『絶歌』を読む気はないし、読んではないが、ネットから断片的に伝わって来る。彼の言葉は、コレが15歳で2人の児童を惨殺した人間の18年後か?というより、32歳になってなお自己中人間なのかという呆れだ。おそらく彼には自分以外の人間の心を想像・配慮する能力が低いようだが、それは強いナルシズムに起因すると思われる。
元少年Aは32歳にしてなお中二病である。中二病とは、中学二年生(14歳前後)で発症することが多い、思想・行動・価値観が過剰に発現した思春期特有の病態。多くは年齢を重ねることで自然治癒するが、稀に慢性化・重篤化し、社会生活を営む上で障害となる。特異的な身体症状や臨床所見は見出されていないが、古くからこの病気の症例は数々報告されていた。
「病」という表現だが、治療を必要とする医学的な疾病および精神疾患とは無関係である。症状というか現象というのか、背伸びしがちな言動や、思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄したネットスラングである。世代が違うので、対象を実感したことはないし、不用意に断定するのは気がひけるが、元少年Aに当て嵌めてみた。
人を殺したことはないが、もし10代の少年に「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問われたらどう答えるか?その前に、10代で人殺し経験のある元少年Aは、同じ質問を以下のように答えるという。「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから。
(中略)どんな理由であろうと、ひとたび他人の命を奪えば、その記憶は自分の心と身体のいちばん奥深くに焼印のように刻み込まれ、決して消えることはない。表面的にいくら普通の生活を送っても、一生引き摺り続ける。何よりつらいのは、他人の優しさ、温かさに触れても、それを他の人たちと同じように、あるがままに「喜び」や「幸せ」として感受できないことだ。
他人の真心が、時に鋭い刃となって全身を切り苛む。そうなって初めて気が付く。自分がかつて、己の全存在を賭して唾棄したこの世界は、残酷なくらいに、美しかったのだと。」これが人を殺した人間から派生した、"人を殺してはいけない理由"なのか?"他人の真心が時に鋭い刃となって全身を切り苛む"などは、人を殺すとそのようになるのか?
人を殺した経験がないと、「どうして人を殺してはいけないのか?」の理由がわからないはずはないが、殺した人間の方が説得力があるとでも?バカな…、確かに元少年Aは、経験者の発言だ。だから説得力があるとでも?別の若者は、「この表現は(編集はいっているかも知れないが)リアル」と言うが、その言い方も変。編集した人間に殺人経験はない。
殺人経験者より編集者の表現がリアルというなら、リアルさは経験よりも表現力というテクニックの問題となる。表現自体自分的には説得力もない、リアルとも思えない。「人を殺したらあなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」という言葉より、映画『四谷怪談』でお岩の亡霊に苦しむ民谷伊右衛門に説得力がある。
この映画を観た子どもの頃から、人を殺すと幽霊に追われて苦しむと知っていた。映画『四谷怪談』の怖さは、お岩の顔よりも錯乱状態でもだえ、苦しみ、のた打ち回る民谷伊右衛門である。ちんけな元少年Aの言葉などは、自分らには屁のツッパリにもならん。殺人経験者としての彼の言葉を、「ダメなものはダメ」というオトナより説得力を持つと評価する若者もいる。
だから、彼は伊右衛門のようになって当然なのだと…。「かつて、己の全存在を賭して唾棄したこの世界は、残酷なくらいに、美しかったのだと。」こんなのは真実を書くと言うより表現に酔っている。女性は肌着としてのブラジャーは見せたくないが、見せブラは見せるために着ける。それと一緒で、自らのために書く文章と、見せるための文章では大きく修飾される。
