『家族という病』は買わなかったし、最近、書店にいっても「買いたい」、「買おうかな」という本が見つからない。それより、自分の中にある本をあれこれ引っ張り出す方が楽しいし、面白い。書く作業は客観的になれる。書くという行為は主観的だが、書きながら読む、書いたものを読む、というのは客観的な行動である。ピアニストの内田光子がこのように言っていた。
「なぜピアノを弾くかといえば、聴きたいから弾くんです。弾く行為は聴き手でもあるんです」。なるほど…。当たり前のことを言葉にされると、妙に感心してしまう。頭のいい人というのは、難しいことを言葉にし、説明するのではなく、当たり前のことを気づかせてくれる人だと思っている。自分の中には、自分が気づかないほどの多くの蔵書がつまっている。
整理しておいてあるのか、バラバラにおいてあるのか、それも頭の良し悪しだろう。とにかく休眠状態の本も脳図書館から借りてやることだ。本棚は容量が決まっているし、人間の脳もそうらしい。となると、新しい知識を収納するするためには古いものを破棄しなければならない。それは意識でなされることではない。20歳過ぎたら1日に10万個の脳細胞が死んで行くというアレだ。
『家族という病』は刺激的なタイトルであり、本はタイトルによって売れ行きに影響するというが、一種の騙しであろう。「騙し」といえば御幣があるが、大げさなタイトルの割りにしょぼい内容も多く、それを騙しといえるかどうか?お土産品の上げ底・過剰包装と考えたら「騙し」と言える。が、過剰包装や上げ底は誰の目にも明らかだが、本の内容がしょぼいのは人によって変わる。
ある人は「しょぼい」、ある人は「面白い」、そういうものであるから一概に「騙し」とは言えない。つまり、ある人は「騙された」、ある人は「買ってよかった」となる。「ベストセラー」というのは出版業界で何万部と決められた定義はない。本のジャンルによって違うし、書店によっても違う。人影まばらな書店のオヤジが、100冊売れた本を「ベストセラー」と言ってもいい。
本の売れた量ではなく、「当店にとってのベストセラー」という意味だ。ジャンルで異なるのは確かに言えてる。クラシックのCDは1万枚売れればベストセラーといわれるように、例えば、人文書は1万部売れたらベストセラー、文芸書だと10万部前後でベストセラーと言われ、コミックなら100万部売れてもミリオンセラーなどと言わないことも業界の慣例であろう。
「騙されちゃいけませんよ」というのは余計なことで、「ベストセラー」の文字で買う人は多く、それでよいのだ。つまり、20万部、50万部売れたといっても、その数だけ本の中身が分かって買ってる人はいないということ。AKBの新曲が常に100万枚売れるからといっても、名曲と言わないのと同じである。誰が名著といい、誰が名曲というのかは、買った人が決めるものだ。
ただし、自分という個人の枠と、世間という枠は違うという事も知っておかないとバカであることが気づいてないことになるから、そこは注意がいる。物事を自分中心に考えるしか出来ない人間への警鐘である。一例をあげると大学生の就活での面接で、「愛読書は?」と聞かれ、「ドラえもんです。コミックもCDも全巻持ってます」と、得意満面で言うのはバカの部類である。
自分はこのブログでどういう事を多く書いているか?と、自らに問えば、おそらく家庭のことではないだろうか。意識しないでもそちらの方向に筆が(キーが)向いてしまうのは、興味の度合いが大きいことを示す。家庭のこととは、家族のことであり、家族とは親と子のことで、その在り方について自身の体験も踏まえて書いている。科学者の経験はないが、親も子も両方体験している。
教職の経験はないが、教師はたくさん経験したし、それを被験者の視点でいう。被験者というがその対義語は何というのか?あまり聞かないし、いわない。「験者」ともいわないし、「実験者」というのも研究室勤務みたいだし、「経験者」、「体験者」が近い語句であろう。親子でいうなら、まずは「子」を先に経験する。この世に生を受けたときから「子」であった。
