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自由意思とは何か

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「自分が何をしようが自分の勝手、自分の自由」という考えは、「他人が何をしようが他人の勝手、他人の自由」に置き換えられる。対象を変えただけで何も変わらないが、前者を肯定し、後者を否定する人はバカか無知かであろう。が、こういう人間を総称して、"ジコチュー"と呼ぶ。自分が自分であり、自分が他人でない以上、ジコチューは人間の本来的な姿。

囚われた人たちが自由を求め、自由を実現していった歴史を顧みれば、自由の素晴らしさを知ることができる。それらは学習だから実感ではないが、学習はまた実感の教科書にもなるし、自由の素晴らしさを知り、自由を求める人は、自由を求めて行動し、自由を得ることになる。未だ国家によって自由を規制している国を見れば、なんと不幸な人たちと思う。

自分も傲慢な支配者から自由を勝ち取った人間だが、従属者が支配者にする反抗のエネルギーは半端なく、が、それをしないことに自由は勝ち取れない。自由は供与されるものではなく、奪い、勝ち取るものだと、それも歴史が示している。それをしないで「自由がない」という人間は、自由は勝ち取るものだという歴史観もなければ、人間の本性すらも見失っている。

普通、人間は自由意志に基づいて行動したいと思うものだが、中には指示されたり強制されたりを好む者もいるのかも知れない。"知れない"というのは、自分が分らない部分であるからで、一見、指示されるのが好き、命令が好きという人間も、本当はそれを望むからではなく、そうしか出来ない、つまり他人に対して反発力がないから、そうしているかも知れない。

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その辺りの他人の心は分らないものだ。明るく活発な子どももいれば、自分を塞ぎ込んで心を開かない子どももいる。そういう子どもをネクラだ、自閉症だと、簡単に病人扱いするオトナがいる。したくて心を塞いでいるわけではなく、それも自己主張であるかも知れない。何も言わない、語らないことでオトナに挑戦的であるかもしれないのに、そういうところに気づかない。

普通と違えば即異常という考えは誤謬であるが、そのように当て嵌めるのが好きな人間は多い。子どもの心を読むのはオトナ以上に難しい。オトナはタテマエの世界に生きているし、タテマエはオトナの共通語であるからして分りやすい。ホンネに比べてタテマエは分りやすく、バレバレの情動である。しかし、オトナの社会はそれを共有することで成り立っている。

誰かがタテマエで何かを言った。「それってホンネか?」と問う場合があるが、誰かがホンネらしき何かを言ったとき、「それってタテマエか?」とは誰も言わない。「それはホンネか?」と周到に聞き返すことはあっても、それは疑いよりも確認の場合が大きい。あるいは、驚きをもって人は人のホンネに接する。タテマエは日常的だが、ホンネは確たる意思を伴う。

中にはホンネを疑う人もいる。ホンネは自分を利する言葉でない場合が多く、そこが建前と違うから区別がつきやすいが、ホンネを疑う人は自身がホンネを言う勇気がない人に多い。つまり、「どうしてこの人はこんなホンネを言うのだろう?」という疑問に混乱する。それがホンネを言わない人の思考である。真実よりも利害で発言する性向の人間に多い。

イメージ 4ホンネをいう人は人間関係を真実の中で構築しようとする。「腹を割る」という言葉にいわれるように、「腹を割る」とは、本心を打ち明ける。隠さずに心の中をさらけ出すこと。腹筋逞しく、「腹が割れてる」とは意味が違う。「腹を割って話そうではないか」という形で用いられるが、これは本当に互いの心が触れ合った者同士でなければ難しい。

「腹を割って話そう」は、タテマエ論は止めてホンネで議論しようと提案しているわけだが、しかし、議論というものは、「タテマエ」を表に立て、それについて批判やすりあわせを行うことで成立するのであって、「ホンネ」を出し合うというのは、例えば、「お前は気にくわない」とか、「お前はバカか?」というような、一般的には喧嘩を始めることになる。

それが喧嘩にならないのは、相手を許容するからで、「許容」とは「信頼」である。彼は自分を敵視していないし、自分を受け入れようとしているという思いが互いに存在するから成立する。何か一言気に食わないことを言われて憤慨するような人間関係にあるうちはタテマエで会話をした方が無難である。無難というのは、会話を良い時間にするという意味。

