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好奇心としての学問

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子どもが学校で教わる勉強を実務的でないと批判するのは大人の論理かも知れない。小学校に入学すればいろいろなことを教わるし、教わっていないことを教わるわけで、分らない事を教わる以上、分らないのは当たり前である。学校の勉強というのは知らないことを教わるところだから、教わったことが分らないでいいのか?いいわけない。

誰からも教わらない知識を学校で教わるなら、分らないより分かった方がいいし、教師はその子が分かっているかいないかを知る必要がある。それがテストであって、その様に考えるとテストは必要であろう。テストはその子の学習到達度をチェックするものだから0点もあれば、30点、50点、80点の子も100点の子もいることになる。

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もし、自分の子どもが0点を取った時に親はどう反応すればいいのか?100点ならどう反応すべきか?これらについては正しい親の処置(言い方・対処の仕方)があるはずだが、知らないままにあれこれ言うのが親だろう。どういう対処がいいなどと考えたこともないし、正解を知らない。教育学を学んできた学校の教師はそれを知っているのだろうか?

別に正解を求めなくとも、0点取った子どもには「ダメじゃないか、もっと勉強しなきゃ」といったりする。人によっては荒れ狂う親もいるかもしれない。危機感を抱いて速攻、どこぞの学習塾に行かせようとする親もいるかも知れない。「おお、0点か?なかなかやるじゃないか!5点や10点より、0点取る方が難しいからな」という親はいるか?

自分は似たようなことは何度もいった。0点は見たことないからだが、子どもを責めるよりは褒める方が面白いと思ったからだ。実際問題、10点と100点のテスト結果にどういう人間の差があるのか?100点を取った時に答案を見せられたことがあった。90点とかの時もそうだし、よい結果を子どもは親に言いたくなるが、その理由は何でか?

子どもが100点を親に見せたい心理を考えたことがある。正確な心の中は見えないが、普通に考えれば親が喜ぶ、親に喜ばれたい、ということだろうし、現に母親は素直に、正直に喜んでいた。ということは、逆に悪い点数なら喜ばないことになる。ガミガミ怒る親も一般的だ。親ってそれでいいのか?子どもの成績に一憂、一喜する親でいいのか?

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親への問題提起である。「いいんじゃないか、0点でも100点でもお前の勉強だろ?いい点のときだけ見せるようなことするな!いい点褒めて欲しいなら、悪い点を怒らなならんしな」と言ったことがある。この言葉を子どもがどう受け取ったか知らないが、母親が嬉しいならそれでいい。腹を傷めて産んだ子という共感か、男親と女親は違うし、違って当然かもしれない。

100点は見せるが0点は見せないそんな子どもを自分は好まない。「テストの結果、勉強の成果よりも、いいところは見せよう、悪いところは隠そうと、そういう人間が好きになれない。まあ、それは酷な話かもしれない。人は基本的にはそういうものだと思うからだ。しかし、そこに問題提起をする以上、それを助長するような親にはなりたくない。

子どもを真っ直ぐに伸び伸びとさせたいなら、子どもに姑息な心を親が植付けてはダメだろう。それが自分の教育観であった。言うまでもない、勉強は自分が自分のためにするもの、そう考えると、結果を親に知らせる必要ないというのは自然に導かれたし、それなら理念が一貫すると考えた。勉強を否定するのではなく、理念が大事だということ。

結局親は、その場その場の自分の都合で物を言い、それが結果的に一貫性を欠いていたりするのは、誰もが子どもの時分に、"親って勝って過ぎる"と思ったはずだ。それなのに、親になったらそうなってしまう。こんなバカな話はあるまい。自分は親の身勝手さを痛感したからか、その時の子どもの気持ちを絶対に忘れまいと強く念じていた。

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あまりに身勝手で傲慢で、こんな親に振り回されたらたまったものではないと子どもながらに強く感じたし、だから小学高学年で母親と絶縁した。以降は何につけても親に意見をされるのを拒否した自分は、勉学においても遊びにおいても、親と共有した記憶はない。もっとも4~5年頃までは勉学に遊びにうるさかったが、どこの親もそうなのか?

