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くらし安心グラシアン

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「くらし安心クラシアン」というコピーは、どうやらインチキであるらしい。もっともそのようなコピーを真に受ける人間ばかりではないし、蛇口からの水漏れなどはほとんどゴムパッキンの劣化なので、日曜大工店でパッキン(200円くらい)を購入すれば簡単に交換できる。自分でやると5000円がいかに高いかが分る。水栓の原理は簡単なので難しく考えないように。

「くらし安心クラシアン」がぼったくりのインチキなら、「くらし安心グラシアン」は、正しいこと間違いない。グラシアンとは、バルタサール・グラシアン(Baltasar Gracián y Morales, 1601年1月8日 - 1658年12月6日 哲学者、神学者、イエズス会司祭)著述家でもある彼は、教育的・哲学的な散文を数多く残し、世界中で翻訳され、多くの人々に愛読されている。

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ショーペンハウエルはグラシアンの著作のドイツ語訳を手がけ、森鴎外は部分的な日本語訳を発表している。ショーペンハウエルは、「人生のよき手引き書」といい、ニーチェは「ヨーロッパはいまだかつて、これほど精妙にして複雑な人生の道徳律を生んだことはなかった」の言葉を残している。欧米ではこんにちなおマキャベリの『君主論』と並び、不朽の名著と読み継がれている。

聖職者による人生訓が何ゆえそれほどに人を魅きつけるのか?ニーチェをしてグラシアンに対する手放しの賛辞は驚きというほかない。ニーチェは言わずと知れたアンチ・キリストであり、彼のキリスト教批判には辛辣な言葉が多い。「あらゆる国家も社会秩序も、階級も結婚も教育も法も、すべてこれらはその力と存続をただとらわれた精神の抱く信仰にもっている。

したがって理由のなさ、あるいは少なくとも理由への問いに対する防御の中にもっているといえる。そのことをとらわれた精神は承認することを好まぬが、それが恥ずべきことだと当然感ずる。その知的な発想の点できわめて無邪気であったキリスト教はこの恥ずべきことには少しも気づかず、信仰を、ただひたすら信仰を求め、理由を求める願いを熱意を込めて退ける。

つまり、信仰という結果を指して、『あなたたちは信仰の利益をきっと感ずるようになるでしょう』といい、『あなたたちは信仰によって至福を得るべきです』と暗示する。国家の行き方もまた事実そのとおりであり、父親が息子を教えるのも同じ仕方である。『ただこのことをほんとうと思えば、どんなにそれがよい効果をもつかがわかるだろう』という。

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だがそれは、一つの意見が運びこむ個人の利益からそれが真理であることが示されるはずということで、つまり一つの教えの役に立つことが知的な確実性と根拠づけを保証するということである。このようにとらわれた精神は、その原則を利益のためにもつから、したがって自由な精神を判断するときもその見解をとることで利益を求め、まさに役立つもののみを真とするのだと憶測する。

しかし、とらわれた精神が自分と同じ種類の人々に役立つものとは正反対のものが自由な精神には役立つようには見えるので、自由な精神の原則は危険だと考える。彼らは、自由な精神は正しくない、なぜならばそれはわれわれの害となるからということを口にもし感じもする。」いささか長い引用だが、ニーチェのいう"自由な精神"とは、自由に情熱を上げるひとではない。

すべての信仰から眼をそらして試みつつある思惟のきびしさをもつ人をいう。一方、グラシアンは自由についてこのように言う。「正しい道を進むために、いつでもよく考えることが大切だ。熟考すること。常に先を見据えること。この二つこそが人生に自由を与えてくれる。」  2人の共通点は、生の奴隷として生きるな、生の主体として生きろと言っている。

義務への服従でなく、自らが価値定立の主体としてということ。グラシアンの先を見つめて熟考とは、予定通りに生きるということ即ち自らの価値定立である。ニーチェは、『この人を見よ』のなかで、「自由精神とは、再び自分自身を確実に所有するに至ったところの自由になった精神」といい、こうなるためには世俗を抜き出て孤高に耐え抜く「例外者」になる必要ありとする。

