王室のお妃が高卒であるなど日本では考えられない。それでも王室に入れる国である。それでケンブリッジ大卒の皇太子とは、話題も合わなかったというが、下に合わせられないのは上に問題がある。子どもと親は30歳近くも離れているが、それでも親は対処できるだろう(出来ない親もいるが)、年齢差を見下すことなどあり得ない。親子とは言わずもがな年齢差である。
いずれにしても英王室における皇太子妃の選考要件としては、頭の悪さ、学歴、教養の有無などは関係なく、将来のイギリス王妃としての「Good looking (外見の良さ)」だけが重要であったようだ。ちなみに数日前に第2子のシャーロット王女を出産したチャールズ皇太子の長男ウイリアム王子妃キャサリンの母親は、元英国航空の客室乗務員であった。
父親も同じく運行管理者(Dispatcher)をしていて二人は結婚したが、母方の祖父母はそれぞれ工員と炭鉱夫の家系で労働者階級に属していた。そのことでウィリアム王子との結婚では、「炭坑から王室へ」などと皮肉を込めて報じられたが、家柄などなんら問題にならないお国柄である。欧米先進国にあっては、客室乗務員に対する社会的評価は一般的に低い。
機内で食事や飲み物をサービスするいわゆる、「ウエイトレス的な仕事 」は、「高卒女性の職業」とみなされている。したがって客室乗務員の採用条件に、「短大卒以上」と明記されているのはKLMオランダ航空くらいと言う。日本でもお嬢様といわれる裕福な家庭に生まれ、大学に行く程度の頭脳がありながら、進学しなかった人の理由は以下考えられる。
1.親が超傲慢。父母の思う大学のみ許可⇒プレッシャーで受験も全落⇒一浪ダメ⇒家事手伝い花嫁修業へ
2.個性的(変人)だった。世界が俺を呼んでいる~と言って旅行人になった。山が俺を呼んでいる~と冒険家になった。流通業界が私を~と就職し、有能な経営者になっている人間がいる。
3.実は貧乏だった。家庭の羽振りが良く思えたが、実は身内の借金を肩代わりしていて、奨学金があったから高校も卒業できたの。
この手の話は実際にある。他にも理由はあるが、本人の自主性より親のメンツが優先されるのか、早くから手を回し、塾漬けにするのが日本の資産家家庭であろう。熱いキャラで人気上昇中の松岡修造も資産家家庭に生まれ、慶応幼稚舎に進んだものの学業は惨憺たる状態で、授業中も教師の話を殆ど聞かず、宿題にも手を付けない日々であったという。
慶応幼稚舎は4年生次から落第があり、その線上にあった松岡の母親は担任から何度も呼び出しを受け、本人も注意を促され、三学期になってやっと頑張って挽回し、からくも落第を免れるというパターンを繰り返すという問題児であったという。その後、慶應義塾高等学校に進むも、中学3年生の時に覚えた麻雀に嵌り、異常なまでにのめり込むようになった。
夢中に取り組んでいたテニスよりも麻雀にうつつを抜かす毎日が続いたことで、「甘え地獄」(松岡曰く)を解消させるため、慶應での学生生活を捨て、高校テニス界の名門校として知られていた柳川高等学校への転校を決意する。彼はテニスプレーヤーとして名を馳せたが、幼少時期から問題児であったことが、現在の好感度キャラに生かされていると思えるのだ。
慶応出身の有名人は多いが、いわゆるいい子でなかった松岡の個性はひときわ光る。文科省は大学入試センター試験を、5年後(2018年)をメドに廃止の意向で検討に入っているが、いつまで時代遅れの受験をやっているのか、この国は?2013年に発表された教育再生実行会議の提言には、1点刻みで合否を争う知識偏重大学入試とあるが、今頃気づいたって遅くないか?
