「早漏れだけど、どうしたらいい?」と悩める友人がいた。「ああ、早漏れ、水漏れはクラシアンに電話してみな」と冗談を言った。それにしても、「くらし安心クラシアン」という取ってつけたような名前と、CM攻撃によって成長してきた会社だが、結構トラブルは多いという。しかし、情報化社会にあってはぼったくり、泣き寝入りがネットでさらされる時代である。
「ぼったくり!クラシアンの罠」というサイトにいろいろ書いてあるので、クラシアンに修繕を依頼したい人はよく読まれた方がいいが、とかく水漏れ(早漏れは場違い)は緊急性を要する困った問題なので、迅速な対応が必要となり、何はともあれ慌てて依頼する場合が多い。その辺りの顧客心理もあり、少々高額な修繕代を提示されて、「じゃ、止めます」とは言えないもの。
数日前、たて続けにパナソニック(旧松下電器)製のドラム型洗濯機とプラズマテレビが故障した。プラズマテレビの不具合は半年前くらいから症状が出始めていた。口では上手く説明できないが、たまに写真のネガフィルムのように色が反転したりの状態で、数分もすればすぐに直るので、修理の緊急性もなく、「またなったか」という感じで、鷹揚に構えていた。
購入して8年、そろそろ液晶に買い替えを検討しつつ、どうせなら一気に壊れてくれんかなどと思っていたが、プラズマテレビの色合いの自然さはケバイ液晶(自分の主観)に比べて捨てきれないが、プラズマは2013年10月をもって生産中止となってしまった。液晶は早くからパソコンなどに使用されていたが、小型は液晶、大画面はプラズマという空気はあった。
アメリカでもプラズマ主流であったが、それでも液晶派はシャープくらいだった。なぜ逆転してしまったのだろうか?考えられる理由は二つある。2001年に32インチのプラズマが日立から出て一世を風靡した。その後のテレビ市場は、40インチまでが液晶、それ以上がプラズマといわれていたが、液晶パネルが大型化に成功したことで、プラズマが不利な立場に追い込まれた。
もう一つは、液晶テレビの価格低下である。加えて液晶は店頭での見栄えが圧倒的によく、一般客は明るくて店頭で映える液晶の美しさに魅かれたようだ。ブラウン管時代も量販店の店頭では、テレビの輝度信号をあげてメリハリをつけ、見栄えをよくしていたし、カラーテレビは色の美しさが何よりアピールになる。つまり、自然な色合いより美しさを見せていた。
それに反するかのように、ソニーのトリニトロン・ブラウン管が映し出す自然な色合いは、眼の肥えたユーザーの人気を博した。放送局用モニター菅は、ほとんどといってソニー製であり、ユーザーにあってはプロ用ブラウン管と呼ばれていた。しっとり感と瑞々しい色合いは、他を寄せ付けないものがあった。自然な色を再現するのがプロ用として求められたからである。
ソニーの家庭用テレビも、「放送局用と同じモニター菅を使用しています」が売りだった。回路は放送局用とは違っても、モニター菅は同じであった。ソニーの技術は目覚しく、VHSにしてやられたβマックスにしても、汎用性品としてはかなりの高水準であったが、消費者は画質よりも長時間録画可能のVHSに魅力を感じた。βマックスの画質の美しさは頭に焼きついている。
結局ソニーは、その高い技術力に眼や耳が肥えていない一般ユーザーとのギャップのジレンマに陥っていたが、それでも良い物を作って売りたいというコンセプトは、そのまま井深大と盛田昭夫の信念であった。世界のソニー、技術のソニーと商売上手の松下電器の図式である。松下電器はマネシタ電器といわれるほどに、コンセプトもなくパクリとケバさが売りだった。
松下製カラーテレビの色のケバさは、水商売女の厚化粧並みケバさであった。団塊の世代というのは、いいもの、本物と同時進行で生きてきた。それはあらゆる分野にまたがっていた。クルマでいえば日産フェアレディ、スカイライン2000GTR、トヨタ2000GT、セリカ2000GT、カローラレビン、音楽はプレスリー、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ツェッペリン、ビージーズ…。
エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、サッチモ、ビル・エバンス、シャーリー・バッシー、シュープリームス、マイケル・ジャクソン。スポーツ選手でいうなら、力道山から始まって、長嶋、王、金田、ベーブルース、具志堅、大鵬、北の湖、ベン・ホーガン、ジャック・ニクラウス、尾崎将司、青木功。芸能なら、小津安二郎、美空ひばり、ザ・ピーナッツ、やすきよ漫才、談志、三平…。
