ある女性が、デパ地下の試食商品について持論をいうので、話になることにした。「試食は食べてくださいと出しているんだから、それをアレコレいう方がどうかしてると思います」と、案の定バカであった。この人と自分(を含めた一般人)の考え方の根本的な違いをまず、本人に分らせることが大事で、それなくして延々言い合いをしたところで時間の無駄。
自分はこのように諭した。「試食品は食べていいものですから、食べるに関してはその通り。だけど、試食品の"食べる"には別の意味があり、用途があるのをあなたは考えないのか?感じないのか?もしそうなら、話をしても無駄。勝手にむしゃむしゃ食っとれよ」といったら、「回りくどい言い方する人ですね。もっと率直にいったらどうです?」という。
この言い方のどこが回りくどいのかと思うが、相手がそういうならそういうレベルの相手なんだろう。だから聞いてみた。「回りくどいというなら、コレをどう考えるか答えてくれんか?化粧品の試供品サンプルって知ってるか?あれは実際の商品に比べて小ぶりというか、小さくないか?なぜ、そうなのか答えられるか?」と、バカには分りやすくいう必要がある。
「お試しだからでしょう、あなたバカにしてんの?」あらあら、もうこんな言い方になってしまって…、この時点で話す気が失せた。この女を分らせて何の意味があるのか、こんなヤツは好きなように社会に放りだしているのがよいと感じた。黙っていると怒りからか、追い討ちをかけてきた。「あなたって正論いう人ね。正論いって、それでオワリみたいな」
なんとなく、試食の意味が分かったんだろう。試供品サンプルの例を出したところで。それで試食について話すのは不利とみて、個人攻撃にシフトして、どこまでも自尊心を守ろうとしてるのが見え見えである。「正論なんかバカでもいえるよ。何にも難しいことじゃない。難しいのは正論をバカに理解させること。試食はタダの食い物でないことを分かったのか?」
分ったならいいが、私はあなたに説得されたくない、分かりたくないというなら、話すの止めた方がいい、気分悪くなるだけだろ?こっちはどうだっていいんだから」というと、「何を分かったようなこと言ってんの?あなたってバカじゃないん?」と言う。「当たり前だろ?賢いヤツがバカと話そうって気になるか?それくらいは分った方がいいぞ」
ここでブッチン退出したが、こういう風に、自分の考えを人から説得されるのを嫌う女は多いね。何が正しいを見つけようするのではなく、自分の考えにただただ賛同してくれる人はいい人、そうでない人は大嫌い、べつに人がどういう価値観でどう生きようと関知しないが、こんな女を妻にもらった男はどうするんだろ?互いが意見が違うのは別にいい。
しかし、どちらの意見が正しいかを話し合いで決めていくわけだが、それなのにこういう態度をとると男はもう話し合いをしたくなくなるだろう。「男の人はどうして理屈ばかりいうの?」という女は多い。「理屈は相手を分らせるためにある」というのがなぜ分らないのか。女は感情で相手を分らせようとし、「そうよね、そうそう」と、分る相手ならいいよ。
そうばかりじゃないだろ?「そうよね、そうそう」が本当に分かっているばかりではない。「いや、そうじゃないでしょう?違うと思うな」といえる女なら、「違うと思う理由をいわなければ、相手も納得しない」。「何で違うと思うの?何で~」と突っ込まれ、「いや、なんとなくだけど…」で通用するのが女の世界であっても男の世界ではそれでは許してくれない。
友人であれ、会議の席上であれ、反対意見や異論には明確な根拠なり、理由を言わない限り納得しないだろうし、理由も言わずにただ反対ってのは相手にされない。物分りの悪い人間と物分りのいい人間がうごめく世の中で、試食品は食べるために置いてあるんだから遠慮しないで食べていいというなら、そういう人間に営業妨害のレッテルがつけられて当然だろう。
なぜ、そんな簡単なことが分らないのか?理由はバカだからである。試供品サンプルをハガキで注文して、送られてきたのがあまりに小さいからと文句をいうのと同等のバカだと思う。試供品サンプルは理解するが、試食は理解できないというなら、単に食い意地が張った卑しい人間とも言えるが、どちらにしてもバカの範疇だ。子どもにむしゃむしゃ食わせるのもバカ。
