未解決事件のなかでも謎の多い「三億円事件」が発生したのは1968年12月10日、公訴時効が成立したのが1975年12月10日であった。この事件については酒席・宴席でしばしば話題になったが、時効前にこんなことを言ったりした。「犯人は出版社に手記執筆を持ちかけたら、凄く売れると思うけどな。やってくれんかな~、印税収入は3億円どころじゃないだろう」
結局、犯人は動かず手記は実現しなかったが、時効成立後に三億円事件犯人を自称する人物が何人か登場している。押収証拠物の多い事件だけに解決は時間の問題といわれていただけに、時効とあって捜査関係者も落胆と思いきや、後に「三億円事件は解決していた」という著作も刊行された。それによると犯人は白バイ警官の不良息子で、事件直後に自殺していたとのこと。
青酸カリ自殺であったが、実は父親による子殺しというのも信憑性がある。いずれにしても、存在しない犯人を追っていたなら時効は当然であろう。我々が願った手記も出てくるはずがない。名乗りを挙げた幾人かのニセ犯人は、捜査関係者しか知らず、発表もされていない"あるもの"について正確に答えられないという、その一点においてニセ者と見破られている。
捜査関係者しか知りえない"あるもの"とは、お金を入れていたジュラルミンケースに留置された"あるもの"であり、犯人であるなら当然知っているだろう事件に使われた発炎筒の特殊な点火方法も、ニセ者には答えられない。これら人騒がせなニセ者は、「本を売って稼ぎたい」、「世間から注目されたい」、「詐欺のためのハクづけ」の3種類に分類されている。
本件は「三億円強奪事件」といわれるが、日本の刑法において、本件犯行は強盗罪には該当せず、窃盗罪となる。犯人が暴力に訴えず計略だけで強奪に成功しているからだ。自分たちの会話でも、「あったまいいよな~、お前犯人じゃないのか?お前こそモンタージュに似ているぜ」など酒席で盛り上がったものだ。2名の芸能人が、容疑者リストにあったらしい。
2名とは高田純次と布施明。彼らが容疑者リストに加えられた理由は、事件現場近くの都立府中高校に在籍していたということであった。事件を起こした当事者が出獄後に回想録のような手記を書けば、それなりの部数は見込めるだろうが、実行犯が事件の詳細を記した手記が刊行された事例はあるのだろうか?自分的には思い出せない。その前にモラルとしてどうなのか?
今回の元少年Aの手記出版で注目されるのがアメリカの法律「サムの息子法」であろう。その前に、手記を出版した太田出版の岡聡社長によると、今年3月に元少年が仲介者を通じて、出版について相談してきたということらしい。岡社長は、「少年事件の加害者が自ら書いた手記には、大きな意味があると考えました」と話しているが、にわかに信じ難い。
先の記事にも書いたが、信じない大きな理由として太田出版であること。なぜ太田出版であったのかは、多数ある出版社にあって偶然なのか、必然であったのかについて思考してみたが、確かにどこの出版社であれそれは然したる問題ではないといえばそうとも言える。もし、元少年側からのコンタクトであったとして、他の出版社であったら刊行されていたか?
「三億円事件」手記にも劣らぬ莫大な部数の見込める金のなる木をどうするか、喧々諤々の議論が社内でなされるであろう。「三億円事件」は被害者も出ていず、強奪金も保険で担保されたというから、実質的な被害者はない。世間を震撼させたという形容詞は当てはまらず、「お見事!」として犯人エールを贈りたくなるような、痛快極まりない事件であった。
その深層を知りたいと欲するのと、2名の男児・女児の命が無慈悲に葬られた「酒鬼薔薇聖斗事件」と、は同列に比せるものではない。太田出版社長の「少年事件の加害者が自ら書いた手記には、大きな意味があると考えました」のコメントは我田引水であり、額面どおり受け取れるものではないが、後日担当編集者が手記を出版した理由を述べている。
出版担当編集者が、出版そのものを否定するはずはないので、出版社の言い分としてどういう整合性があるのかを読んだ。「手記を読み、個人的にすごいと感じたのは、彼が少年院を仮退院した後、保護司さんや里親、更生保護施設などから、ものすごいフォローを受けていたこと。罪を犯した少年が更生するために、多くの人が尽力することにある種の驚きを持った。
ここは、全然知られていないところです。少年を更生するために、いろいろな方々がほとんどボランティアみたいな形で力を尽くしている。もちろん、制度について大まかな話を聞いたことはありましたが、ここまで細やかなフォローをしながら、社会に慣れさせて、段階を踏んで更生する形になっているとは…。今回、手記を読んで、初めて知りました。」
