ネット時代ということもあって、否が応でも元少年Aの手記に対する批判が聴こえてくる。論点を明確にした批判以上に、「外道」、「反省ナシ」、「人間のクズ」、「人殺しをネタに金儲け」、「何処まで被害者をいたぶる?」などの非難も多い。どこかのバカが書くだろうと思っていた、「読まずに文句だけ言ってんのかっ?読んでねぇなら読んでから文句を言えよ!」もあった。
読まずに文句を言う代表としていえば、「文句」を言わない人が偉いわけでも、読んで言う文句なら許されるって、誰が許すのか?「読まずに文句をいうな」も、「文句は読んで言え」というのもガキの発想だ。読むに価しない本を読むバカがいるか?自分は『絶歌』を読まない理由を、「どんな言葉を用いようと、内容が事実であったとしても容認できない」と書いた。
これは用意周到な言い方で、つまり元少年Aの自筆手記といいながら、書いてあることがどうして事実だといえるのかという問題提起である。こんなことをする(お金儲けのために手記を書く)ような、心の弱い人間が、自分に対して挑戦的な真実を書くなどあり得ない。人間が真実というものに触発されて、それが真に世俗に公益性ありと判断したなら、ネットに書くであろう。
つまり、「本が売れる」⇒「金が入る」⇒「生活が楽になる」⇒「苦しさから解放される」というような二次的な利害が存在するという行為をしただけで、彼は甘ったれたやつである。自分は出版社ほど元少年Aを強く批判をしてないし、批判をしなくても人間の弱さ、甘さ、ズルさ、腹黒さは知っている。問題はそういう物に加担したり、助長する者の罪を問題視する。
子どもが自己中であり、特権階級であり、親を奴隷が如く利用したいと思うのは当然で、だからそういう子どもに加担し、我がままを助長する親に責任がある。もし、子どもの我がまま、自己中に歯止めをかけない親なら子どもはどうなる?それが問題であろう。だから、同じようなことをくどく、しつこく書いている。子どもを甘やかせて困るのは将来大人になった子どもである。
人間の本質は、欲で、意地汚く、まことに罪ぶかい存在だと思っている。法を守らない、道徳を守らない、倫理を守らない、人間はそういう存在である。政治家や役人が賄賂を貰うのも、金融関係従事者が使い込みをするのを、モラルがない、倫理観が欠けているというが、彼らはお金が好きだからそういう事をするのであって、倫理やモラルを持ち出されても屁とも思わないはず。
お金が好きな人に倫理を言っても無駄。sexが好きな人に倫理を言っても無駄、そう認識すれば、「何であんなことをするんだろう?」という謎は簡単に解ける。そういう人達に自覚を促したいなら、「お金を嫌いになりなさい」、「sexを嫌いになりなさい」というのがいい。が、言うだけ野暮であろう。パチンコ好きの人に「ギャンブルはよくないよ」というようにだ。
タバコ好きに「肺ガンになるよ」というようにだ。誰もお金が好きで、sexも好きかも知れない。本能に殉じれば…。しかし、賄賂はよくない、不倫はよくない、ギャンブルはやらない人の多くは、「好きだから何をやってもいいわけではあるまい」という自制心が働くからであろう。婚姻者なら他者からの強要、暗黙の強制もあるが、多くは自己規制で生きている。
自制とは自分が自分を制御することで、そのタガが外れたり、緩めたりを自制心を無くすという。お金や異性の誘惑に負けてしまうことになる。他人がそれを責めてみても仕方がないことだが、そういう人間を雇っている経営者は困る。そういう政治家に付託を与えた民は困る。人間がその程度の生き物であるのは、よほどのバカでないかぎり、人々はそれを承知している。
よって人間は互いが社会秩序を乱さない程度にモラルを守って生きている。人は大きな失敗をすると良心の呵責に苦しむ。まして法を犯すような犯罪なら、なおさらであろう。これを一般的な考えと位置づけたいが、まあ人はいろいろだから程度問題とするのが正しい。が、人間の理想からいえば過ちは二度と起こさぬようにと、さらなる自制心を強めていくはずだ。
これを反省とも贖罪ともいい、自身の犯した過ちや罪は、自身の「良心」として内面化されていくものである。そうして高められた「良心」に添って生きることを更生という。周囲・周辺は更生者への力添えを惜しまぬことだ。今回の元少年Aについていえば、彼は手記を書くことで「良心」をなくしてしまった。彼が刑務所で贖罪し、それから「良心」を得たとすればだが…。
得たか、得ないか、そこは分らない。が、得たとするなら、今回の行動は少なからず「良心」をなくしてしまっている。本は読んでないが、言い訳、自己正当化と受け取る読者の言葉を借りると、そういう言葉を吐いてでも非道と言える手記を書いたならなおさらである。つまり、元少年Aは、"悪いと知りながらもあえてやった"ということだ。これで贖罪したといえるのか?
