ところで香山リカが裁判を起こすと息巻いているようだが、これはアレだな…。自分の潔白を強くアピールするためというのが見え見えだな。彼女があのツイッターの書き込みを自分が書いてないといったときの、翳った顔がすべてをものがたっている。もし、本当に自分が書いてない書き込みが自分の名で出されたら、人間はもっと驚くだろうし、怒りを露にするはずだ。
チーフプロデューサーに、「香山さんが書いたものではないのですね?」と問われ、「そうです、はい!」って、そういうものか?仮に自分だったら、「とんでもないですよ、なんでこんな書き込みが自分のツイッターに出されるのか、驚きを超えて理解できませんね~」くらいの言葉は出るはずだ。それが、「そうです、はい!」って、潔白の人間にしては冷静過ぎると思うが?
まあ、訴えらる側に非があると分っていても、告訴することによって非がない印象を与える。訴訟を起こす自由はあるからいいけれども、弁護士を依頼するというなら、それを伝えたいなら伝えればいい。弁護士って言うのは代理人だから、依頼した後は本人は隠れておけばそれでいい。にも関わらず、ぐだぐだと気が収まらないから自分を叩いている。人間の愚痴とはこうしたもの。
「弁護士さんは他人の"痛み"が分かる現代人には珍しいタイプ」と、こういう言い方って何だ?自分は精神科医ではないが、彼女の心理分析をするなら、どうにもならない情況に追い詰められて神の手を必要としている惨状だ。「他人の痛み」とは彼女のことで、撒いた種の辛さが滲み出ている。告訴発言は自身に非がないというポーズで、言葉だけだ。出来る道理がない。
「暴言の書き込みは私ではないTwitterアカウント乗っ取られました」と、彼女の苦しい言い訳は、咄嗟に言ったものか、それともこの線で逃げ切ろうとしたのか、後先考えぬ物言いはバカである。Twitterの内容が内部の関係者しか知り得ぬと、プロデューサーに指摘され、"しどろもどろ"になった時点でパニックを起こしている。こういうのをすぐにバレる嘘という。
嘘というのは用意周到に見えても、相手の指摘一切を想定した完全武装というのはなかなか難しい。「嘘」は「嘘」である以上に、どうしても無理があるし、ほころびがでるものだ。いかなる虚も、その嘘を信憑づけるために、さらに別の虚を捏造することなくしては主張できない。分りやすくいえば、一つの嘘がその嘘を真実にするために10も100も嘘を吐かねばならない。
真実を語ることはバカにでも出来るが、上手い嘘をつくには、かなりの頭の持ち主でなければならない。バカが見え透いた嘘を吐くのはバカだからであって、だからバカは真実をいうべきである。パスカルは「パンセ」でこう言っている。「われわれは理性によってのみではなく、心によって真実を知る。」これは深い言葉である。真実とは心に訴えるものなのだ。
だから人は真実に感動する。人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。自分自身においても、また他人に対しても。パスカルは、「クレオパトラの鼻がもっと低かったら…」という比喩を言った人だが、「悲しみは知識である。多く知る者は怖ろしき真実を深く嘆かざるをえない。知識の木は生命の木ではないから…」こういう言葉を吐けるほどに彼は人間を凝視している。
「悲しみは知識である」とは、いかに悲しい現実とはいえ、知識がなければ悲しみはない。死んで動かない母親の乳房をまさぐる幼児がふと頭に浮かぶ…。悲しいかな人間は知識がなければ悲しみさえもわからないのだ。真実は知らない方が幸せである。世の父親、母親たちも、子どもに隠している真実は山ほどあるはずだ。それを隠しているからこそ、親の威厳を保っている。
その真実は決して明らかにせず、墓に持っていくべきものであろう。お互い様といっておく。子どもにだって親に知らせたくない真実を持って生きている。それは決して親には言ってはならない。言う側も、聞く側も傷つくような真実は隠しておくべきものである。カントはそれを嘘だと戒めるかも知れぬが、嘘とは偽りの言葉であり、隠しているだけを嘘とはいわない。
起こった事を黙っているのは嘘を吐いたことにならない。嘘とは吐くもの、言うものであり、言わないことは何であれ嘘ではないはずだ。処女でない女が、「処女です」と言うのは嘘だが、黙っているのは嘘を吐いていない。だから、「君は処女ではなかったんだね。僕を騙していたんだね」は間違い。「君は処女ではなかったんだね。僕が勝手にそう思い込んでいたんだね」が正しい。
些細なことで相手に罪を吹っかけて、自分の気持ちを晴らす人間はいる。人間とはそうしたものかも知れない。それでいいのか?それが人間として正しいのか?であろう。「人間とはそうしたもの」とは、肯定ではない、正しいと言ってるわけでもない。むしろ、「人間は罪深い生き物だ」という意味だ。人に罪を吹っかけないように自身を律するべきであろう。