この編集者は落合美砂といい、太田出版取締役でもある。出版の公益性を言及する前に、「個人的には…」と断って彼女の情緒的感想を述べている。それがひいては"公益性"でもあるというニュアンスの含みをみせているが、聞きたいのは「○○の公益性がある」という言葉である。落合編集者は、遺族の抗議については真情を逆撫でするような言を述べている。
「私はこの手記全体が、遺族の方々、いろいろな彼を支えてきた人、あるいは自分の家族への長い手紙というか、支えてくれた人にはお礼の手紙であり、遺族の方々にはお詫びの手紙として書かれたものだなという気がしました。(中略) 2年以上かけて自分の過去と向き合って書いたもので、本の形にして残したいという思い、二度と会えない人たちに届ける意味もあると思う。」
出版社の人間に何かを問うこと自体、意味がないのが分る。内部の人間に見えるのは内部の論理だけであり、日本の企業体系というのは詐欺だろうがズルだろうが、企業と社員は運命共同体意識が強い。殿様に、"赤いものを黒だ"といわれても、"はい黒でございます"である。この編集者は犯罪を起こした少年の更生に多くの人たちの努力がある、関わりがあるといった。
あくまでも想像だが、企業の論理や利害が反映されていることに気づいてないであろう。なぜなら、元少年Aの真の更生に関わった人たちの誰一人として、元少年Aが手記を出版するといったら、反対すると思われる。なぜ、反対するかはいろいろある。もし、自分ならこのように反対する。「君は事件の表題にした告白本の印税で生活費を得ようなどはすべきでない。
君の起こした事件は二人の亡くなった子どもたちの上に成り立つものであり、ばかりか淳くんや彩花ちゃんの家族、親族も被害者として名を連ねている。悲惨な目にあった被害者を無視し、加害者の論理だけで犯罪を回想するなら、君は医療少年院に入所する前と同じではないか。君の起こした罪の贖罪とは、常に被害者遺族の立場にたった思考であるべき。
如何に歳月が流れようとも、被害者遺族に立脚しない思考は、身勝手な自己正当化の論理であり、それを排斥できた時が真の更生であろう。君は酒鬼薔薇聖斗の時に、自分自身を「透明な存在」と比喩した。そうして今、自分の居場所がない、存在が分らないからと言って、酒鬼薔薇のときと同じような、自己中心的で無慈悲なことをやるなら、君の贖罪は完結していない」
などとあらゆる手立てをして、手記出版など辞めさせる。印税収入を当て込んでの左団扇的な生活を目論むのは、犯罪を利用した傲慢である。そのようなことを思い立つこと自体、彼は真の人間から遠ざかって行くだろう。担当編集者は、「2年間、自分に向き合い、書きためたものを本の形にして残したいという思いがあったのでしょう。」といっている。
それが出版物でなければならない理由は、出版社の論理である。「書くことによって、何かを見出すものがあるなら、報酬などあてにせず、ネットに書けば?」と自分は言う。お金は生きていくために必要だし、お金を得たいという衝動・手段は「悪」ではないが、人を殺して赤く染まった手を題材に、金儲けをするなど言語道断である。永山則夫のような創作家になったらいい。
永山は字さえまともに書けず、漢字も読めない男だった。しかし、彼は獄舎で努力をして数編の作品を書き上げ、プロの作家をうならせるほどの小説を残している。生育環境や体験などが元になった自伝的小説であるが、そういう永山に比すれば、元少年Aの手記はいかにも短絡的である。元少年Aは文才があると言われたが、永山には文才もヘチマもなかった。
また永山は、著作の印税を4人の被害者遺族に支払い、その事が1981年の高裁判決において情状の一つにも考慮されている。そして永山は死刑執行の前には、「本の印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ、 特にペルーの貧しい子どもたちに使ってほしい」と遺言を伝えた。彼が幼少期から極貧の生活を送ったことがそういう意志を生んだのであろう。
永山則夫はつくづくやさしさに溢れた男だった。本当に純粋に自分と向き合い、社会と向き合いたいなら、真に贖罪を願うなら、自身の起こした罪を題材にした作品において報酬は考えないことだ。そのように彼を説きたい。編集者の言う、「この手記全体が遺族へのお詫びの手紙、彼を支えてきた人、自分の家族へのお礼の手紙」という視点は利害関係者の論理。
