狂想曲は、特定の出来事に対して人々が大騒ぎする様子を描写する際に用いられる言葉。書籍の題名として用いられたりもするが、多くの場合、本質を見失った議論になっていたことを皮肉って使われることが多い。とすれば、自分の「少年A狂想曲」というのは、本質を見失った議論がされているということか?いや、そうではない。そもそも「本質」が何かを自分は指摘できない。
「被害者遺族の心情無視で出版された」、「アメリカの法律『サムの息子( Son of Sam )に類似するアンモラルな出版である」、「(日本には法律はないが)印税は没収しろ」、「著者である元少年Aの意図、目的、動機は?」、「本人の意思より、商業ベース優先で執筆を依頼したのか?」など…、これらはいずれも議論の対象でいいし、本質を限定する前に国民的関心が優先だ。
「狂想曲」という現象は世俗的であり、なまじ揶揄されるばかりと思わない。これによって多くの発言があれば真実に触れることもできる。自分は当初は、太田出版が元少年Aに手記を依頼したのではと感じていたが、元少年Aは、他の出版社に手記の出版を打診していたことが判明した。これは幻冬舎の見城徹社長(64)が、「週刊文春」誌の取材に答えてわかったこと。
見城氏によれば、2012年冬に、<元少年A(酒鬼薔薇聖斗)>名で封書が届き、翌年に対面したという。元少年Aは、「手記を書きたい」と訴え、執筆が始まったのだという。しかし、今年に入って見城氏は出版しないことを決断し、書いたものを無碍に出来ないと思ったのか、3月に太田出版を紹介した。見城氏は、「切なさと同時に安堵の気持ちがありました」と振り返った。
最初、太田出版と聞いたときに、「この出版社なら手記依頼をするだろう」との予断であったが、他の理由として元少年Aは贖罪し、更生したであろうとの思いもあった。もちろんこれらは手記を読まないで判断したことだが、手記の内容がネットから入ってくるにつれ、「ひょっとしたら元少年A側から主体的に…」という風に、自分の思いが変わっていった。
元少年Aが、いきなり太田出版をという事ならともかくも、他の出版社に打診もあり、それが判明すれば元少年Aの意思で書かれたことになる。見城氏の出版見合わせはいかなる仔細であるか、「切なさと同時に安堵の気持ちもあった」という言葉に表れている。言葉は二律背反的であり、「安堵の気持ち」というのが読みにくい。見城社長は何を安堵し、出版を取り止めたのか?
実際に元少年Aと会い、さまざま会話をしたであろうその事で至った見城氏の心中を推し量るのは難しいが、社会の厳しさや生活苦に対する同情もあり、もし本が世に出れば彼にとってはそういった生活も癒えると思ったのだろう。出版のプロが元少年Aの手記に部数が見込めると判断したのは間違いない。が、それでも出版を取り止めたのは、「切なさ」という言葉に表れている。
「切なさ…」は、安堵より分りやすい。生活苦とはいえ、己の犯罪を題材に金儲けを企てる元少年Aに対する批判であろう。が、批判は心情との絡みで情緒的にならざるを得ない。「切ない」とは、やりきれない。やるせない思い。悲しさ恋しさで胸がしめつけられる感情である。「遺族の心情を踏み台にしてまで食べていかねばならないのか」、見城氏の気持ちを推し量る。
見城氏は企業人である前に人である。企業といえども法人なら、人格を失って存続は難しい。いや、人間性を失った企業などあってはならない。存続すべきではない。との論理に立てば太田出版の岡社長は、"血も涙もない、人間性もない極悪人か"そう考えるのは間違いではないが、正しくはない。自分も正否の正確な判断はできない。どちらに組するかであろう。
なぜなら、この手記は現実に多くの人が買って読んでいる訳だ。『絶歌』が出版される意義とする見解を太田出版が公式に表明したが、これは手前味噌な意見で読むに値しない。が、この手の問題はどこにあるというのだろうか?執筆者、出版社、販売書店、購入者と分散されるが、これらのどこに問題の核心があるのかを正確に指摘するのは難しい。自分には分らない。
先に少女売春について言ったが、「売るものがいなければ買えないではないか」、「売るといっても買わなければ成立しないではないか」と、二つの考えがある。これについて自分は、「買うものが悪い」という立場を取る。「性は愛情から…」などと頭の硬い、あるいは純潔教育的なことではなく、時給800円で働くことと、時給30000円の効率性を比較した結論だ。
店長にガミガミ言われ、客に笑顔をふりまき、店の一員として信頼を失わぬよう心して仕事をする、感情を抑え辛抱も必要である。そういった時給800円のバイトに人間的に多く得るものがあるし、早い時期から楽してお金を得ようでは、普通のことがバカバカしくなるはずだ。自分たちの後進たる青少年に、こういう害悪ともいうべく教育に加担する買春者は断罪されるべき。
論理的に説明すればこういう事だ。端的にいえば、「少女によくないことをオヤジはするな」である。自分の娘に周囲がそういう教育(?)をされたいか?と問えばわかるはず。世の中には分っていてもする人間、分らないからとりあえずやっている人間がいる。反面、悪いと分っていることは絶対にしない人間もいる。「悪いこと」といっても、事の大小はあるが…。
『絶歌』の件に照らしていえば、元少年Aと出版社、こちらは悪い(問題アリ)と思いながら執筆、出版した。出版社も当初はそのように言いながら、時間を経て「意義」などと後出しじゃんけんをするが、これらは弁護士を始めとする親派らと頭を捻って考え出したことで、そうでなければ、「悪いと思うがやった」では済まされない。元少年Aは背に腹は変えられない情況。