字をうまく書けとうるさかった。父親は一切のことに無関心に見えた。無関心であったというより、今に思えば無関心を装っていた。なぜか?想像するに、母親がガミガミタイプだったからか?いや、自分が思うに、父親は本当に自分を愛している人だった。子どもは子どもの人生をやればいい、というスタンス、それが「愛」の根源である。

母と父が言い合いしていた。「勉強なんかしてるようではロクな人間にならん」。この父の言葉が母を押さえつけた。小学5年生だった。その時どう思ったかの記憶はないが、母親のガミガミに対する父親の考えは凄いとか、おそらくそんな風に思ったかも知れない。この言葉に支配され、勉強は自分への挑戦と位置づけ、ガリ勉でない程度にやった。

歴史年表など、憶えることが面白い勉強もあった。大化の改心、関が原、第一次大戦などの年代は、知りたい欲求にかられた。世界の国の位置と首都、全天の星座と一等星、体内の臓器の種類や位置、英語の歌詞の訳、百人一首と作者、文学と作者、三角関数や微積分、生命の神秘、物理法則の不思議さ、物質の謎や、元素の周期表などなど。

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すべて知りたい欲求にかられた。だからそれらを知ること、知ろうとするのは自然なことだった。それを称して勉強という。知識欲は自分にとって実務的であった。昔の人間の多くは強い好奇心が勉学に向かわせた。何のための勉強か?自身の欲求を満たすための勉強であった。初等教育での鶴亀算、植木算などの算術も、面白い公理・定理である。

産地の収穫物やユニークな地名、県庁所在地、山川平野などの地形も知りたいが優先する。学問が好奇心なら、「好奇なき学問に意味ナシ」というのが学問に対する自分の核心だ。学問だけではないすべてのことに言える。ギターもドスムスも好奇心から取り組み、だから上達する。浅田次郎は、「おしきせの学問を好まぬ」といった。「おしきせ」は死語で、あまり使われない。

「おしきせ」は「お仕着せ」、昔、主人から奉公人などに与えられた着物をこのように呼んだ。季節ごとに渡され、季節に合わせて皆が一斉に衣替えする。決まった時に同じ物を全員が着ることから、「決まり事」というような意味が生まれ、さらにはそれが「(上のひとから)一方的におしつけられる」というような意味にも拡大したものであろう。

学歴信仰社会の日本では、なぜかおしきせの学問が行われる土壌がある。もし、高校も大学も学問入試偏重でなければ、世の中はずっと変わっていただろう。が、たとえ学歴優先社会であったとしても、義務教育で最初に学ぶべきものがどうして学問であるべきかは疑問である。日本人として、この国で生きていくために必要な事や心構えを学ぶべきであろう。

イメージ 5日本人が日本国家に対していかに生きるべきかを学ぶべきなのに、どうして最初から学問を教えようとする?そこに、学ぶ側と教える側に意識のズレが生じ、そのズレは、年を追うごとに拡大し、最終的にはどうにもならないほど拡がっている。学ぶことの大事さは、生きる為のそれであり、生き方を学ぶのであって、自分の周囲の世界との関わり合い方を学ぶのである。
が生きていく為に学ぶべき事は沢山ある。が、それらの多くは学校では学べない。学校が知育偏重であってはならないも持論にある。小学校から東大や有名大学を目指す難関私立校ではそうなるしかない。果たして学校の教師というのは知識教育の課程を終えてはいるが、実用、実務、実利といった現実的な効用を教える人間ではないのである。

その意味で学校は、教諭という職種の社会集団であり、閉塞的で孤立した社会である。したがって、教師と生徒も特殊な人間関係である。近所のおっさんとは訳が違い、一般社会に当てはめようとするには到底無理があるし、保護者は学校は普通でないという自覚を持つことが大事であろう。自分の記憶からみても、学校と近所の遊び友達は違った。

休憩時間は決まっており、ドッヂボールや鬼ごっこはするが、時間制限が楽しさを奪う。メンコやビー玉遊びも学校ではできない。つまり、良くも悪くも学校はよそよそしく、誰もが学校用の嘘の自分をやる。その中で楽しくやるしかない。学校は一般社会には当て嵌められないとするなら、一般社会で必要とする訓練も得られないような気もする。

人生において人は何につまずくのか?とてつもない大きな岩につまづくわけではない。目に付かない小さな石ころにつまづくことがほとんどで、それらの対処の仕方を道徳の授業で学んだとしても、学校というよそよそしき場での議論は、実務的でない。どういう発言をすれば教師受けがいいかを考える子どもが多いのは、作文を見れば一目だ。

「平和」とか「人権」とか「友人」とか「親切」を書けば教師受けがよい。現実を生きる子どもにとって学校は観念的である。ホンネを書いているかより、タテマエの美しさを評価するところである。「うちの父は休日にパンツ一丁で昼寝をよくします。おまけに所構わずオナラをします。でも私はこういう父が大好きです」ではダメだろう。