「残酷なくらいに美しい」という表現は、しばしば見聞きする美しさの最大表現である。それほどに、「彼が全存在を賭して唾棄した世界」は美しかったのか。手記で大事なのは表現力や美文ではなく真実の吐露であろう。文筆家なら気負わぬ表現それ自体美しいが、リアルさを醸すためにあえて美文にメスをいれる。世間は酒鬼薔薇の文章力を賛辞した。
それを知る彼は、再び原稿用紙を前に腕を捲る。文章表現は難しい、美文も作為が見えると生きた文にならない。「適切に表現する能力」が大事であろう。彼が文章(手記)を書いたそのことを非難はしない。人間には苦痛を避けたい、苦痛に耐えよう、という気持ちは誰にもある。矛盾するようだが、それらが生きていく中で一種のカタルシスの役割も果たす。
何かを書こうとするときの凄まじいまでの集中力…、その果てに味わう「浄化」作用は何かを書く者なら知っている。書くことにより、一つの枠づけがなされ、整理され、あるいは創造される。そこに自らの力をはたき尽くした快感がある。物を書く身として元少年Aの気持ちに共感する部分はあり、そこは否定はしないが、書くことで人を傷つけるのはダメだ。
自分も体験ブログを書くし、彼も体験を書きたかったのだろう。が、彼の体験記は、子をどう育てた、女を口説いた、親と言い争った、誰かと喧嘩をしたなどではなく、特異な体験であれ、人を殺したは補足程度でよかった。何を今さらである。彼が世間に向けてに書くべきは、生まれて14歳までの生育状況及び家庭環境で、『少年A追想』という表題でも売れたろう。
1997年2月10日午後4時ごろ、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がゴム製ハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。彼の起こした第1の事件対応が後の事件の引き金になったとも言われた。犯人がブレザー着用、学生鞄所持と聞いた被害女児の父親は、近隣の中学校に対し、「犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしい」と要望する。
しかし、学校側は警察を通して欲しいと拒否し、父親は兵庫県警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したが、敵わなかった。そうして3月16日の山下彩花ちゃん事件、同日小学生3年生女児への刺傷事件と続き、5月24日の土師淳くん事件へと連なる。元少年Aはそこに至る幼少年期および、小学~中学時代の追想をメインに記述すべきだった。
世間の関心は元少年Aの事件の詳細でも、少年院退院後の生活でもなかったはず。自分は彼の生育に強い関心を持っていた。彩花ちゃん、淳くんの事件は避けては通れずも、克明に記す必要はなかった。なぜなら、重要なのは結果を辿る原因であり、結果を書いても原因は分らない。家庭のこと、友人・教師・周囲のことでページは埋められたのでは?
彼の犯罪は、女児4人だけでも人間性の欠片もない異常性が見える。特に彩花ちゃんを鈍器で強打した経緯は理解のしようがない。「手を洗える場所はないか」と尋ね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて」といい、振り返った彩花ちゃんを八角げんのうで殴りつけ逃走した。彩花ちゃんの愛くるしい笑顔を見るに、「なぜ?」である。
言い方は変かもしれぬが、少女に抱きつく、キスをしたり、服を脱がせる方が、変態とはいえ、本能の主旨からいってまともである。「お礼をいいたいのでこっちを向いて…」、それで少女を鈍器で強打する必然的理由は、少年A以外の誰に見当たるというのか。そのような彼をして、狂気性、異常性を彼自身が紐解く努力こそ公益である。最終審判要旨は以下記す。
「少年は、表面上、現在でも自己の非行を正当化していて、反省の言葉を述べない。しかし、恐ろしい夢を見たり、被害者の魂が少年の中に入り込んで来たと述べるなど、心の深層においては良心の芽生えが始まっているようにも思われる。少年は自己の生を無意味と思っており、また良心が目覚めてくれば自己の犯した非行の重大さ・残虐性に直面し、いつでも自殺のおそれがある。