「たとえ話は嘘ではない。なぜならば、それはけっして起こらなかった事柄を述べているのだから」、これはバーナード・ショーの言葉である。「人間が人間である限り、悪を体験し、悪に苦しむ」と、パスカルは、「悪」の意味をとことん追求した。彼にとって「悪」とは何であろうか?我々の言う「悪」と同じものか。違うものなのか。パスカルの名は物理・数学の人であった。
「パスカルの原理」、「パスカルの法則」のあのパスカルが哲学者であったという知識は中高生時代にはなかった。『パンセ』を知るまでは…。ネットでパスカルで検索すると、「パスカル (pascal,Pa) は、国際単位系 (SI) の圧力・応力の単位である。」と出る。人物のパスカルを検索するなら、"ブレーズ・パスカル"。かつては物理学も哲学であり、よってパスカルの本業は哲学者。
かつても現在も含めて、哲学者の数は一体どのくらいいるのだろう?業(研究)としての哲学者、思想家としての哲学者に分別されるのか?語義的には「愛智」を意味する学問的活動であるが、かつては形而上学という学問の総称であった。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学とされる場合もある。古代ギリシアでは学問一般を意味していた。
単に論理的な価値しかない抽象的な概念でもって体系をつくりあげる哲学者たち。彼らは生きる自然を一個の"機械じかけ"に変えてしまう。映画にもなった『時計じかけのオレンジ』のタイトルにある"時計じかけ"は分るが、なぜ"オレンジ"だったのかを調べたことがあった。オレンジ(orange)とはオランウータン(Orang utan = 森の人)の orang (人)の意であった。
詩人は、すべてに生命を与えるが、事物の輪郭や相互関係をぼんやりとぼかす。この両極端の中間にたくみな選択を行う折衷家がいる。彼は自分の主張することがらすべての統一が見出されるべき、事態の核心に達することがない。「真の哲学者は、すべての事物をそれらの根底をより深く探ることで統一しなければならない」。セルティヤンジュはこう言っている。彼はその意味でトマス・アクィナスを「真の哲学者」と言う。これからすると西田幾多郎も「真の哲学者」である。西田は師である北条時敬から、「哲学には論理的能力のみならず、詩人的想像力が必要である」と言われ、西田にはその両方が備わっていた。真の哲学者とは、現実より自己の観念が優先、かつ、人間に対して妥協できない思いを持っている人のことであろうか。
第一の条件だけなら誇大妄想狂と紙一重だが、第二の条件が加わることで彼は真の哲学者たり得る。彼の頭は常に人間についての理想を思い描いている。しかし同時に常に現実との矛盾に悩み、とりわけ自己内部の矛盾には敏感である。彼の精神は時に混沌の中を彷徨う。普通人から見ると、こうした人は純情すぎ、時に馬鹿に見える。何を一体こだわっているのか、と。
何の悩みもなく、目的に向かってひたすら進むだけの生き方とはどんなものであろうか?そういう人間も魅力的だが、真の人間の魅力とは、やはり「どこかおかしな所」や「利益にならないものに対してひたむきな所」にあるはずだ。苦悩するひと、哲学者しかり、偉大な芸術家しかり…。西田幾多郎が『善の研究』であるなら、パスカルは"悪の研究"といっていい。
「数学者としての『練習』とか、青年時代に一時、物理額に熱中したことを除くと、パスカルという人物全体が悪の問題であると言えよう」と、セルティヤンジュが代弁してくれるように、パスカルの作品の中で、とりわけ『パンセ』は悪の問題を蔵している。『パンセ』は思想・思考を意味し、未完の著作であり、彼の死後に編纂して刊行した遺著である。
『パンセ』初版の正式題名の和訳は、『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察 — 氏の死後にその書類中より発見されたるもの』である。無神論者は、理性を信仰に服従させることを欲しないが、パスカルの時代にも教会に属しながら福音の真理にしたがわない似非クリスチャンもいた。パスカルはそういう対象者に向けて弁証論著作を企てた。
いかにして似非クリスチャンを唯一の神の信仰に向かわせるか、彼らをどう説得するか、パスカルが意図した最初の苦悩である。説得の難しさは何につけても、バイクを大音量でぶっ飛ばす「族」の不良共を改悛させるようなものかも知れない。例えば矢沢永吉が、「おまえら、そんなこと止めてオレのコンサート聴きに来いよ!」といえば、効き目はあるかも知れない。
が、パスカルの悩みは、似非クリスチャンにとって唯一の神が、彼らを魅きつけるだけの魅力がなかったことだ。いうまでもないパスカルはキリスト教神学者である。「すべての人間は幸福になる事を求めている。このことに例外はない。そのために用いる手段がいかに異なっていようとも、彼らはこの目的に向かっている」にもかかわらず、人間は幸福になれないのは何故か?
