「人間は一本の葦でしかない…だが、考える葦である」。など、数々の名言が随所にある『パンセ』は、パスカルが人間の悲惨さ、偉大さについて省察した思索の書であり、魂の世界を反映した瞑想録である。冒頭の言葉を知る人は多いが、「人間は一本の葦」を含む原文を全部読んだ人は少ないであろう。結構長い一節であり、以下のように書かれている。
「人間は自然のなかで最も弱いひとくきの葦にしかすぎない。だが、それは考える葦である。彼を押し潰すためには全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一しずくの水でも人間を殺すには十分だ。しかしながら、たとえ宇宙が彼を押し潰そうとも、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬこと、また宇宙が自分よりも優れていることを知っているからだ。宇宙はそれについて何も知らない。」
シェークスピアに匹敵する名文であろう。どういう頭の構造をしているのかを窺い知ることが出来る。われわれ凡人よりも数千倍(単位は恣意的)も頭がよいと感じさせられるが、この文の中でなによりパスカルは、「知ること」、「考えること」に対する信頼と覚悟が、甚だしく強く感じられるのだ。人間は、「知ることができる」という一点において、「全宇宙」よりも尊い存在と言い切る。
そこらのおっさんが言えば、「なんという大げさな…」と思うだろう。決してそこらのおっさんをバカにしているのではなく、言葉は発する人によって価値を持つというほどに、われわれはその点無知蒙昧である。「何を言ったか!」よりも、「誰がいったか!」で判断するのは人間としての弱さでもある。権威主義は嫌いといいつつ、権威の奴隷になっている。
自身に「権威」を都合よく内包させているのだろう。アカデミズムはそれらの頂点をなすものだ。「藤村新一」という名を記憶する人も少なくなったろう。彼は、「ゴッドハンド」の異名を持っていたが、外科医ではない。出身は宮城県で、元特定非営利活動法人副理事長の肩書き持つが…、「はて?」。"旧石器捏造事件を引き起こした人物"、といえば記憶が呼び戻される。
「旧石器捏造事件」は、考古学研究家の藤村新一が次々に発掘していた、日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、全て捏造だったと発覚した事件である。中学校・高等学校の歴史教科書はもとより、大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大のスキャンダルとされ、2000年11月5日の毎日新聞朝刊で報じられたスクープによって発覚した。
毎日新聞のスクープで指摘されたのは、宮城県の上高森遺跡および北海道の総進不動坂遺跡だったが、彼のかかわった全ての遺跡について再点検と綿密な調査の結果がすべてが捏造であると確定した。「捏造家」という職業・職種はないが、佐村河内守、小保方晴子、藤村新一、森口尚史が日本人「捏造家」と言われている。韓国には黄禹錫(ファン・ウソク)がいる。
黄禹錫は、韓国初のノーベル賞にもっとも近い人物とされ、「韓国の誇り」と称されていた生物学者であったが、ヒト胚性幹細胞(ES細胞)捏造事件によって、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。森口尚史の名も記憶から薄れている。彼も東京大学で博士号を取得し、東京大学特任教授などを経て東京大学医学部附属病院特任研究員を務めた学者である。
2012年(平成24年)10月、読売新聞により「ハーバード大学客員講師」の肩書きで「iPS細胞を使った世界初の心筋移植手術を実施した」と大々的に報じられたが、多方面から数々の疑義が提起されたが、その2日後に同新聞は「同氏の説明は虚偽」とし、それに基づいた一連の記事は誤報であったことを認めた。森口自身は、マスコミによる捏造と述べている。
佐村河内、小保方においては未だ記憶のただ中にいるが、佐村河内外の日本人3人はすべてアカデミーに所属する。日本のアカデミーとは一体どんなどころか?を強く印象づけたのは、やはり小保方晴子の「STAP細胞捏造事件」であろう。藤村新一には同情はできないが、考古学にあまり予算がつかず、小世界の住人がやりたい放題な状況が放置されてきた結果である。
古代史はロマンであるが、所詮は飯の種にならないから勝手にやってれば?という雰囲気は誰にもある。そこで一役、名を上げたいという気持ちに襲われたのだろう。やってはいけないが気持ちは分る。考古学も閉鎖性が強い世界だが、原子力も教授や学生数は極度に少ない。だから意味がないとは言わないが、問題は「爆発しない」といわれたものが「爆発した」事。
