスを醸している。以下はその歌詞。
歩き疲れてしまいました
しゃべり疲れてしまいました
何もかもに疲れて今日が来ました
けだるい午後の日ざしは
花をしおらせて
道行く 人の言葉も
かすんでいました
あまり上等な詞曲ともいえないので一番だけ。まあ、こんな程度で自殺するのは夢自殺であろう。拓郎自身、この詞を深刻に受け止めてはいないし、自殺の心情とも思えない。歩き疲れ、喋り疲れ、何もかもに疲れて今日が来たと。「疲れた」、「忙しい」、「面倒くさい」の三語を自分は禁句にしているが、疲れたというのは仕事にしろ、何にしろ、気持ちの持ちようである。
「疲れる」は仕事のせいでもなければ、人間関係のせいでもない。これほど科学が発達してくると、人間は自分自身に拘り、自分の死さえも凝視しようとする。「発生」も謎であるが、「死」という終焉はさらに謎である。人は死ぬと何処へ行くのか、死後の世界は存在するのか、それらを理解線せんとし、確実な学問の対象として自己を捉えることを要求する時代である。
我々は生きているものを見ている。たまに死んだものも見るが、普段、生きてるものに慣れ親しんでいるからか、「生」はあまりに身近過ぎて見過ごされやすい。しかし、生命の謎は生命体の触れ合いにも及んでいる。確かに植物の種子は芽を出し、鳥は空を飛び、子どもの目はなぜあれほどに澄んでいるかも不思議だが、人と人の触れ合いのもたらすもの大きさ、影響。
すべては生命として始まり、死をもって完結する。「死だけが唯一の締め切りである。生きている限り、学ぶべき事が未だある」という言葉がある。「こんなに辛い思いをするならいっそ死んだ方がいい。生きているより死は楽だ」と、自殺者は少なからずそういう気持ちになるのだろう。これが、自分の自殺者に対する想像力である。人間は苦痛を避けたい生き物だ。
戦争で負傷し、虫の息というのか呼吸もママならず、助かる見込みのない戦友を楽にするために撃つ。これはまさに生きているより死んだ方が楽と言う状況であろう。平和な社会で人間関係の喧騒の中で、「生より死を選ぶ人」、つまり自殺行為者が、どのくらいの苦しみを抱いていたかを知ることはできない。同様に、生きてはいるものの、死ぬ勇気がないからという人。
「やる事なすことすべてが空虚で、自分のすることに意味もなく、生きてる価値がない」という。そんな言い方をする人間に言ったことがある。「果たして、命を賭けてやるべき何かを持たなければ生きる価値がないものか?お前の言葉は一人でつぶやくとか、自己暗示として啓発させるならいいが、他人にそんなことをいうのは、一種のナルシシズムだよ。」
人前で「死ぬ」、「死にたい」と言って死んだものがいないと言う意味で、ナルシズム的甘えだろう。確かに、人間と世界の間には断絶のような何かがある。深いか浅いかは個々によって違うが、そういう中で人間の意識は虚無に向かう部分はある。あげく人間には「死」という絶対的な事実によって、あらゆるものが一瞬にして虚無の中に運び去られてしまう。
「死」とはそういうものだと考える。いや、考えなくても現実である。が、「死」を美化する人間は、「死」に何を期待するのだろう。「安息」なのであろうか。「死」に期待するものはなにもない。拠り所もない、憧れもない。そう考えるのが常人と思うが、スピリチュアルブームの中で、テレビ番組に触発され、「来世で幸せになりたい」と自殺した少年がいた。
それがテレビのスピリチュアル番組一掃の要因になった。少年は無知でおまけに感受性が高い。「人に何かしらの影響を与えないテレビ番組があると思うか?」という強者の論理もある。そうはいっても、人が一人、テレビの影響で自殺するというのは、潜在者の数を反映しているという予測もできる。番組に対する放送倫理は多元的な議論をすべきであろう。
「スピリチュアルな番組を見て自殺した少年がいたからあの番組はよくないと言いますが、自殺をしようと思う人は、何であれ自殺をしたいと思っている人です。霊感商法も、自分自身が正しくない生き方をし、欲にかられるとひっかかるのです。テレビの番組で人に悪影響を与えない番組が存在すると思われますか?100人いれば100通りの受け取り方があると思います。」
こういう事をいう人は木を見るが森は見ない人だろう。自分さえちゃんとしていれば、どんな番組やったところで感化もされない、影響もされないといっている。大人の論理ならともかく、自分が子ども時代だったことを忘れている。子どもはテレビだけに影響されるのではない。精神の脆弱な子は、親の教育や躾にも起因する。自殺した子は逃避したのかも知れない。
「あの世はいいですよ」、「現世がだめなら来世に期待しよう」という言葉が、現実逃避を企てる子どもにとって、どれだけ福音になるか…。テレビで言った言葉に動じない子は、テレビの言葉に左右云々よりも、家庭や環境に問題ある事も考えられる。どんな子どもが観ているか分らない以上、「来世で幸せになろう」みたいなことは絶対にいうべきではない。