人間は過去にどんなに立派な行為をしていても、一度の悪で悪人と烙印を押されれば、過去の善行は偽善であったとみなされる。単に"魔がさした"だけであって、本人の善的資質は変わらない"と見る人もいよう。どちらが正しいか、その時点で分らない。が、本当に"魔がさした"というのであれば、その人の贖罪感は強く、二度と同じことをしないであろう。
そういう事で判断できる。「赤福」や「白い恋人」の石屋製菓の賞味期限改竄事件を自分は許していないが、多くの顧客に許されて営業を再開した。二度と同じようなことはやらないと信じたいが…。暖簾という気位を失った痛みだけでなく、彼らに「良心」を失った心の痛みがあるかないか、そこが問題であろう。痛みの大きさを測るには、それを得るのにどれだけ時間がかかるかである。
正直、営業再会を喜ぶ客が群がったという報道にガッカリした。諸手をあげて許していいものだろうか?消費者はどうしてお灸をすえないのか?「赤福」や「白い恋人」を食べなければ生きていけないのだろうか?そういう疑問であった。「昨日の敵は今日の友」という節操のなさが特質の日本人は、「西洋人に比べて憎悪心の希薄な人種である」と、安吾の指摘に考えさせられた。
元少年Aは「良心」を失う痛みをどのくらい感じたのかを想像してみた。告白本を読めば分かるとしたものだが、自分はそうは思わなかった。本に書いてあることがさも真実であるかのように、虚実を書くことは出来る。金を貰って書く真実など信じるほうがどうかと思う。商業主義に乗っからない文学は、内なる衝動によって書かれたもの。ゆえに、「純文学」といわれたように。
いわば、「商業主義」は「純文学」の対義語である。元少年Aの手記はお金にならなくても書きたかった真実とは程遠いものと自分は断じている。だから読む価値もないし、彼の言葉から思考したいという気も起こらない。それでも本が売れるのは、買って読みたい人がいるからだろうし、世間を震撼させた「酒鬼薔薇聖斗事件」の重さ、大きさが伝わって来る。
「手記」といえば事実と思う人は多いだろうが、出版社の商業主義によって喚起された「手記」など信じるに価しない。太田出版も一企業である以上、企業利益は高めても、ダメージは望まない。「元少年A側からの持ちこみ」と矛先をかわすなど、もし自分が出版社の人間であったなら、居の一番の指摘したいことでもある。そう口裏を合わせておけば、出版社側にダメージは少ない。
太田出版は元少年Aのダメージより、自社の利益を優先するはずだ。元少年Aはお金が最大目的だったと思われる。自著の巻頭に、「印税収入は被害者遺族にお渡ししたい」とあるならともかく、元少年Aからすれば事件から18年も経過したこんにち、両被害者遺族が金銭を望んでいないことは承知済みであったはずだ。だからか、両遺族にとっては裏切られ感が強い。
「十年はひと昔」とはいえ、最愛の子息を無慈悲に殺戮された親の心情を、親を経験しない元少年Aには見えないだろう。獄中で彼がその事をどれほど類推したところで、親の心情にはたどり着くことはない。淳くんの父親も、彩花ちゃんの母親も、自分の憎悪は薄らぎ、更生を願ってやまない心境にあるという、表層的な思い上がりがこういう仕打ちに至るのだ。
出版社からどのような悪魔の誘いがあったとしても、「自分にその気はありません」、「それはどれほどのお金を積まれてもできるものではありません」といえてこそ、人間としての真の更生と言える。彼は獄中で書物に目を通したであろうが、もっとも読むべきはゲーテの『ファウスト』であったろう。悪魔の誘惑が何であるか、それを断ち切るためには何が必要か…