挙げればキリがないが、本当の本物が出てきた世代だけに、目が肥え、耳が肥えていると、そういう社会評価である。よって、団塊世代の感性を納得させる物作りは大変といわれている。いうなればSONYも世界のソニー、世界が真似のできないメイド・イン・ジャパンであった。ビートルズやプレスリーが真似ができないように…。「凄い」の最高位の称号は「無比」である。
「比べることすらできない」。美空ひばりの歌の上手さが分る年齢になったとき、彼女を超えるものはおろか、比べるものすらいないのがよくわかる。話をテレビに戻そう。技術の結晶「ソニー・プレミアム」の一つが、前出のトリニトロン・カラーテレビである。トリニトロンはカラーテレビ受像管の一方式で、ウォークマンやAIBOのような「絵」になるプロダクトではない。
しかし、「絵」を映し出す映像クオリティーは革命的で、1968年に発売されると同時に、国内外で高い評価を得、ソニー・ブランドの確立に貢献した。1973年には、米テレビ界の最高の栄誉「エミー賞」も受賞した。しかし、時代は手塚治虫の初期のマンガにあった薄い壁掛けテレビである。当時子ども心に、こんなテレビが本当にできるのかの思いはあった。
手塚治虫はまさに未来を生きる人。ブラウン管が衰退し、壁掛けテレビが現実化してきたとき、プラズマと液晶の二大対立が消費者を悩ませる。確かに、HiVi的見地からすればプラズマの画質のよさは液晶の非でない。それは明らかだが一般人からすれば、店頭では明るいテレビのほうが綺麗に観える。プラズマの衰退は、そういった複合的な理由があるのだろう。
当時、液晶を売るためにメーカーから出向していたシャープの社員は、プラズマ・ディスプレイを覆う前面ガラス板に映り込む部屋の灯りをしきりにアピールしていたが、画質の違いは比ではなかった。プラズマには保護用のガラス板は必要で、バックライト方式の液晶の方が確かに明るい。液晶には視野角という問題点があったが、正面から観る店頭では分らない。
液晶は消費電力の少なさもある。初期のプラズマは、50インチで500Wを越えていたが、液晶は40インチで100Wを目標に掲げて努力をした。それは果たせなかったが、省エネ化は進んだ。現在はバックライトにLEDを使い、消費電力は飛躍的に減少している。商品が壊れたから買い換える時代でないし、エアコンや冷蔵庫の省エネ化がセールストークになっている。
プラズマも液晶も画面が大きさに比例して消費電力はあがるし、フルハイビジョン化⇒4K⇒8Kという流れから画質を高精細化すれば、電力の制御が難しくなる。パナソニックのプラズマ断念は、高画質と省エネが両立しないとの判断もあったのだろう。LEDをバックライトに使える液晶に勝ち目はなく、2010年に2100億円投じた尼崎第3工場をはじめプラズマ工場をすべて閉鎖した。
パナソニックは12年3月期に7721億円という巨額赤字を計上、13年同期にも7542億円の赤字を計上した。赤字の主な原因はプラズマテレビ事業にあった。作っても売れない、それでも作らざるを得ない、売れない以上叩き売りをする。「プラズマからの撤退なくして、パナソニックの再生なし」。かなり前から撤退が取り沙汰されていたが、完全撤退を決断できないでいた。
プラズマファンにとっては残念なことだが、最近の液晶は幾分進歩しているのが救いである。液晶の物理的欠陥である動画応答速度の遅さも、近年は倍速、4倍速という補正で改善されているが、自然な色合いの画質はやはりプラズマである。今回、プラズマの故障に際して、何度も量販店に通って液晶をみた。50インチで10万程度だが、やはりプラズマは捨てがたい。
で、結局修理を依頼することにした。事前に金額は分らないとのことで、ネット情報などから基板交換なら3万円(基板一枚につき)程度で、二枚の可能性もあるということだが、それでも修理に決めておいた。結局基板交換はなく、LDVSケーブルの劣化で要交換という事であった。LDVS ( Low Voltage Differenctial Signaling ) とは、デジタル有線伝送用のインターフェース。
部品代そのものは800円だが、技術料15000円に出張費、その他で、19764円の修理代金であった。事前に、「トータルで20000円程度」といわれ、基板交換からすれば安価であるし、了承した。ドラム式洗濯機の異常はその二日後に発生した。洗濯後に排水が出来ないでドラムに溜まったままで、配水管のつまりは素人にも分るが、縦型洗濯機のように自分でやれない。
修理依頼をした内訳は、部品代0円、技術料7100円(配水管のつまりを除去)、出張費、その他で計10368円となる。開けてビックリ、よくもまあこんなにつまるものかというくらいに、繊維のカスが詰まっていた。ヒートポンプ式なので排気を循環させるために、繊維を細かくして二重のフィルターを通しても、長い期間使用すればあり得ないくらいの繊維のクズが溜まる。