気づいたときから「子」であったから、親を眺める立場である。生まれて目の前にいて一緒に寝食を共にしないのが親でない場合もあろうが、自分は眼前にいるのが親だった。証拠はないがそうだと思っていた。そうである確信はだんだんとついてきた。自分の親の事はここで腐るほど書いたので、改めて一から書くこともないが、ハッキリいえるのはこの親にしてこの子アリ。つまり自分は親によって多くが作られたと思う。自分で自分を作ったと思う部分も多いが、無意識の部分を考慮すれば、多くは親の影響を受けていると思われる。何らかの遺伝子を引き継ぎ、環境にも左右され、反面教師としての行動、それら一切が親から得たものだ。子という立場は、親を前にしていえば虚しいと感じたものだ。子である利点もあったのだろうが、欠点ばかりが目立った。
おそらくこれも、人間の「業」なのであろう。自分に都合の言いことは当たり前、都合の悪いことに不満を抱く。「躾」といわれるものを拾い出してみると、最古の躾は祖母の背中で眠らされることだった。両親が遅くまで仕事をしていたので、祖母が子守り役であったというわけだ。祖父もいたが、祖父に背負われた記憶はない。祖母の背中は広く温かだった。
丹前(どてら)の綿の温かさもあったが、体温を今でも覚えている。祖母はいつも外で自分を寝かしつけた。祖母が歩くと電信柱や民家はどんどん後ろに消えていくが、お月さまがずっとついてくるのが不思議であった。そんな不思議な月を見ていたからか、小学校に上がって、天体のことに関心をもった。昼の長い休憩時間は外でも遊びたいが、図書館に行くのも多かった。
家に帰っていくらでも遊べるからと、謎の宝庫である図書館は家にはない。つとめて図書館に足を向ける回数が増える。そのおかげなのか本が好きになったが、本は知識の泉であったからだ。授業というやらされる勉強は面白くなく、自分が自分のスポードで読んだり、中身をとっかえたりが性にあっていた。そりゃそうだろう、人には人にあった感性がある。
学校は一学級が50人を下回らずで、6~7クラスあったから、1年から6年まで約2000人弱の子どもの集団であった。昨今ならマンモス校というのだろうが、学校の数が少なかっただけである。校庭も第一校庭、第二、第三校庭と呼ばれ、朝礼や運動会等が行なわれる、とてつもなく広い第一校庭は、高学年しか行ってはならない規則で、低学年の頃は広い第一校庭で遊ぶのが夢だった。
学校を一言でいうと、共同体としての「善」を損なわないよう、規則でがんじがらめにするところである。例えば、学校に玩具を持ってくるのはダメで、学習に関係のない用品の持ちこみは上記の理由で積極的に禁止されている。共同体による規則重視の生活を強いられる学校に、独立した個人などは存在しないし、そういった文脈から離れた個人の権利なども存在しない。
後年、『自由の森学園』などといった、規則でがんじがらめの学校に意を唱える自由主義思想の篤志家が、新たな学校を開設したりもあった。斯くの自由主義者は、「善さ」の判断より、「正しさ」を優先すべきと主張するが、「共同体」という社会集団にあって、そこから離れた、つまり「共同体の善」から独立した、無条件の「正しさ」など、存在する余地はない。
個人の「善」よりも、共同体共通の「善」を優先させるべきであろう。集団主義を重視するよりも、「個の尊重」が大事と言われたが、集団の中で個を最大限尊重するなら、それを上手く管理・運用できる、卓越した人材が必要である。それがないままに、個人の自由を尊重していたら、集団としての利益は崩壊するだろう。その考えはスポーツなどの組織プレーに生かされる。
アリストテレスは、「全体は部分に先立つ」と言った。彼は、社会と個人の関係を「有機体」(たとえば人間の身体)とその部分(たとえば手・足)の関係と同じとした。これは、人間を孤立した存在としてではなく、社会という「全体」の中で意味をもつ存在とし、組織論の中核をなそ思考である。「自分はこの会社の中で、手となり、足となって貢献したい」などと言葉にする。
その論点でいえば学校も家庭も共同体を志向する社会である。人間は一人は個人だが二人は社会となる。社会は個人に優先するという考え方が、国家が国民に優先するとの帝国主義思想に連なる。自由主義社会、民主国家は国民の上に国家があるとする。J・F・ケネディは大統領就任演説で、「国家が国民に何をしてくれるかではなく、国民が国家に対して何ができるか」と言った。
これを学校に当て嵌めると、「学校が生徒に何をしてくれるかではなく、生徒が学校に対して何ができるか」となる。これはおかしい。家庭に当て嵌めると、「親が子どもに何をしてくれるかではなく、子どもが親に対して何ができるか」となる。これもおかしい。「別におかしくない」と感じる人もいるだろうが、自分はおかしいと感じるので、その前提で書く。
