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「教育」の薀蓄 ②

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education」の訳は「教育」ではないと分ったところで、それで日本の教育の中身が変わることもなければ、親の意識が変わることはない。が、本当に少数の一部の親が何かの啓示らしきものを感じることはあろう。歴史年表の年代など覚えていない親が、どうして子どもにそれを覚えさせたいのか、どうしてそういう勉強の成績がよくてと喜ぶのか、サッパリ理解できない。

現実社会に役立たないものを学びとして強いる疑問は、"上の学校に入るための必要なこと"という答えで納得するようだが、自分的には納得出来ないその理由は、人間をトータルで見るからである。人間にとって何が大事かの序列を考える時、教科書を憶えて100点を取る勉強を熱心にやるような人間が、アタマがいいと思ったことがないからだろう。

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小学校受験は首都圏だけで31,793人(2011年度)と、不景気も災いしてか加熱情況から減少傾向にあるが、有名校に入っておけば幸せが約束されると思う親も一つの親の形である。金持ちの道楽といっては言い過ぎだろうが、ダイアナ妃は頭が悪く学業成績も不良で、貴族の出身にもかかわらず大学にも行かず幼稚園で保育の仕事をしていた。日本では考えられない。

それでも王室妃だから日本ではありえない。ホテルに勤務する長男がこんな言葉を吐いた。「もう少し真面目に英語をやっておけばよかった」、これを聞いて正直笑った。笑いながら腹の中で、(誰もがこういう後悔をもって生きているんだ…)と頷く。そんで「子どもは親が勉強しろっていったらするのか?」と何気に聞いたら、「するはずがないよ」という。

「お母さんが、毎日寝るときに教科書読むといいよって言ったけど、そんなもん寝る前に読むバカはいないよ」というので、それでまた笑った。となりに妻がいたので、「お前はそんなバカなことを言ったんだ?」と笑いながら顔を見た。照れくさそうにしていたが、出来もしないことを子どもにいうのが親なら、つくづく親ってバカな生き物だと、改めて思う。

子どもがどういう生き物で、何をし、何をしないか、を現実的に捉えている自分は、できもしないようなことを「しろ」という自分が笑えてしまう。先を読むことで人間のある種の不幸も見えてくるし、社会のあちこちで形式ばった、見え透いたことを皆がお行儀よく言ったり、やったりがおかしくて仕方がない。だから、取ってつけた道徳的なことを言わない安吾に共感する。

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「人間は堕落すべきだ」、「恋愛なんか何度やってもつまらなさが分るだけ」、「悪妻こそ自分を魅きつける」、「親は子への自己犠牲にあらず、子の方が親への自己犠牲を強いられている」、「葬式に出席するのが礼儀なのか?」、「大根足は隠せ。スカートは履くな、もんぺがいい」、「女の貞操には魂がなく、亭主への義務でしかない」などと、どのエッセイを読んでも楽しい。

安吾は今の時代に生きていれば、"女の貞操は亭主への義務でさえなくなっている"という現実を知ることになろう。女性の浮気など御法度というその時代においても、安吾は貞操は夫への義務と言い切った理由は、その前文を読むと分る。「御婦人方は娘の頃は肉体の快楽について極めて幼稚な空想家にすぎないようだが、一度現実に快楽を知ると、根底的な現実家とになる。

快楽に限らず万事につけてその傾向で、処女と女房の相違には、童貞と亭主とは比較にならぬ大きな変化の一線がある。だから、まだ現実に快楽を知らない処女のうちは、どんなに空想家であっても、空想だけでは滅多なことで引きずられはせぬ。女を本当に引きずる力は、現実的な力で、女は根底的な現実家である。」(昭和22年5月発行『時事新報』文化欄:「貞操の幅と限界」)

このエッセイをウィットに富むと思うか、毒舌と思うか、現実と思うかは読み手の経験意識にもよる。化けの皮が剥がされたと感じる御婦人方には、さらにそれを隠匿するためにか、「坂口安吾なる文士は失礼極まりない」などとほざいたり、言い合ったりするのかも知れぬが、それもまた女の虚栄心である。坂口安吾という人に「毒舌」なる概念はさらさらなく、純粋に書いている。

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同じように自分も、「あなたって毒舌家なの?それともイヤミがすきなの?」という女に出会ったことがある。モノは受け取り様だから、受け取る人間の生育環境や性格によってまるで変わってくる。自分はイヤミも毒舌も吐かない点では人を選ばぬが、相手から選ばれるのは仕方のない事だと思っている。いつだったか、女の言う「毒舌ね」に反論を試みたことがあった。

「自分は毒は薬だと思っているし、だからそういう気持ちでしか発言しないよ。"毒をもって毒を制す"という言葉があるが、あなたに関してそれはない。なぜなら、あなたを"毒"だと感じていないからだよ」。言ってる言葉の意味を相手が理解したかどうか分らない。論理的に思考する奴なら判るだろうが、相手は女であり、感情的になっているなら無理だろう。