また、少年は、精神分裂病、重症の抑うつ等の重篤な精神障害に陥る可能性もある。少年を、当分の間、落ち着いた、静かな、一人になれる環境に置き、最初は一対一の人間関係の中で愛情をふんだんに与える必要があり、その後徐々に複数の他者との人間関係を持たせるようにして、人との交流の中で、認知や歪みや価値観の偏りを是正し、同世代の者との共通感覚を持たせるのがよい。」
として、医療少年送りの決定を下した。少年Aがなぜ淳くんを殺したのか、検事調書を読む限りで動機は不明である。淳くんは少年Aの家に出入りする顔見知りで、少年Aの末弟の遊び相手だった。少年Aは淳くんとは親しくしていないが、そんな淳くんを殺そうと思ったのは、5月24日昼過ぎ、道路を歩いていた淳くんを偶然見つけたときだと供述している。
少年Aは、殺害理由を「咄嗟」とした。淳くんに声をかけ、殺害場所のタンク山に連れて行く。咄嗟に殺そうと思った時点で、先に殺害場所をいろいろ思い巡らし、タンク山に決めてそこに殺害の目的で連れて行ったと供述した。殺害方法は絞殺で、理由は首を手で絞めて殺してみたかったとした。素手だと自分の指紋がつくので手袋をしたという。
殺す意図も目的も動機も供述にない。あるのは「咄嗟」という言葉。これは『罪と罰』のラスコーリニコフが高利貸しの老婆を殺した理由と同等の謎である。『罪と罰』関連では江川卓の『謎解き「罪と罰」』が秀逸で、この本は他の数冊とともに消えてしまった。本はなぜ行方不明になるのだろうか?まさか足が出て逃げていくわけではあるまい。
江川卓は元読売ジャイアンツの江川ではない。同姓同名だが、列記としたロシア文学者である。老婆殺しの理由が判然とせぬままに、江川の同著は難解であったが、虎の巻となる。高利貸しゆえに金はある。ラスコーリニコフは学費滞納で大学から除籍され、粗末なアパートに下宿している。有為な人物になるためには老婆を殺して学費を調達すべく…」
と、彼を犯行に駆り立てたのはそんな理由ではない。ニーチェの理論によれば、「有為な人物になるため」という理由は、ラスコーリニコフが自分の行為を自らに理解できるもの、自らを納得させるために後から付け足した創作に過ぎない。あり得る動機だが、あんな虫けら同然の老婆を殺してもいいのだ、という気持ちを抱かせた原因は他にある。
それは老婆への潜在的憎悪心。そういう憎悪が老婆を虫けら女とみなす情動になった。犯罪に限らず我々の行為は、一般的に無意識の情動に原因を持つものが多い。少年Aが身障者の淳くんを虫けら程度の無価値人間と思ったかどうかは想像の領域だが、自身を無価値とする少年Aが、自分以下の人間を無価値と切り刻むことで、自尊心を満たすのは想定できる。
類似事件かどうかはさて、、自分にはそのように思える「長崎女子高1生殺害事件」。こちらの加害者は、突然大声を出したり、泣き出す事があったという。感情の起伏が激しく、変人としてクラスで浮いていた。頭がとてもよく、勉強好きだった。医学書を読んだり、ネコを解剖するなどしていた。など、二人に共通点がある。特に「死」に対する好奇心は特筆だ。
いじめ加害者の自尊心、非行少年の自尊心は相対的に低い。いじめを行うことで得る達成感や快楽感・ストレス発散に加え、ヒーロー意識まで抱いてしまう。彼らは自尊心の低さに慣れ、自分より弱いものや無抵抗者の選別が日常的。だからか、「何でいじめをするのか?」と正せど、彼らはその生活の実態に慣れているので理解に及ばない。
注意したり、指摘したりする人に対し、「何を(見当違いのこと)言ってるんだ?」程度の認識しかない。彼らにあるのは理論武装した自己正当化ではなく、すべてが生活の一部として内面化している。当たり前の意識というのはどうにもならない。人間は自分と違ったものには、「なぜ?」と思うが、自分の当たり前の日々の生活に、「なぜ?」はないのである。
体を売る女子中高生や不倫行為者に、「なぜそんなことをするのだろう?」としない人は言うが、行為者に「なぜ?」はない。ある種の疑問を抱いていたとしても、抑止には至らない程度の疑問だから、他人が納得させる言葉は見つからない。