内部の人間が好き勝手なことを言うのは、内部の人間の使命であろうから、それはいい。ただし、被害者遺族も、彼の更生に関わった多くの人たち、また、元少年Aの家族は無念の思いであろう。事件当時永山は19歳の少年。元少年Aも15歳の少年である。永山と元少年Aには関わりがある。永山は1997年8月1日、東京拘置所において死刑が執行された。
永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された酒鬼薔薇聖斗こと少年A(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発、厳罰化を求める声が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないかといわれた。
永山は刑事裁判、少年Aは家裁送致の少年審判事件という違いはあった。同じ少年犯罪でも永山は死刑、方や刑罰はナシ。少年Aは医療少年院送致後、8年後に退院した。そうして2015年『絶歌』を出版、批判の渦中にいる。太田出版は、「批判やおしかりは承知の上元少年の心の中や犯行の経緯・元少年の現状を世の中に伝えるためにあえて出版に踏み切った」のコメントを出す。
元少年Aは今後もコメントを出す自己責任感はおそらくない。自身への過去の批判などを多く目にし、少々の批判には動じない図太さは、間違いなく身につけていると思われる。透明な存在であった酒鬼薔薇聖斗が、一層図太くなったかを推し量る材料であったようだ。それを「更生」というなら、それも「更生」であろう。「サムの息子法」の適用は日本にはない。
この法律は理に敵っているし、犯罪者が手記で稼ぐのを戒める法律はあって困るものではないから、作った方がいい。日本は加害者の人権は守るが、被害者の人権保護が薄いから、今後『絶歌』を模倣するようなものが出てくれば、法律が制定されるかもしれない。しかし、法律がなくても許されないという判断が出来る大人が出版社にいなかったということだ。
他の出版社が、「当社に打診があったけど、丁重に断りました」というのは出てこない気がする。理由はいきなり太田出版であったからだ。というより、太田側からの打診の線を自分は崩せないでいる。若き時代に悶絶したものは多い。犯罪など起こさずとも、若さとはウェルテルのようなもの。やりきれない荒廃の中で、陰湿で腐りそうな自分を見出すのが若者だ。
自分の立場をわきまえず、愚かさも忘れて法外な要求をしたり、無理難題をするのも若さである。人間は哀しい存在であるという自覚が若いときにはなかった。自覚のない試みは長くは続かないし、内部に潜伏する矛盾は時を見て露出する。その矛盾が人間の本質であることをどう学んでいくかであろう。矛盾を一言でいえば、自分のためと他人のための葛藤である。
自分のために生きることと、他人のために生きることは相容れないということ。この人間の本質を隠し、あるいはゴマカシ、他人にいい顔をすれば自己矛盾に苦しむし、自分のことばかり大事にすれば自己中と非難されよう。個人として、組織の一員、コミュニティの一員として、他人と自分の距離感をどのようにとるかを学んでいくのが人生でもある。
他人に取り返しのつかない迷惑をかけたら、謝罪すればいいのではない。謝罪を拒否する人もいよう。大事なことは相手から許されることである。起こしたことは許されないが、それを許してもらうための努力をしなければならない。年月が経てば相手も許そうという気持ちになってくる。償うとは、その日が来るのをじっと待ち続けることではないか。
東野圭吾の『手紙』の中で、被害者遺族が加害者家族を許す場面がある。そのキーワードは孤独であろう。謝罪のつもりで獄中から弟や被害者遺族に手紙を書き続けた犯罪加害者兄だが、その行為は実は相手のためではなく、自分の孤独から逃れるためだったと兄は気づく。それに気づいて、"もう手紙は書かない"と被害者遺族に送ったとき、被害者遺族は兄を許した。
謝罪とは空気で伝えるものである。その事を確信した場面である。言葉でなくとも心(誠意)は伝わるもの。真意を文字にしたところで、読む側は文字でしかない。「神戸児童連続殺傷事件」から18年。被害者遺族は徐々に少年Aを許そうという心境になっていた。そういう心を無視するかの如く少年Aは、「元少年A」として被害遺族の前に現れた。『絶歌』をひっさげて…。
もはやこれを絶版にしようが、新たな謝罪をしようが、澱んだ空気は元には戻らない。元に戻ったものは少年Aが、元少年Aとして現れたことで、被害遺族は18年前の憎しみに再び引き戻されてしまった。我々もまた、一出版社が罪を犯した人間の更生阻止に加担したのを見たことになる。"金になるなら何でもするよ~"という澱んだ社会に、法の整備は必要だろう。