「チリも積もれば山」となるの言葉通りの実感である。おそらくドラム式を使う家庭において、繊維が詰まって排水できない故障は相当数あると思われる。なにしろ、1回乾燥をしただけでも目に見える量の繊維のクズがフィルターについている。注意書きには「乾燥フィルターは使用の度ごとに掃除をしてください」と記されている。チリ(糸くず)とてバカにできないものよ。
「詰まる」という現象ほど困るものはない。人間も脳血管や心臓の冠状動脈がつまると死に直結する。結石で尿路つまる、胆管がつまる、うんちがつまれば便秘となる。出るものがでないのはそりゃあマズイ。水道菅がつまる、トイレの大が流れない、お風呂の排水ができない、こんなでは安心した暮らしができない。そこで考えられた、「くらし安心クラシアン」という社名だ。
そのクラシアンがぼったくりというなら、なぜに社会問題にならないのか?『水道の水漏れ5千円!パイプの詰まり8千円…安くて早くて安心よ。』とうたっているクラシアンだが、これをまともに受け入れる人は、いささか甘いといわざるを得ない。例えば『水道の水漏れ5千円』というが、何が5千円で、何がかけ落ちているかを判断せず、5千円でO.Kと思う消費者が軽率だろう。
軽率以外に言葉を探すなら、「甘い」である。水道の水漏れ5千円と信じて依頼したが、それならば何も分解せず、緩んだ部位をレンチやスパナで締めると直る場合が出張費込みで5千円という事はある。こんなのは締めるだけだから実質1分もかからないし、それで手間賃というものでもなかろうが、そういう事を自分でせず(わからないのだろう)水道屋を呼ぶ人もいるわけだ。
昔、幼なじみの女が結婚した旦那を「蛍光灯も取り替えられないのよ、どう思う?」と不満を言ってたことがあったが、70歳、80歳でひとり暮らしのお年寄りなら分らなくもないが、20代の男が蛍光灯も変えられないとは呆れるしかないが、誰かに愚痴を言ったところでお前の亭主なんだよ。ノロケも同罪で、お前の亭主はお前が素敵だと思っていろってことだ。
良きにつけ悪しきにつけ、つい人に言いたくなるんだろうな人間は…。ところでクラシアンがぼったくりというのは、サイトの書き込みを読めばよくわかるが、工事担当者によって値段が違う、また顧客の種類(うるさいorおとなしい)によっても値段が変わってくるのは、この手の零細業者の常道である。5千円を1万円といっても払ってもらえるなら高い方がいい。
ところがパナソニックとかの大企業とならば、全国一律誰がやっても決まった額が設定されている。「ぼったくり!・クラシアンの罠」によると、これだけ高い料金を取られながら、なぜトラブルにならないか。について、作業前に必ず料金を提示するからだという。提示しても法外だと思えば断る依頼者もいるだろうが、「せっかく来てもらったのだから」というのが一般的日本人。
その辺を考慮に入れた商法だろう。「○万円と、思っても見ない高い見積もり金額を言われても、『じゃ、やめます』 と追い返す勇気のある客はまずいない。名の知れた業者だけに、なおさらである。途中で新しい問題が発見され、追加作業料金を提示されても、それが余程の金額でない限り、 それを断って改めて別の業者に依頼する気にもなれない。」と書いてある。
「合法的ぼったくり手法」だそうな。いくらかかるのか不安があるなら、何もクラシアンでなくとも、あちこちの水道業者に事前に問い合わせてみるのが妥当だ。自分は引越しの際、3つの業者に見積もらせ、最後の業者が見積もった後で、前の2つの業者よりも安くやるならそちらで頼むという。引越しの値段もあってないようだし、仕事を取ると損はでないから必ずO.Kする。
世間とはそういうものだと踏んだほうが賢いということだ。世間の言いなりになるのではなく、こちらが世間をリードして行く。ところが人間という奴は見栄っ張りというのか、「引越しの見積もりは3件くらい取ったほうがいい。結構値段違うからいちばん安いところでやった方がいいよ」と教えてやると、「別にそんなことまでしなくてもいい」という奴はいる。
「そんなことまで」の「まで」がオモシロイ。別に「まで」というより、当たり前の知恵だと思うが、「まで」の意味は、"自分はお金持ちだよ~"、"面倒くさい"、"そんなセコイことしなくても"くらいしか思い浮かばない。「まで」をいう奴をバカだとは言わないが、業者にしてみれば裏打ちでいわゆるカモのような、言いなりになる客を「バカな客」と言っている。
それでいいならいい。お金を出す側の自由だ。クラシアンのようなぼったくり会社にわざわざ依頼せずとも、CMナシの地味な業者は沢山あるし、それよりなにより、水漏れの主原因はゴムパッキンの劣化で、日曜大工店に行って材料を購入すれば、修理実費は300円でお釣がくる。蛇口の原理を知ればサルでもできる簡単な修理である。