書店はどうか?事件のあった神戸市が発祥のジュンク堂書店は、店頭販売したが三宮店では入荷した約200冊全てが完売した。担当者は、「店で自主規制はしない。出版の是非はお客様に判断していただくのがポリシー」と説明する一方、「決して売りたい本ではない」と明かす。「なぜ売るのか」との抗議の電話も連日あるというし、書店はホンネとタテマエの板ばさみである。
売れるものは売って儲けたいがホンネであり、世論の冷ややかな反応や抗議電話に対してタテマエ論で対処するしかない。これが通用するのが日本の社会であろう。残るは購入者だが、悪いと思ってもそれをやる(買う)のが人間であるといった。ならば、購入者の中にはそういう人もいよう。売ってるものを買って何が悪いと、何ら罪悪感を抱かない購入者もいる。
少女を買う論理と何ら変わらない。悪いと思いながら買う人、悪びれず買う人、「本」でも「春」でも、どちらかに上下はあるのか?「ない!」という考えで自分は生きている。行為をすれば理屈などどうとでもいえるし、問題は行為であるから、「悪いと思いながらやってる」なんて言い方が好きになれない。そういう理屈は心の弱い、あるいは善人気質に手前勝手な自己救済論。
「よくないと思うんだけどね~、親バカなんだよね」というのと同じこと。世の中にはこれに類することは沢山ある。自分とて悪いこと、よくないことはやる。だからやる以上は「よくないことをやる」という意識に立ってやれというのが持論である。「お前はよくないと分っていてもやるのか?」などという奴がいる。斯くの奴は、「よくない事ならやらない」と返す。
「お前は仙人か?神か?」と言って怒らせたことがあるが、どこの世界に悪いことをしない人間がいよう。もし、「悪いことをしない」と公言する人間は、陰でやるに決まっている。あるいは、自分の行為を、「悪くない」と正当化するか、本当に悪くないと思い込むか、そうでなければ善人では入れないはずだ。「言葉は考えを隠すために与えられた」という言葉が示している。
だから自称善人は始末が悪い。人に悪人などと言われたくないものだから、必死で自分を隠し、偽る。「本当はよくないんだけどね~、親バカなんで」などと長ったらしいことは言わんでよし。「親バカだから」でいい。ハッキリ生きた方がハッキリした人間になるし、ハッキリと世の中を見つめることにも寄与するだろう。ハッキリはいいにしろ、ハッキリ偽善はよくないが。
その前に「悪」の基準はないから、そんなに怖れることもなかろう。実際問題、太田出版が悪いといっても、「太田出版ありがとう」という人もいるし、そういう人は本を買っている。善悪の相対性に鑑みていえば、誰にも罪はなく、誰も罪人になっている。罪人になっているの意味は、本書いた人、刷った人、並べた書店、買った人を責めているという、これも善意な人には罪人となる。
著者も出版社も書店も、「どこまで悪い」と思っているかは分らないが、この中のどれが一番悪いと思ってるか、大差ないと思っている。元少年Aはくどい謝罪を述べてるらしいが、そんなのタテマエ、太田出版もタテマエ、販売してる書店もタテマエと思えば同じこと。ホンネとは幻冬舎の見城徹社長、扱わない書店、買わない人を言う。とりあえず、そのように見ていい。
本当は出版したかった幻冬舎、売りたかった書店、買いたかった人…、それがホンネかもしれない。人の気持ちは分らない前提なら行為で判断するのを「正」とすべきで、それでいい。人間だからいろんな感情はあろうし、あっていいが、「しない」というのは具体的な行為で、その論理からいえば「本当は書きたくなかった」、「本当は出版したくなかった」も同等にある。
が、書いた、刷った、売った、買ったは具体的な行為である。この件に対して乙武洋匡氏はツイッターで、「あれだけの批判が渦巻いても、フタを開けてみれば1位。批判を向けられるべきは、著者と出版社"だけ"でいいのか」とハッキリ問題提起をした。これは『絶歌』が、出版流通大手のトーハンが16日に発表した週間ベストセラーでは総合1位となったことを言ったもの。
乙武氏の「批判を向けられるべきは」は、暗に書店・消費者に向けられるものだろう。ところで自分が買わない最大の理由は、「読みたいくないから」、といったが、それは今でも変わらない。なぜ読みたくないかは、事件の全貌は検事調書を読んでいるし、社会に馴染めない、生きていくのが苦しいなどの羅列と知ったからだ。最初は太田出版の商売根性が頭に来たのが最大理由。
その事だけで「絶対に買うか」と思ったが、元少年Aの泣き言を聞くに、こんなことを本にしたためるようでは彼は更生していないと感じた。己が殺したお岩の霊に追い詰められ、発狂した民谷伊右衛門をあげたが、これは人を殺したことで受ける必然的仕打ちで、元少年Aがそうなったとして当然である。人を殺すとどうなるか知りたければ『四谷怪談』観るがよかろう。
太田出版は出版社としての社会的使命を有しているだけに、「批判を承知で出版した」では批判の矢面に立つだけ。よって、公式見解を出すなどの苦慮は明らかだが、「ご遺族にも出版の意義をご理解いただけるよう努力していくつもりです」と、こういう無神経な発言には苛立ちを覚える。「出来ないと分かってて言うな」と言いたい。遺族に対して見切り発車をした側のいうセリフか?