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「例外者」というからには、例外なのだろう。賞賛を期待するなどもっての他であり、不敬・非倫と世間の非難を浴びる覚悟をしなければならない。当然であろう、人間は社会的な動物だ。が、ニーチェはこういう自由精神を、「決して安易な独断の生ではなく、むしろ因習的独断にとらわれていた自己を超克し、本来の自己へと帰還していく困難極まる途である」という。

自分がおかしいのではなく、因習がおかしいということだが、おかしいとしても社会の世間の決め事である。変人はみな自分はまともだと思っている。おかしいのはむしろ世間であると思っているが、世間とは善悪良否を超えてマジョリティである。そこに立ち向かうのは並大抵ではない。そもそもグラシアンは、このような問題にどう答えを出しているのだろう。

人との関わりについて、「好ましい人とつきあうべし」という。「相手から学び、互いの意見の交換の場にすべし。見栄だけで行動する人は避けるべし」という。また、「信頼できる人とつきあうべし」という。「誰に対しても、高貴な人だなどと思いこまぬように。そうでないと自分の心が畏縮するからで、いかなる偉大な人も話してみれば、その偉大さは錯覚と分る」という。

確かにそういう事は多い。話してみると、「なんだ、普通の人間じゃないか…」と。当たり前だ、人間は人間以外の何者でない。どんな美女でさえ、裸になれば普通の女である。それを幻滅というなかれ。うんちもしないような女だと勝手に定義づけたのは自分である。グラシアンの言葉をまとめた『賢人の知恵』は、確かに「くらし安心グラシアン」に相応しい。

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次の一文などは好例。「頑固、生意気、ぶしつけ、無分別な人に出くわしてもいいように、前もって心構えをしておくこと。こういうタイプに立ち向かうための良策はない。たまたま出会うことを想定し、不毛な衝突に巻き込まれないようにすることだ。バカバカしいやり取りに引き込まれないよう、また、相手への振る舞いが横柄にならないよう、気をつけよう。」

確かに無駄な言い合い、くだらない論争はさけるべし。自分は相手にそれを感じたらさっさと店じまいをして店の中に立ち入らせないようにする。公的な場で自分が相手を選り好みするのは避け、相手に選ばれることに主眼を置く。そうするのが公平な付き合いだと思っている。ただし、公の場においてである。女数人のグループと付き合うときにはさらなり。

まず、グループの中の不美人と多く会話を心掛けるのが鉄則である。バカな男は女の嫉妬の怖さを知らない。見え透いたようにかわいい子ばかりに気持ちが行くと、不美人の妬みを呼び起こし、障害物となり得る。りあえず、べっぴんさんは無視して不べっぴんさんと関係(絆)を強めること。誰からも真っ先にチヤホヤされていたべっぴんさんの気を揉むことにもなる。

美人にチヤホヤしても、そんなの当然、いつものことと思っているべっぴんさんには、むしろチヤホヤしない方が相手の気を惹く効果がある。つまり、当たり前のワザと避けるのがいい。むか~し、そうしていたときに、べっぴんさん側から個人的に、「なんであんな子がいいの?」と言われて驚いた。女というのはみさかいないというか、そこまで露骨な物言いをするものかと。

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まさに感性だけで生きているかのようである。こういう非理性的な物言いを、男は口が裂けても言えないが、美人とて不細工に嫉妬するもの。グラシアンは、「心づもりを明かさないように」と、このように言う。「感情は心の窓。現実を考えれば包み隠すべきものだ。手のうちを明かすと確実に敗者となる。用心していれば、あらゆる攻撃に対しても優勢を保てる。

自分の望みは秘密にする。そうそれば、それを横取りしたり、阻止したりしようとする相手をくじくことができる」。人間というのは何事も自分が理解できることは普通に思えるから、あまり関心を払わないが、反面、自分の理解を超えたり上回ること、把握できていないことに敬意を払う。貴重品が貴重なのは高価だからである。よって、つかみどころがないと思わせる。

得体の知れないが価値がある人という期待が続く以上、相手はよく分らないが称賛はするものだ。これを故意にやるというのは大変だし、できてるひとはそういう性格を自然に有しているの違いない。作為というのは長続きしないものだから。賢者は賢者のように生き、振舞っているのではなく、本人的には自然の振る舞いであろう。だから賢者といえるのかと。