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「うちの父はとても疲れているのか、休日はよく昼寝します。私たち家族のために一生懸命に働いてくれているんだなど、父の寝顔に思いを寄せるのです」と、こちらの方が良い評価を得る。子どもが事物を素直に見、ためらうことのない的確な表現をする勇気という評価はない。つまり、学校という場はホンネを育む土壌にないということだ。

学校は擬似社会を学ぶ場であり、ホンネよりも社会常識を身につけることを強いられる。閉じた構造の中で、お互いが都合のいい役割を演じる場になってしまっている。抑圧があれば反動もあるし、学校が生徒同士、教師同士、教師と生徒のいずれの関係をみても、あまりに閉鎖空間と言える。そういう中でイジメが発生するのは否定できない。

互いがキャラを演じる場でのストレスは半端なく、その不満を自己のうちに向けるよりも、他者に向ける方がストレスが発散できる。こういう人間的習性要因を無くさない限りいじめはなくならない。つまり、学校でいじめはなくならないということだと、ある中学教師に言ったところ、「それでは身も蓋もないので、私たちは努力する」という。

自分:「どういう努力をするのか?」

教師:「道徳の授業を通して話し合うことですか、いじめの根絶に向けて…」

自分:「頭で分からせても人の目を盗むからね~、監視するしかないんじゃない?」

教師:「確かにそういう部分はありますね」

いじめはストレス発散だから、悪いと分っていてもやる。ギャンブルも買春もストレス発散なら、悪いことだといっても無理なように。交通違反だって、ポリが見張っていれば誰もやらない。大人とてそうだから、子どもに頭で分らせることは難しいが、子どもの素直さ、従順さに期待はできる。道徳の授業がまったく効果がないとは思わない。

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今年から中学の補導主任を命ぜられた女性教師は、好きな晩酌を止めたという。夜間でさえ生徒の不祥事の連絡があるし、校外補導もしなければならない。「補導主事ってコワ~い男の体育教官ではないの?なんで女性教諭なわけ?」と聞いたら、「うちの学校は女性の方が強いんですよ」という。なるほど、それなら男女差別なく女性が補導主事をやって悪くはない。

しかし、好きな晩酌を止めなければならないとは、女性ならではの制約だろうか?もっとも男の教諭といえども、クルマを運転して所轄の警察に行くこともあろうし、ビールでくつろいでいるとそうもいかない。補導主事が禁酒を強いられるとは知らなかったが、言われてみるとそういうものだろう。女子生徒の性的な問題もあるというが、これは厄介な問題だ。

今の子は早熟だからといって、避妊の仕方だけ教えている。又は、男と女の関係抜きに性行為ばかりを教えている。避妊法と性行為だけを教えるのは異常極まりないし、もっともっと男と女の正しい関係の在り方を教えるべきと、そういう古臭い観念論をいう人はいる。こんにちの世の中のように、性情報が突出する時代にあって方や性を誘発し、方や性の抑制を言う。

どちらになびくかは人間なら分るだろう。誘発を止められない限りは妊娠や性感染症の二次被害を防ぐしかない訳だが、こういう観念論を口にする人間は現実認識がないといえる。生殖の性ばかりを教えてみても、コンドームの存在を誰も合理的に説明できない。「子どもが欲しくないときには出来ないように避妊をするのよ」と言ったところで、それは生殖ではない。

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生殖でない性行為を何のためにするのか誤魔化さず説明できるなら、大人は子どもを見くびっている。子どもの頭の中身がどれだけ汚染されているかを知らない無知大人である。教育とは知らないこと、知るべきことを教えることで、大事か否かは主観に過ぎず、「のべつ幕なし」に教えるべきだ。ある教師が「のべつくまなし」では?と言った。

この語句は結構勘違いが多い。「のべつ」は「述べる」の「のべ」に助動詞「つ」が付き、「絶え間なく続くさま」の意。「幕なし」は芝居で幕を引かずに演じ続けるの意。「のべつ隈なし」は、「隈なく探す」の「隈」と誤解したもの。自分も一時期誤用していた。「のべつまくなし」を使うは42.8%、「のべつくまなし」が32.1%とある。

結論を言えば、結論はない。「できない子をできるようにするのが指導」と教師はいった。彼らは職業だからそれでいい。が、イジメをなくしたり、伸び伸びと育てたりの任もあろう。いや、教師にそれを望むべく人材がはたしているのか?であるなら親が任を負うしかあるまい。自分の子だし、当然といえば当然よ。

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