育ちの悪い子どもを育てている。本当にウィンナーソーセージを、子どもが美味しいならと、買う意思を持って子どもに味を見させるのなら節度のある親だが、育ちの悪い親の根性が育ちの悪い子どもを作る。「アレは買う人に味を見させるものだから、食べてはいけません」と、それが教育だろう。節度や我慢をさせるという立派な教育は社会にたくさんある。
我慢を教育した子は、ちょっとやそっとではキレない。我慢をするというのは、イヤなことに耐えるだけではなく、明日の(飛躍の)ために今やるべきことをやる我慢も多い。ゲームがしたい、テレビがみたい、友だちと遊びたいという気持ちを我慢させるというのは親にとって実に難しい。取り上げたりするのは愚の骨頂で、それは我慢をさせるとは言わない。
我慢させる子をにしたいと、そういう理念を親が持っていたなら、もう0歳頃から始めなければダメだと思う。ようするに、「我慢させる」ためには、ルールとかマナーとか、そういう価値を子どもに植え付けなければいけない。早くからルールを守らせるように親が努力しても、自我が芽生える頃には、「友だちは何でいいのに、うちはダメなの?」そういう疑問が沸く。
「友だちの家に泊まりに行っていい?」というのが小学高学年時に我が家にもあった。自分も妻もそんなことあり得んが共通の意思だったが、子どもは他所と比べて不満を言う。「我が家の決まりは父が作った。それが嫌ならどこかにもらわれて行くか?頼んでやってもいいぞ。電話番号教えてくれ。決まりを変えるつもりはない、お前の考えを変えろ」と、言える親が今いるのか?
頑固に価値観を押し付けるのは、どうしても必要になる。だいたい、「よその家はこうなのに、なんで家は」なんて当然生まれてしかりだが、「よそがそうならじゃあいいよ」ってそんなことばっかりやってたらどうなる?子どもの機嫌をとり、子どもに媚びる親が多すぎる昨今だ。家にドッかとした柱がいないと母はO.K、父はNo、でもめる。「船頭多くして船山に登る」だ。
キチンと、子どもの目線に立って話せば納得させられない事はない。試食をパクパク食ってる子などいない。注意してみていると、ドロボウネコのような周囲を気にしながら、間をおいて食ってる子が多い。親は見て見ぬフリをしているのは、一応「たくさん食べてはダメよ~」という上辺の注意をするから、親の目を一応は盗んでいるようにやっている。
「なにやってるんだ。買う気もない者がそんなことするもんじゃない!」と、手の平でもパシリと叩けば二度と人の目を盗んでそういう事はしない。結局、親がズルイし親が卑しいんだ、それしかない。タテマエの注意なんか本気でないのは子どもがいちばん知っている。躾や教育は中途半端ではいけないなと、デパ地下の試食コーナーを見て、つくづく感じる。
何が正しいという理念は、心の貧しさの前に消失してしまう。決して家系が貧しいわけではない、ママはヴィトンのバッグをぶら下げている訳だ。「貧乏人がそういう物を欲しがるわけがない」と誰かにいったら、「貧乏人だから欲しがるんじゃない?」と返した女がいた。「そうじゃない、見栄を張るから欲しがるんだ。貧乏人が見栄を張っていい訳ないだろ?」
「なんで、貧乏人だって見栄を張りたいでしょ?」、「破綻するだろ?それでもいいなら張れば?」こういう論理にしか行き着かない。どう考えても当たり前の論理だが、「貧乏人だって見栄を張りたいでしょ?」なんてのは感情論であって、理性と感情をつき合わせて、正しい生き方を模索するわけだ。そうでなければ借金地獄に陥るし、感情先行の結末だ。
女が虚栄心が強く、金もないのに見栄を張ったり、高級ブランドを持ちたいのは、女の感情として当然かも知れないが、感情を優先させたら家計がどうなるかを考えないから悲惨なことになる。感情の行く先は理性であるからして、感情を抑えるのも「我慢」である。おそらく、我慢を教育されなかったか、あるいは我慢を強いられた反動なのか、いずれかの結果だろう。