承諾を得ないで出版という、"だまし討ち"に対する遺族の怒りを、どうして消せると思っているのか?社交辞令もほどほどに物を言え。太田出版は被害遺族の頭を土足で踏みつけておいて、今さら、「私たちは、出版を継続し、本書の内容が多くの方に読まれることにより、少年犯罪発生の背景を理解することに役立つと確信しております」は、あまりに虫の良い杜撰な発言である。
この事件はそこらに起こる少年事件とは同列に扱えないものであるのは、検事調書を一読すればわかる。元少年Aは自分の行為をあまりに淡々と語っているし、無機質というのか虚無を通り越して、こういう人間が本当に人間の心を取り戻す(幼い頃はそうであったと思うから)ことが可能なのかと、訝しく思われる。美しくも可憐な花を無造作にへし折るという情緒の無さどころではない。
淳くんを死に至らしめるのに相当の苦労をしているが、首を絞めても人はなかなか死なないものであるのが彼の供述から伝わる。ところが彼は、それほどに苦労した淳くんの殺人には満足感を持ったといい、ハンマーで殴った彩花ちゃんは瞬間的で呆気なかったので、彼女の死に満足はしていないという。そうした淳くんの殺害状況から、彼の満足は「いたぶり死」に思えた。
相手に苦痛や拷問を与えて興奮する人間のような性情である。淳くんも彩花ちゃんも抵抗しない子どもという用意周到な確信を得て、殺害対象と決めている。実際の供述は以下。「この女の子(彩花ちゃん)を見た時、僕が攻撃を実行する実験材料に適当な人間だと思いました。瞬間的に、この女の子ならば僕に反撃したり、逃げ出したりはしないだろうと分析したのです。」
淳くんの死体が彼に文句を言ってるという供述がある。「"よくも殺しやがって、苦しかったじゃないか"と文句をたれるので、"君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか"と言い返しました。すると淳くんはさらに文句を言ってきました。(略)僕は遠くを見るような眠たそうな淳くんの目が気に入らなかったので持っていたナイフで淳くんの両目を突き刺しました。
目を突き刺した後、両方の瞼を切り裂き、更に淳くんの口の中にナイフを入れて口の方から両耳に向けて切り裂きました。このようにして淳くんの口などを切り裂いた後、更に淳くんの顔を鑑賞し続けましたが、その後は、淳くんは文句を言わなくなりました。(略)淳くんの首を鑑賞し、淳くんの口を切り裂いた後でしたが、僕は、淳くんの舌を切り取ろうと思いました。
なぜ舌を切り取ろうと思ったかというと、それは、"殺人をしているときの興奮を後で思い出すための記念品"として持って帰ろうと思ったからです。(略)以前、猫を殺した時に、やはり"殺した時の興奮を後で思い出すための記念品"として、猫の舌を切り取ったことがあり、確か、三枚の猫の舌を塩水に漬けて、瓶に入れ、僕の部屋においていました。」
無抵抗の者を選ぶ、小動物を虐待する、典型的な弱いものいじめ行為者である。とすれば、今回の遺族に対する仕打ちと言うのは、淳くんや彩花ちゃんの親を、彼自身が弱きものとして舐めているのだろう。もし、手記やマスコミで知り得る淳くんの父、彩花ちゃんの母親が、おっかなくて怖~いおじさん、おばさんであったなら、彼は大人しかったのでは?そんな想像を抱く。