推薦・AO入試の一部は本来の趣旨と異なり、学力不問の選抜になってしまっている。このため、①入試で合格することが目的となっていて、高校で養うはずの力を育てることが軽視されている。②入試で評価される能力と、大学が測りたいと考えている能力にギャップがあり、入試の内容が大学入学後の学びに繋がっていない。これらの実態にメスを入れるという提言である。
その他の理由として、③「受験」があるのは日本・インド・韓国などのアジアだけ、④日本のように「一発勝負」の受験制度は、海外から見ると異様に見えるらしい、などがある。確かに人の能力差はいろいろで、人によっても学ぶスピードは異るなどの事情があるのに、たった1回の試験で失敗したら第一志望を諦めざるを得ない現状は、問題でないはずがない。
フランスには、思考の過程を問われる「バカロレア」があり、歴史は古く、ナポレオン1世が「幅広く人材を発掘する」目的で1808年に導入したといわれ、中等普通教育の修了と大学入学資格の証明を兼ねるものでフランス国内で毎年70万人近くが受験する。バカロレアの特徴は、知識の暗記や受験テクニックだけでは太刀打ちできず、与えられたテーマについて論述する。
フランスには、思考の過程を問われる「バカロレア」があり、歴史は古く、ナポレオン1世が「幅広く人材を発掘する」目的で1808年に導入したといわれ、中等普通教育の修了と大学入学資格の証明を兼ねるものでフランス国内で毎年70万人近くが受験する。バカロレアの特徴は、知識の暗記や受験テクニックだけでは太刀打ちできず、与えられたテーマについて論述する。
正解にたどり着くことを目的とせず、答えが正解により近いことを説得力のある論理で示すことを求められる点は、正解が一つの問題を解く能力を鍛えることが求められる日本とはまるで違う。また、アメリカには多くの大学が取り入れている「SAT」がある。(このほか「ACT」という試験もある)多くの大学が「SAT」か「ACT」の受験を義務づけている。
これは、誰がどの大学で学問を修める学力があるかどうかを判定し、合否の基準にする目的で作られた制度で、高校3年で計7回まで受験が可能となっている。最も良い成績を大学に申請し、高校の成績などと合わせて評価を受ける。また、米国トップスクールでは、エッセイと高校時代の成績と課外活動の記録、「SAT」の点数合算による書類選考が行われる。
スウェーデンの大学は全てが国立であり、入試の点数か、高校の成績表のどちらか良い方で、どの大学に入れるかが決まるシステムである。それらの成績が長期に保存され、25歳以上であれば、4年以上の職業経験が選抜の際に加味されるから、人生の途中で、どうしてもこの仕事に就きたいと思うと、やり直しが比較的容易にできるシステムになっている。
"世界一過酷"といわれているのがインドの最高学府である。国立大学はインド政府の直接の管轄であり、資金が比較的豊富に供給されているが、その中でもインド工科大学の受験の規模は日本では考えられない状態である。インド工科大学は、インドの頭脳の輩出大学であり、インド国内ではマサチューセッツ工科大学やカリフォルニア工科大学に匹敵すると自負される。
受験者は毎年30万人、合格率は60人に1人で2%を下回っている。インド工科大学の試験会場は、インド全土1026会場とアラブ首長国連邦ドバイの1会場を加えた、計1027会場で一斉に実施されている。皆一生懸命受験勉強をしてきた学生達ばかりで浪人もいたりと、競争は熾烈を極める。入学試験の結果次第で進める学科が決められる。入学後も遊んでる暇はない。
4週間毎に試験を実施し、クラス毎に成績を発表する。これでは、学業をさぼれない状況にある。最高学府は勉強するところ、という主旨が国家的に打ち出されているし、日本と違って「勉強したくない奴は来るな!」である。日本の最高学府は東大であるのを疑うものはいないが、問題はその東大に入れる能力を本当に持っているかであり、入試の技術は二の次であろう。
ところが、入ることの技術ばかりが偏重されるから、入ったことで満足する。大学は終着点ではないわけなのに、あれほど苦労して入ればそういう気持ちにとりあえずはなるのだろう。よもや使えない東大生、いわゆる東大までの人、みたいな言われ方に自分がなるとは思わないだろうが、終わってみればなっている可能性もある。どうしてなったかは、無理して入ったからだろう。
本当に最高学府に相応しい、ごまかしのない、即席的な、付け焼刃的な学力ではなく、真の学力をつけさせようという国家体系がない。受験請負屋としての塾に受験技術を牛耳られて、受験産業が潤う社会ってなんというか、滑稽である。本当の頭脳、真の頭の良さとは何であり、どうやってそれを身につける方法があるのかは、欧米国家の方が理解している。
数兆円規模といわれる受験産業を路頭に迷わせたくないがために、旧態依然とした一発受験を長らく実施しているにほんの受験制度は文科省の役人と大手進学塾との根強い癒着があると考えるのは穿った見方だろうが、入学者を選別する合理的なマークシートは受験人口も減っている昨今に鑑みて止める方向で検討すべきであろう。「バカロレア」はいいと思う。
何かと傑作な「Yahoo!知恵袋」に以下の書き込み。こんなことをしたい東大生ほど、入学した事、在学生であることを誇っているのだろう。誇るのは構わないが、誇って満たされる自尊心などたかが知れたものではないのか?人を見下すことでしか満たされない自尊心など危いね~。東大が最高学府であるかどうかより、最高学府に相応しい学生であるかを見ているのよ。
こういう事を書く東大生は最高学府と思えぬほどに幼稚である。「どう考えても最高学府は東京大学ですよね?たまに否定する馬鹿がいますが」。言葉の奥に見えるものは、最高学府東大生としての自負の無さ。だから他人に聞き、そうだと言わせたい。東大生がそんなこと聞くなよ、恥ずかしい。自覚があれば、東大を最高学府でないとする無知者をあげつらう必要ないだろ?