これは仕組みが分っていなかったことであるし、そういうものを科学といえるのか?この辺の経緯は、反原発側であり、今やテレビタレントの中部大学総合工学研究所特任教授武田邦彦教授が言う。学者は、爆発の確率ゼロとは言わない。「絶対」とか「ゼロ」とは言わず、どちらとも取れる言い方を仰るのが学者。これは委員会などで「残余のリスク」というもの。
武田邦彦教授はそれを知ってか踏まえてか、ハッキリ白黒言う人であるが、そういう学者はムラから追い出されるのがアカデミーのしきたりである。学者の世界というのは閉鎖的であるが、委員会が無意味なセレモニーである以上、変わるものではない。そもそも「○○委員会」というのは、建前がほしい政治家や役人側の要請で開かれるものゆえ、学者に責任はない。
アカデミーからあぶれた武田教授は、TV番組や一般読者向けの著書を多数出版、情報発信しているが、多くがベストセラーになっている。同じく、『患者よ、がんと闘うな』、『大学病院が患者を死なせるとき』、『抗がん剤は効かない』などの著作で有名な医師で、元慶應義塾大学医学部専任講師の近藤誠氏もアカデミーからはキチガイ呼ばわりされた人である。
広島大学消化器外科の自分の主治医も近藤氏を、「好き勝手いうのは責任もないし、本を売るためにはそうでなきゃ」と批判的である。同業者を悪くいえば業界で生きていけないのはアカデミーに限ったことではない。斯く言う近藤医師も、強靭な精神力で大学病院側と闘ってきた。強靭というより狂人的と言えるくらいに30年間、"孤独な闘い"を続けてきた。
「出世もあきらめて、万年講師でした」と自嘲気味に言うが、その顔に悲壮感はない。近藤医師の主張は一貫している。医師や薬に頼りすぎない。抗がん剤も大きな手術も、がん検診もほとんど必要ない。特に早期発見されるような自覚症状のないがんは、「がんもどき」であって、放っておいてもがんにならないし、なんら影響がないという、『がんもどき理論』が有名。
「多くの有名人が、がんの手術をしてすぐに亡くなっているでしょう。たいていは手術のせい。放っておけば半年や1年では死なない。これまでのがん治療は、"信仰"みたいな部分もあると思う。その意味で、医療と宗教は似ているが、宗教と違って医療は人を殺すことがある」と近藤氏は言っていたが、「オウム真理教」のような宗教も人を殺す前の発言である。
近藤氏が最初に論争を巻き起こしたのが1980年代。乳がん患者への乳房温存療法だった。現在では一般的な治療となっているが、当時は乳房を全摘出するのが標準治療であった。そんなとき、所属元である慶応大学の外科が全摘出するのは、犯罪行為と名指しして雑誌に発表した。それ以降、大学病院内では孤立状態が続くが、「一念岩をも通す」の人であった。
ムラ社会に限らず、そういう人は孤立するが、ムラ社会で孤立せず、それでなお発言力を強めていくためには周囲の認知を獲得するための地盤作りが先決といわれる。新参者でも独断専行型、あるいは共同作業を無視した勝手な行為を、「クズの集まるムラ社会に辟易、反吐が出る」といってみても、クズとて集団なら、クズにどう思われるかがムラの論理というものだ。
「手術でポンと切り取ったおっぱいが無造作にお盆にのせられた様子を見て、無残だなと思ったよ。でもね、当時はほかに方法がなかったし、僕がどうこうしようだなんて思いもよらない」と、これは近藤氏の研修医生活1カ月で、始めて乳がん手術に立ち会った時のこと。彼の言う、自分がどうこうしようなど思いもよらない、またできもしない時期であった。
それから10年後、担当教授の推薦で米中西部の研究所に1年留学。その留学で乳がんの乳房温存療法を知った。しかし、当時はまだ認知度は低く、慶應病院の外科も理解がない。近藤氏は、自身の生活基盤の領域を超えて、乳房温存療法を広めたい、全摘手術への疑問を世に伝えたいとの思いが、雑誌への手記に繋がった。医師としての「仁」公益優先への思いである。
人はそれを勇気というが、岩をも抜く「信念」の強さとはそういうものと理解する。しかし、誤った信念、間違った信念もあるし、麻原彰晃などはその代表例。医学界では1991年に安楽死事件というのがあった。入院中の末期がん患者に塩化カリウムを投与し、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問われた刑事事件である。
日本において裁判で医師による安楽死の正当性が問われた現在までで唯一の事件である。横浜地方裁判所平成7年3月28日判決は、被告人を有罪(懲役2年執行猶予2年)とした(確定)。判決では、医師による積極的安楽死として許容されるための以下の4要件を示している。
1.患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
2.患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