せっかく貴重な時間を割いて話したはいいが、嫌な思いをするなら話さなきゃよかった、という経験は誰にもあるだろう。自分は若い時分からホンネで人と交わりたい志向性が強く、誰にたいしてもそういう姿勢で失敗した事が多かった。人間の何たるかが分かっていなかったのだろう。分かっていなくてもタテマエ重視で対処する人は、問題なく対人関係をこなせている。

少し話してみて、奥歯に物がはさまったような奴とわかれば避け、すべてが自分中心であった。自分が人に合わせてまで他人との付き合いを望まなかったし、そうまでして友人を作らなくてもやりたいことは沢山あった。気の合わない人間を避けるのは、相手の利でもあろうと思っていた。自分が相手にとって望まれない人間であるのも気づかず接していたものだ。

「お前は自由主義者だな」、「枠に嵌まらない人間だ」、「言い難いこと、言いたいことズケズケいう人間だな」などが、当時の代名詞であった。それらはすべて自分にとっては自然な行為であり、生き方であった。「若さ」というのは不完全な人間であろう。しかし、同じ不完全な若者同士だから成り立つもので、これがひと世代も離れた人間には奇異に映る。

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あるいは未熟者となる。ところがこちらには「何が奇異?」、「何が未熟者?」とそれが分らない。エルビスのしぐさが変態に、ビートルズの髪が乞食頭に見えたオトナと若者は敵対関係にあることが自然であった。それを世代観断絶という。後発の多くのものはコピーであり、少々のものは驚かない自信はあったが、それでも若者の風俗などに違和感があった。

時代が生む音楽やファッション、芸術などの現象に違和感を抱きつつも、すべては自由志向から生まれるものであるという基軸に立てば許容すべきものであった。自身が自由であるなら他者の自由を認めるのが大前提である。「わたしがわたしの体を誰にどうしようと、お金にしようと勝手でしょう?」ローティーンの言葉に、どう返すべきかを考えたことがある。

「そうそう、あんたの自由。好きにしなさい」なら誰でも言える。「中学生がそんなことしていいわけないだろ?」これも誰でも言える。誰でも言える言葉が正しいわけではなく、誰でも言えるのは安易な言葉である。そう考えると、何を言うべきか、正しい答を必然的に考えるが、その前に彼女らのエンコーという行為が間違っていると断定する必要がある。

いくら考えてもエンコーが間違いという答は見つけられなかった。理由は、彼女らが間違いというよりも、買う側が間違いというこちらの意識が邪魔をしているからである。少女買春の間違は指摘できるが、少女を納得させる言葉は終ぞ見つからなかった。「人が人に価値観を伝達することなどできない。人は単に環境から学習するだけ」という知識もあるからだ。

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無理やり子どもを説得できるオトナはいるだろうが、説得が納得になっているかは疑問である。納得の根源はやはり自身の考えについての結論ではないかと。他人から説得はされてもシブシブなら、納得とは程遠い。それでもとりあえず禁止する、とりあえず説得する、しか方法がない。斯く言う自分も根拠を見つめぬままに、"とりあえず"説得という方法でやる。

そも、も、"自由なる意志を信じること自体誤りだ"と言ったのはニーチェである。まさか、ニーチェを紐解いて、「わたしの体はわたしの自由」などと叫ぶ少女にいうのは「豚に真珠」だ。ニーチェはなぜそういったのか?この問題を考える上で重要なのは、「意図」、「目的」、「動機」に対するニーチェの見解である。彼は我々の考えとはまるで異なっている。

我々のいう、「自由意志的な行為」というのは、ハッキリした意図や目的や動機に基づいてなされる行為と考えるが、ニーチェによれば、そういう形で我々に意識にのぼるイメージは、「すべての力の中でもっとも劣ったもの」であり、そういうものは行為を引き起こす本当に原因にはなり得ないものだという。少女のエンコーは「お金を得たい」という目的がある。

あるいは、お金は隠れ蓑で本当は狂った性欲を満たしたい少女もいる。思春期時期の女の"やりたい"は、メスの生殖本能ゆえ仕方がない。それはさて、ニーチェは『善悪の彼岸』のなかで、「意図を行為の由来と来歴とみなすという、こういう先入観のもとに、ほとんど最近に至るまで地上では賞賛や非難や裁きがまた哲学的思考さえもが道徳的に行われてきた。」という。