『賢人の知恵』を読むのは賢人になるためでなく、読んで賢人になれるはずもなく、ショーペンハウエルのいう、「人生の手引き書」であろう。読んで賢くなる書物などこの世に存在しない。つまり、読むだけでは何事も分ったつもりで終りだ。ある時に書かれたことを思い出して、それを参考にやってみる。そういった行為なくして人間は賢くはなれない。

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グラシアンは賢くなる方法など提示も教授もしていない。が、「常に自分の内面をチェックせよ」という。自分の気質、能力、判断力、感情などを正確に評価するのが、自分を知ることになり、自分を知ることが自己改善・自己変革の基本である。つまり、「何をどうする」ためには、「何」が「何」であるかを知ることだ。また、「何」がどう「悪い」のかも知ること。

何の善悪を知ることが、内面を知ることだが、実は意外と難しい。そういう場合は他人からの指摘に注意しておけば間違いない。他人は自分の師であろう。吉川英治は、「自分以外はみな師」といったが、人は自分が学んだ相手の言葉を語り、その努力を通じて成長する。これが達成できる人は優れた人でしかない。吉川の言葉は彼がそうできるか否かを問うものだったろう。

人間という脆弱な生き物には、何が影響するか分らないほど多くからの影響を受ける。昔、男を嫌悪する女がいた。いろいろ聞いて分ったのは、彼女が父親をとてつもなく嫌悪していたこと。そのあまりに尋常ならざる嫌悪さにあらぬ想像を抱いたが、それを聞くことはしなかったし、聞かされることもなかった。彼女には彼女なりの父親から得た男性像がある。

自分にも母親から得た女性像がある。それによって女性を尊敬し、また軽蔑もする。自分が女性の嫌いな点はすべて母親の嫌な点である。尊敬する女性は、自分の理想の女性像であって、母親を反面教師にしたタイプでもある。このように自分の中に作られた女性像のほとんどは、母親に関連する。父親を嫌悪するあまり、すべての男を嫌悪するというのはただならぬ事だ。

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そうに至ったただならぬ何かが彼女にあったという事だろう。親と言うのは、なんとも罪深いものかと。子どもの一生に汚点を残すほどの影響力を与える親など、むしろない方がいい。逆もあり得る。あまりに父親(母親)にのめり込んでしまう子どもも、実は被害者である。それを明らかにしたのがフロイトであった。いわゆる、マザコン、ファザコンと呼ばれる深層心理。

グラシアンはこのように言う。「愛され、かつ敬われることは望ましいが、尊敬を失うまいとして愛されることに執着しすぎてはいけない。愛は憎しみより大胆で、愛着は畏敬の念より図々しい。人は結婚するとき、愛されすぎるリスクを負う。愛情が深まるにつれ、敬意はうすれていく。度を過ぎれば侮りのもとと言うわけ。愛情は深さではなく正しい理解こそ大事。」

子が親を本当に必要とする時期はある。正確にいつまでというのはいろいろな考え方があるが、何より不幸なのは、必要としていないのに親からまとわりつかれること。子どもは直接的・間接的、さまざまな方法で親の害を示すが、物分りの悪い親はそれに気づかない。傲慢な親も、自分が虐げられるなど許されないと思っている。その点立派なのは動物である。

子への愛情に執着しないし、子から執着されたい気すらない。太宰治に『斜陽』という一篇がある。斜陽とは西に傾いた太陽。夕陽。そのことから、勢いあったものが時勢の変化で衰えることの意味に使われる。親は子に対し、斜陽の姿をさらさないことだ。忘れられ、のけものにされる前に自ら去るべきである。子が自分を必要としなくなることこそ、「子育て」の目的である。

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原は自ら女優になりたかったわけではなく、家庭が貧しかったからである。高峰秀子もそうだった。そんな大根女優を名女優に変えたのが小津であった。引退の理由は明らかにされていないが、小津が亡くなったからというのが有力である。原の4歳年下の高峰は5年前に死去した。老いは必然だが、原節子、ちあきなおみ、山口百恵に引退の美学を見る。

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