子どもに我慢を強いることでの反動があるのは否定はしないが、一つだけ言えることは、親も我慢をしているか、そういう姿を子どもが目の当たりにしているか、も大事な要素。子どもはちゃんと見ているもので、子どもに我慢を強いる親が、そうではない生き方、素振りをするのは許せないもの。我慢が普通に行われている家庭であれば、誰も我慢を強いてはいない。
「最近の若者は我慢が足りない」、「我慢することを知らない」などの言葉は四方八方から聞こえてくる。だからといって、その子の親が何をできるわけでもない、その子自身も我慢をする事はあまりに苦痛でしかない。すべては後の祭りであって、どうして3歳~5歳時期に我慢をさせなかった?だけが原因である。休日に寺で座禅を組み、滝に打たれて直るものでもない。
最近、長女の息子(孫)と洋食を食べに言った時に、あまりに洋皿を汚して食べる孫に驚き、食後に孫の皿に飛び散ったころもや食べかすを一点に集め、「どうだ、この方が綺麗だろ?」と見せた。口であれこれ言うより、視覚的に見せるのがいいと感じてその方法を選んだ。こんなのは母や祖母がもっと早い段階で気づくべきだが、誰も言わないなら爺が出動するしかない。
そして、2ヶ月後に同じ洋食店で同じものを食べた。孫は自分の隣の席で…。見ていると食べる間からカスを上手く処理して、皿を汚さないように食べているではないか?後半になったころ、「爺ちゃんこれ見て、きれいじゃろ?」というのにも驚いて、「めっちゃ綺麗過ぎる。前と違って驚いて心臓が止まりそうになる」と言ったときの、微笑ましい顔が今も浮かぶ。
「爺ちゃんの皿とどっちが綺麗か最後に見せ合いしよう」。と言ったが、娘も少しは頑張ったんだろうが、問題は言い方なんだろう。「ちゃんといってきた」、「今でも時々注意する」、そんな言葉が専売特許だが、どういう風にいえば分らせられると、そこの知恵が浅いと何の効果もない。「言ってる」、「やってる」で結果が出てないなら、何もしてないのと同じ。
男が理性的なのは、子どもに何かをいう場合に選択種を何通りも考えて、これがベストというのを模索する。まるで、将棋の対局中で難しい局面で、次の一手をあれこれ思考するのと似ている。世間ではこれを「子どもは怒るではダメ、叱るのがいい」という言い方をするが、感情任せにガーガーいうのではなく、どういう風な言葉がもっとも効果的かを考えれば自然そうなる。
将棋の次の一手も、女を口説く時の言葉も、常に最善・最適でなければ効果はない。子育てと言うのはそういったあらゆることの集約とも言える。女をたらした男が父親になれば、子どもをたらすのも上手いハズだが、女と同等に子育てに興味を抱けばである。であるなら昔取った杵が役に立とう。世の中何が災いするか分らないし、それこそ「風が吹いたら桶屋儲かる」だ。
「デパ地下の試食を遠慮せずに食って何が悪い!」というような、脳ミソのふやけた母親がどんな子育てをするかなど聞かずともわかる。もう少し努力してバカを直した方がいいし、死んでも直らないようなバカ女は数みたけれども、一生懸命に取り組んで努力すればバカは直るというのも持論だ。バカは何もしようとしない人間のこと。ただそれだけのことだと思う。
人間なんて、何にもしなかったら一律バカに決まっている。それがイヤだから、いろいろ工夫し、改善したいからアレコレ学ぼうとする。つまり、バカを排除するのは心の健康を得るためだ。人を愛し、物を愛し、働き、遊び、しっかりとものを考えることができること、それが心の健康である。子どもは大人になったら子ども時代を忘れるというが、そんなことはない。
我々の中には過ぎ去った一時期のものとしてではなく、継続する性格の一面として"子ども"が住んでいる。それだから、子どもに対して親切であったり、寛大であったり、優しくできたりするわけだ。幼児の世話は要求を満たすこと一点しかない。が、子どもはいつまでも幼児でいるはずもないわけで、親はそれに応じて子どもの要求を満たさない事へとシフトする。
乳幼児期は、子どもを親の手許から離し、社会化させるためにもっとも重要な「始めの一歩」となる。長い間、子どもは「ダメな存在」、「かんしゃくを起こす存在」、それゆえムチを惜しむなかれと言う時代が続いた。キリスト教的原罪説である。18世紀の啓蒙時代に、ルソーの『エミール』一冊が口火となって、妥当な取り上げ方をされることとなる。