学校は生徒になにかを期待するところではなく、共同体の規則を守らせるという社会教育を教えるところ。それと教師が生徒に対して知識の伝達を担わせるところ。これを勉強というが、主にその二つを育む使命を持つ。家庭の役割もさまざまな考えがあるが、①大人へと成長するための『モデル』を示す、②『しつけ』をする、③『心の港』をつくる、とこれは"お上"の提言である。
"お上”とは警視庁。『心の港』は抽象的な言葉だが、船の旅を思えばいい。安心して寄港し、心身を癒してくれるところ。幼い子どもであれ、幼稚園や学校に通うようになれば、友達とけんかをしたり、友達と比べて自分が劣っていることに不安を感じたり、いろいろなストレスを感じて家に帰ってくる。そういう時に子どものことを分かってくれる親が要るのは支えになる。
家庭で子どもを追い詰めるなら、子どもは土管の中で寝起きしたくなるであろう。親としては当然に、あるいは普通に接しているつもりでも、子どもにとっては傷ついたり、ストレスを感じていることはある。以前、彼氏にふれれた女がこう言っていた。「私は一生懸命に尽くしてたし、何にも悪くないのに一方的にふられた」と、文句たらたら。誰も自分の欠点には気づかない。
話を聞いた自分も、彼女のことを知らない。だから、「出会いがしら交通事故と同じで100%相手が悪いことはないと思う」、「尽くしてるから相手は満足ともいえず、適度の距離感を保った方が新鮮かも…」など言うと、相手は怒り心頭で言う。「私だって自分がぜんぜん悪くないといってないし、距離感を保つよう努力したし、知らないのに分かったようなこといわないで」と憤慨した。
このように、一般論を自分のことと勝手に感じて腹を立てられると会話ができない。互いが知らない同士は一般論で対話するしかないが、強迫観念が強いとか、短絡的とか、自己妄想が強い女は、勝手に傷ついたという。傷つける意図が相手にあるかないかの見分けもできず、善意の言葉を悪意に取るならなすすべはない。こういう相手は、一応詫びて以後関わらないことだ。
国家は国民のためにあると同様に、学校は生徒のためにある。家庭は子どものためにある。そう考えてどこが問題であろうか?国民は国家のために存在するという政治家はいるのか?生徒は教師のためにあるという教師はいるのか?子どもは親のためにという親はいるのか?確かに、「国家は国民のためにある」という事にアレルギーを持つ人たちはいるだろう。
が、そういう人たちは、"国民こそ国家のためにあるべき"との民族思考である。ホンネ半分、綺麗ごと半分であろう。国家のためなら銃も剣も持つ、とは潔いが、威勢のよい言葉と解釈する。「国家に命を捧げる」などと、こんにちの平和な時代でも口にできるが、実際、そういう場にならないと人のホンネは分らない。言うのは勝手だが、信じないのも自由である。世に美辞麗句を好む人は多い。
以下はヘーゲルの愛国心である。「愛国心というと、もっぱら異常な献身や行為をしようとする気持ちと解されるが、本質的には、愛国心は平時の日常や生活関係において、共同体を根本的な基礎及び目的と心得ることを、ならいとする心構えである。」国家生活それ自体に絶対的な価値を見るような心性としての「愛国心」こそ、国家と国民を結ぶ絆と彼は言う。ヘーゲルは家族について以下述べている。
「家族は精神の直接的実体性として、精神の感情的一体性、つまり愛を、己の規定としている(中略)。愛とは総じて、私と他者とが一体だとの意識である。だから私は、私だけで孤立しているのではない。私は、私の孤立した姿を放棄する働きとしてだけ、私の自己意識を獲得する。しかも私と他者の一体性、他者と私との一体性を知るという形で私を知ることによって、私の自意識を獲得するのである。」
自分の存在は家庭によって作られたなどの意識は誰にもないであろうが、おそらく自分も、多くの人もそうであろう。それほど家庭の果たす役割や影響は、物理的、精神的にも大きい。元少年Aが「家庭と自分の事件は関係ない」と言ったというが、それは彼の無意識かもしれないし、誰が考えても親、祖父母、兄弟・姉妹で構成される家族が有する家庭の与える影響は大きい。
「少年Aエピローグ」と表題はしたものの、前置きが長くなるのは、根本から家庭を見つめるべきと考えたからである。以前にも家族や家庭について書いているが、重複することはあろうとも、書いても書いても書きつくせない大きな問題を、家族や家庭は有している。