人が「良心」を失えばどこでも楽に生きていける。元少年Aは自身の生息場所さえ明らかにしていず、そんな情況下で「良心」など何の役に立つものではないと、コレが現実思考である。かつて彼は、「酒鬼薔薇聖斗」という殺人鬼を作り上げたように、現在は元少年Aという秘匿性を武器に、手記でお金持ちの人生を目論んでいる。こういう二重人格構造が彼の特質であろう。
淳くんや彩花ちゃんを殺したのは「酒鬼薔薇聖斗」であり、「少年A」であり、「東慎一郎」という認識なのだろう。今は別の姓名を得ており、未だ、自己と自我と虚実と虚像の境界線のないままに生きてることが、このような金儲け目当ての手記を書けたと推察する。「酒鬼薔薇聖斗」こと少年Aは、起こした事件を世間が大騒ぎしている時に、他人事で向き合っていた。
こんにち、元少年Aこと元東慎一郎は、あの当時と同じ気持ちで騒ぎを眺めているのか?そうであるなら、『絶歌』は赤い文字で敷き詰められた「酒鬼薔薇聖斗」の挑戦状に思えてならない。贖罪?してはいないだろう。彼は東慎一郎のときも真面目な一少年であった。そんな彼は、真面目に生きて行くことで、どうにもならないところに追い詰められていたのだろう。
そういう情況が、人生をつとめて遊びにすべく思い立ったのが、「酒鬼薔薇聖斗」であった。ただ思い立っただけではつまらない。「酒鬼薔薇聖斗」に命を与え、動かすことが遊びの醍醐味であった。誰からも受け入れられない孤独な少年が、騒ぎを起こすことで世間に注視され、ほくそ笑んでいたのが見える。そういう彼の性格が改善されることはなかったのだろう。
少年Aは15歳のときには「良心」の欠片もなかったろう。それが32歳ともなれば「良心」の欠片くらいは分ったかも知れない。しかし、一般人であれ「良心」に逆らい、否定するような行動を人間はするものだ。だからといって、「良心」を否定するような人間が悪人とは言い切れない。人間の気力・体力に限度があるように、「良心」にだって限度はある。
「仏の顔も三度」という諺もあれば、「あの人は真面目でいい人だけど、怒らせたら怖い」というように、世間一般人以上に良心的な人もいる。そういう人は、誰よりも良心的であろうとし、ゆえに「良心」の限界を知るのである。「キレたら怖い」という人は象徴的な人である。良心的でありたいから我慢に我慢を重ねた反動である。こういう人は気をつけた方がいい。
児童心理学にいう、「いわゆるいい子」の苦しみと同様に、誰よりも良心的であろうとする人間にしか、良心的であることの苦しみは分らないのだ。元少年Aが手記を書いた本当に理由は彼にしか分らないだろうが、そんなことをいっていたら、人間の行動は周辺・周囲の誰にもわからないし、対処のしようがなくなってしまう。だから、ある程度の判断で注意、指導をする。
思っていることの畑違いのことを他人から言われた経験は誰でもあろう。それらを踏まえ、元少年Aの「手記」真意はお金であろう。これを否定する素地はない。次に「良心」という自制心を外したこと。彼にはそれを外せる"秘匿性"という武器があった。かつての「酒鬼薔薇聖斗」のように。元少年Aという人間は、"秘匿性"を楯にどんなこともでき得る性向のようだ。
淳くんや彩花の親を裏切ることも予見できていたはずだが、裏切ることで心が痛んでも、それに変わる何かがあればという人間であろう。その何かとは生活に必要な「金」である。かつ「酒鬼薔薇聖斗」のような愉快犯という遊興よりも、今のかれにとって問題なのは「お金」である。端的にいえば、金のために世間を敵に回すことを選んだということ。自分はそのように考える。
そうでないというなら、彼に対する怒涛とも言える批判、反響の大きさの収拾に向かうはずだ。それがない限り彼の意図は上記と断じざるを得ない。人が罪を作るのはそれなりの素地がある。戦後の飢えや貧困から作られた少年法の役目は終焉し、新たな少年法体系に改定された。元少年Aの「良心」を守らなかった太田出版は、更生保護の観点から糾弾されるべきである。