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つまり、道徳的な評価や裁判において、"ある人の行為はその人の意図に基づいていて行われている"と述べていることになる。別の言い方をすれば、意図⇒行為説という前提に基づいて道徳的評価、裁判は行われていると言ってもよい。責任という発想も、この前提から生まれてくるものだろう。そう断った上で、ニーチェは意図⇒行為説を斥ける。

ニーチェは意図=道徳という図式は先入観であり、先走りであるとして否定する。そうはいっても、我々が自分が行ったある行為に対して、意図や目的のようなものを後に頭の中に思い描くことはある。それらの事をニーチェはどう捉えているのか?「どんな行為もそれが遂行されている間に我々がそれについて持つ色あせた意識象とは無限に異なっている。

また、行為は行為がなされる前に頭に浮かんでいる意識像とも異なっている。結局、たどられる道の無数の部分は見えないのであり、目的などというものは現実の結果の一小部分に過ぎない。目的は記号であって、それ以上にものではない。信号なのだ。普通ならば複写が原型の後に来るが、ここでは一種の複写が原型に先行するのだ。」と、難解な文を要約すると。

①わたしたちが行為を行う前や行っている間に思い描く意識象(目的や動機)は実際の行為とは全く異なる。

②ある行為の動機や目的は無数に存在するが、行為を行った本人もその全てを把握することができず、それらの内の一部を断片的にしか説明できない。

③意図や目的は複写された過去以外の何物でもなく、我々が行った行為を自分自身に理解可能なものにするために後から作り出された解釈に過ぎない。

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つまり、我々は自身の過去の行為の目的や動機を説明することはできず、説明された動機や理由は後から作り出された物語に過ぎないといっている。元少年Aの手記『絶歌』も、彼の物語性によるナルシズム以外のなにものでなく、あんなものを買って読むなどバカげている。また、「舌禍」を「絶歌」と当て字にするなど、酒鬼薔薇的ふてぶてしさを感じる。

おそらく、自分の意図や目的を他者が正確に判断することも不可能であろう。人文科学では、他者の行為の意図や目的などを解釈するのは研究分野のひとつであるが、他者の心の状態に対する解釈は推測の域を出るものではない。自他を含めて心の記述には正しさを決定する客観的な尺度は存在せず、周囲の解釈を本人がそうではないと主張するなら、その真偽を我々は判断できない。

  イメージ 1さあゲームの始まりです
  愚鈍な警察諸君
  ボクを止めてみたまえ
  ボクは殺しが愉快でたまらない
  人の死が見たくて見たくてしょうがない
  汚い野菜共には死の制裁を
  積年の大怨に流血の裁きを

  SHOOL KILLER
  学校殺死の酒鬼薔薇

『絶歌』は酒鬼薔薇聖斗の上の挑戦状の変形であろう。自分にはそう思えるし、限定的に考えないで視野を広げて考えると、太田出版が書かせたというより、元少年Aの意志である可能性も見える。二人の児童を殺し、社会を騒がせるにはそれだけでは物足りない屈折した性格の所有者である元少年Aは、謝罪という隠れ蓑を用いて今度は児童の遺族を殺している。

社会に生息する必然性のない人間であろう。彼が18年間で得たものは、贖罪でも更生でもなく、脱法外で人を殺す技術、人騒がせのテクニックを習得したことである。今回の手記の一件は、あらためて人間の自由意志について考えさせられた。ニーチェが自由意志を否定するのがよくわかる。人間の無知が自由意志なる幻想を作り出す。だから、自由意志なるものは存在しない。

少年事件が頻発するが、そういう事件がおこるたびに警察もマスコミも必ずといっていいほど、犯行の「目的」や「動機」を問題にする。それが分れば、その犯行は我々に理解に及ぶし、受け入れ易くなる。我々はそれを知ることで、犯行を理解した気になり安堵する。もし、犯行の動機が不明瞭だと安心できない。動機が特定できないなら、「異常性格者の犯行」と言っておく。

常々、犯行の動機は司直やマスコミによって明らかにされるが(といっても、検事や判事が理解可能にするために作り出した解釈)といえるが、今回の手記は行為者自身による解釈で行われたもの。もし、元少年Aが何かを模倣したというなら、ドフトエフスキーの『罪と罰』であろう。小説の主人公がこの形態をとっており、『絶歌』にも引用が多いという。

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