4.生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること
本件では患者が昏睡状態で意思表示ができず、痛みも感じていなかったことから1、4を満たさないとした。ただし、患者の家族の強い要望があったことなどから、情状酌量により刑の減軽がなされ、執行猶予が付された。安楽死は様々な視点で議論され得る難しい問題だが、上記の4要件では、なにより患者の自己決定権が重視されていることが特徴である。
今や世界の潮流は延命治療よりも「生命の質」を問う時代にある。いかに惨めな状態であっても、一分、一秒の命を長らえるといった生命至上主義に基づく延命療法を求める患者より、QOL(クオリティ・オブ・ライフ=生命の質、生活の質、生き方・死に方の質)を重視する時代にある。「あなたはずっと寝たまま状態で、意識もなく、それでも生きていたいか?」
と、問われてみれば答えはでるだろう。そういう植物人間状態で生命の維持費がバカにならないなら死を選ぶ。維持費の問題に関わらず、昏睡だけで生きている実感がないなら死を選ぶ人も多いはずだ。このように自分の「生きる価値」、「死ぬ価値」について真剣に考える時代にある。生を重視すれば死は恐怖だが、元々無から得た命とするなら生は「余禄」である。
これら、思考・思索が『パンセ』であり、「人は考える葦である」。して、人間は思考の末、「知ることができる」という一点において、「全宇宙」よりも尊い存在と言い切ったパスカルは決して大風呂敷を広げたのではないと言うのも分る。宇宙で起こることは現象に過ぎない。が、人間の行為は現象ではない、列記とした思考の産物だ。無意識の行為もありはするが。
ありはするが、考えることが出来るという一点において人間は尊い存在だ。人間が思考しなければ女性の乳房はすべて生ゴミと消えたであろう。人間が物理的に弱い存在であるのは認める。背丈の何倍もある高さからネコを背中から落としたところでしっかり立つ。子どものころ、アリを捕まえてアリの背丈の何十倍もの高さから落としても怪我をしないアリが不思議だった。
われわれが知ってることの多さは、知らないことの多さに比べたら風と共に消える屁のごときであろう。また、「知ってる」と思ってることの多くは、「自分で知っていると思い込んでいるだけ」なのかも知れない。「知る」とは何か?本当に「知る」とは何なのか?意味を知ることも「知る」である。ならば、われあれは人生の意味を知っているのか?
知るべきなのか?そもそも人生に意味があるのか?あれば幸福なのか?なければ不幸なのか?人生に意味があるのかないのか、とりあえずお前はどう考えるのか?人は生まれたこと自体に意味があるという人がいる。性交による自然生殖は「神の摂理」と言われた時代もある。今もそうなのか?ならば、女性生殖器内での自然受精を可能にする人工授精は邪道なのか?
1978年にスペクトー・エドワードが生殖現象から性行為を取り上げ、「体外受精・胚移植」を発表、体外で受精させた受精卵(胚)を人為的に子宮内に移植し、着床を可能にしたのが、「神への冒瀆」ということになる。神は昔の人間(というのも変だが)だから、旧態依然として摂理を教えとし、科学の進歩など望んでいないとするなら、そんな神は邪魔くさい。
人類の進歩の妨げになる神は迷惑である。「神の摂理」という言葉は死語にすべし。よって受精の瞬間は意味というより現象である。出産も現象である。出産は意思というなら、尿意も便意現象と同じように、出産も現象である。もちろん、母も胎児も産みたい、産まれたい意思はある。出産に意味を求めるなら、生まれた直後に命を落とした赤ん坊に意味はない?
貧しい国に生まれ、で物心もつかないまま餓死してしまった子どもの人生に「意味」はない?それも人生なら、100歳まで生きた人と等しく意味があるということだ。花の命が短くとも、そこに意味があるように…。意味のあるナシを長短・軽重とすべきと問題がある。ならばいっそ人生に意味はないとするなら、長短・軽重にあって平等か?平等主義の弊害が臭う。
意味とは個々のもの。自分にあって他人の人生の意味はない。ないというのは責任を負うという意味で、眺め鑑賞する意味はある。われわれは遼くんや大谷や錦織のプレーを眺めるが、技術もさることながら彼らの人生を眺めている。彼らが勝っても負けても責任を負わない。人生に意味はある。人生に意味はない。それは個々が感じること、思うことであろう。
という前置きで自分の人生に意味はあるのか?運よく床に伏して死がおぼろに近寄ってくる体験を味わうことができるなら、その時に自身の人生の意味をどのように問うのか、楽しみにしておこう。現時点で言葉にする人生の意味のあるなしよりも、いっそう意味があるように思うからだ。廻り廻って答えを出してみれば、文章もいわば人生のようなものだ。