かつての哲学者も、今後の哲学者も人が幸福を願う点において彼らは無力である。「哲学者たちは汝の真の善が何であるか、汝の真の状態が何であるかを知らない。汝の悪を癒す薬を知りもしないのに、彼らがどうしてそれを与えることができようか?」。パスカルが念頭においていた第一の哲学者は同時代のデカルトで、「無用にして不確実なデカルト」と槍玉にあげている。
哲学者たちは汝らに幸福の約束をしたが、果たせていない。「キリスト教以外のいかなる宗教が真の善を知っていようか」に帰結する。一神教を真善という考えにおいて、同種の異教徒たちにとっては不可解極まりないものである。なぜ多くの神々が存在するのか、というように。この疑問を整理してみると、「何故、善人が惨めで、多くの邪悪な人間が成功を収めている?」
「何故、健康な人、病める人、富裕な人、貧しい人、暴君と虐げられる人がこの世に共に住んでいるのか?」、「何故、かくも多くの誤謬、意見、風習、慣習、ならびに宗教の存在を神は許しているのか?」。あまりに素朴な問いだが、当時のキリスト教擁護家に答えは存在した。「罪は人間のみが責任を負う。神は過失の資料を準備するが、違反に必須である罪への同意はしない。」
事実である無しはともかく、キリスト教擁教家は神の立場をこう説明するが、パスカルの独自性は、他の擁教家が持ち出す「原罪」は人間の現実の姿を合理的に説明できず、観念論と成り下がったのに対してパスカルは、人間の悲惨な状態を「原罪」の教理によって説明した。「原罪は、人間の眼から見れば愚かなものである。しかしそれは、そのようなものとして与えられている。
読者はこの教理が欠けているといって私を責めてはならない。というのも、私はそれを、理由なしに存在するものとして与えているからである。」これがパスカルの「原罪」説の思想である。創造主であるところの神が自らの似姿で人間を造ったため、創造された当初の人間は、清く、罪なく、完全、不死の状態であり、理性かつ自由意志を持っていた。
しかし、人間は神の支配から逃れようとして神に背いた。その結果、現在の人間に苦痛と死滅が入り込み、残された僅かな理性でさえ時々感情と欲望の支配下に置かれてしまう。「正に獣と似たものになった。自身のなかにあなたがたの惨めさに対する救済を求めても無駄である(四三〇)」。原罪遺伝の概念もまた人間の理性または倫理観念を越えた不可解なものとした。
原罪遺伝が不可解であるとしても、これが人間の矛盾性を説明し得る唯一の合理的「真理」とパスカルは考える。この観点からすれば、キリスト教は人間性の背反性と真理を教えると同時に、その背反性の原因をも合理的に教示するという、他の哲学には望むべくもないもの。人間性の矛盾から出発し、自立に探究した結果、キリスト教神学と同様な目処に辿り着いた。
香山リカのツイートで下劣とされた青山繁晴が怒った。香山は、「私が書いてない」と、とぼけた。ならばさらに男は女の嘘に逆上する。香山リカ、小保方晴子らの女の常道といえる一連の逃げパターンに、男が怒ってみてもどうにもならない。やったことをやってないと平然と言える女に、男が何ができる?平手を食わせるか、"バカ"と見下し、諦めるしか手がない。
向かってくる女ならいくらでも論駁し、泣かすことはできるが、スタコラさっちゃん(坂口安吾的表現)に対しては、どうにもならない、打つ手ナシ。女の嘘を病気とするなら、それを男は許すしかない。世間が許さない?いや、世間も許すだろう。それくらいに女の嘘は問題にし得る価値がない。男は静かに、『パンセ』を読むがよかろう…
◎女は影のようなものだ。後を追いかければ逃げる。逃げれば後を追ってくる。
◎女の言葉をとらえるのは、ウナギのしっぽをとらえるようなものだ。
◎女が悪い場合でも、大抵は金切り声を出すとの言い分が正しくなる。涙しかり…
◎女たちをしゃべらせるにはさまざまな方法があるが、黙らせるためのものはひとつもない。