こういうことをやる東大生は中で落ちこぼれているのを晒している。だから、せめて東大生という現実にしがみついて、落ちこぼれて粉砕した自我を留めていたいのだ。でなきゃ、こんなことを書く意味がないわ。一度も一軍に上がったことのない読売巨人軍の二軍選手が、飲み屋で「オレは巨人軍の選手だ」と言ってるようなもの。そんなこと巨人軍内では言わないだろ?
巨人軍の選手の真の評価は巨人軍の中にある。同様に、東大生の評価も中にある。それを外に持ち出して評価されたい、いい顔したい、そういう人間がどの程度か想像しなくても分ろうというもの。囲碁や将棋のヘボプロが、アマチュアより強いと自慢してどうするって話だろ。世の中そういう人はいる。専門家が素人に何を自慢したところで、優れてるのは当たり前だろ。
人に秀でたものを所有し、それが本人の自信になるなら素晴らしいことだが、他人に自慢するために所有するなら、持たぬ方が人間的に素晴らしい。そういう見方を自分はしてしまう。別に本人には言わないが…。自慢する人間を嫌う人は多い。茶化す人もいる。嫌ったところで卑屈になるゆえ、同情し理解した方がよい。「この人は自慢したいんだな」と…。
自慢話をされると自分が相手より下にみられて、それで腹が立つのだろうが、自慢する人はそうともいえず単に自己顕示であったりする。なのに、勝手に自分が下に見られたと思い込んで自尊心が傷つくのだ。自慢話にイライラしない方法は、なぜ相手が自慢するのかを考えればいい。自慢話をする人は実は相手に自分を認めてもらいたいからかも知れないのだ。
野球選手が野球が上手いことを自慢はしない。ギタリストやピアニストがそれを自慢することなどない。なぜか?自分で自分のことが分かっているから自慢する必要もないし、むしろもっともっと上達したいと思っているはずだ。プロといえども他人に認めてもらいた部分はあるが、自慢することで認めてもらうことではナシに、相手を感動させることにある。
となると、自慢することで人に認めてもらおうという人間は、相手に感動や尊敬を与えるものがナニもないということだ。だから自慢をするしかない。おまけに自分自身も自分を認めていない。つまり自信がない。よって自慢する人間は自分に自信がないのを、言葉によって「凄いだろうと」相手に思わせることで、自身を得ようとしているに過ぎない。
まあ、自信というものは、"何かを極めなければ手に入らない"というものでもないし、自分は自分なのだし、自分でいい、何も他人と比較する必要はないと思うのも自信の一つの形である。他人と自分を比べてばっかりの奴がいる。そういう奴は自分の欠点や劣っていること、悪いところが気になって仕方がないのだ。欠点も短所も含めて自分は自分と思うこと。
誰も完璧ではないのに、なぜ自分は完璧であらねばならない?そう自分を認めること。自分に不足部分があるのに、他人から認められる場合もある。お世辞の場合もあるが、どちらかは重要ではない。どちらであっても、自分の不足を認識していれば、自然謙虚になれる。よって無用な謙遜するより、素直に「ありがとう」と言っておけばいい。
自慢が自慢に聞こえなくなると同様に、相手もお世辞を言って調子に乗る(自慢する)かどうかを見ている場合もある。それはそれで意地の悪い部分かもしれぬが、人とはそういうものかも。いろんなしがらみを持って生きているので、相手の意図がそうであるなら、調子に乗らなければ肩透かしを食らわすことになろう。
すると相手は、(この人は人間が違うな)と思うかも知れない。別に人格者と思われる必要もないが、世辞の類にうつつを抜かすというのも、自信のなさの表れである。他人の評価を価値基準にしないで、自分は自分の目指すものがあるはずだ。「他人の評価に一喜一憂する者は、自らの軌道の上に立っていない」とニーチェはいったが、好きな言葉である。
以上、後半部分は「自己教育力」について記した。自分で自分を教育する、つまり「自己教育」の言葉は以前から使用されていたが、それに「力」を付け加えることで「パワー」が増す。そのためには常に自分を客観的に見る必要がある。我先にとバーゲンに押し寄せる行為が悪いと思わぬが、それを浅ましいと感じるのは、自分を客観的に見ているからであろう。
そんなことは世の中にあり過ぎる。たったの一分でも得をしたい、得をした気分になる生き方は、公道をクルマであわただしく走るのに似ている。如何に急いでいるとはいえ、飛ばしたところで、ゆったり走ってみたところで何分も違わない。「冷静さ」は「感情的」の対義語であり、冷静な視点は、自分を客観的に見ることで得られる。自己教育力で冷静さを…