「あなたって毒舌ね?」などという時点で穏やかではないのだろうが、そこで「悪い、悪い、そういう意味で言ってないんだよ」とでも期待する女が多いのは仕方のないことだ。自分は、謝る理由のないことに謝罪を装おうのは好きでない。なぜなら、そういう事をやると相手との今後の人間関係に影響し、支障をきたすので、イヤミ、毒舌さらさらないを分らせるしかない。

確かに「毒をもって毒を制す」というのは言えてる。相手が毒であり、猛毒ならなおさらのこと。しかし、毒のような人間はそうそういるものでないので、「毒で制す」を乱用すべきではない。「コイツは性格悪いな、付き合う相手じゃない」というのは、言葉使いで咄嗟に分かるのは、「イヤミ、ツラミ」が丸出しである。本人は抑えているのだろうが、そんなものは誤魔化せない。

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自分はよく、「それってイヤミ?」といわれて、ハタと気づくことが多い。そういわれると、(これをイヤミと受け取る背後環境があるんだ)と自身を納得させる以外にない。それほどに、「イヤミ」と受け取る相手の問題である。イヤミも毒舌もすべては相手の感じ方である。その場限りの人間なら誤解であっても謝っておく。後の付き合いがないならスタンスなどどうでもいい。

そういう風に今後があるかないかで変わってくる。①相手がどう受け取ろうが、それは相手の勝手と考え無視する。②相手がどう受け取ろうが、それは相手の誤解とし、弁解し納得させる。③相手が受け取ったことを尊重して謝罪する。と、この三つを選択することになるようだ。①と②は似ているが、無視するか弁解するかの違いも、相手の人間性が加味される。

たまにだが、④相手がかなり悪意に取った場合、攻撃する。もやったりする。相手の言い方、言葉の選び方で、愚劣な性格と即断した場合にである。この最後が「毒をもって毒を制する」ということだろう。少々のことで感情を出さない自分だが、一応の線引きはある。「お前、そこまでいうか?そういう言い方って下劣だろ?」と思ったら最後、毒が自然に排出される。

世間には"人を怒らせるような物言い"をする人間はいる。どういうわけだか、そういう口の聞き方、言葉の選び方をするのは、人間が卑屈なのか、人間関係慣れしていない自己中のオタク気質なのか、さまざま要因はあろうが、いずれにしてもそういう奴は人を怒らせ、怒られることで益々自身の殻に閉じこもってしまう。コミュニケーション能力の問題であろう。

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想像でいうと、勉強ばかりしてアタマがカチカチか、幼少期からいじめられて人間不信に陥ったからなのか、罵りあいの家庭環境から、「愛」と縁遠い卑屈な性格が形成されたのか、なんらかであろう。人を怒らせるタイプというのは心理学でいう、「怒りは感情の蓋」に該当する。簡単に言えば上に挙げたように、怒り感情の下には、別のネガティブな感情が埋もれている。

悲哀感情であったり、罪悪感だったり、 孤独感、自己無価値観だったり…。誰でも幼少期頃から、暗いといじめられたり、ネガティブ感情は良くないと周囲から指摘されたり、上から教えられて育つ。が、自分にそういう感情が出てくるときにそれをなかったことにしようとする。つまり、ネガティブ感情を感じた瞬間、それに蓋をしてなかったことにしてしまう。
 
そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか、ネガティブな感情を無意識のうちに抑圧する習慣を身につけてしまう。ぐっと飲み込んで押し留めたネガティブ感情はどこに行ってしまうのか? 実は、どこにも行っていない。抑圧されたネガティブ感情は、その都度自身の体に蓄積されて行く。これはもう、"腐った牛乳を冷蔵庫に入れっぱなしにしておく"と同じこと。

人間が心を開きあった付き合いをしないと、こういうケースも起こってくる。自分がそういうネガティブな人間に向けて、毒を発することは実は相手に気づかせたいという気持ちもある。そのような態度、仕草で世の中を渡って行けるはずはないだろう?お前は自分のそういうネガティブなところに気づけよ、そんな言い方ダメだろう?と相手の怒りの理由を教えてやる。

イメージ 6何も毒をもって相手を制することで自己満足を得ようなどのチンケな発想ではないし、もしそうであるなら、怒って威圧してそれでいい訳だ。が、理由を言ったところで気づかないのがネガティブな人間の特質だ。だから、ネガティブと言った方がいい。逆にポジティブな人間は、相手の言ったことを善意に考えるし、取り入れようとする器を持っている。
だからこそポジティブである。自身に対する向き合い方の違いが他人への向き合いの違いになり、また他人への向き合いの違いが、自身への向き合いの差になるというスパイラル現象だ。こういう現象からなかなか抜け出せるものではないし、もし、抜け出したいと試みるなら、"自分以外はみな師"くらいの心構えで自尊心を捨てることだ。相手の何ごとも「悪意」に取っては自分の何もよくならない。

自分に対して怒る人は仕方がないが、怒る人か、叱ってくれる人かのせめて見極める目を持ち、後者であるなら相手の言葉をしっかりと噛みしめてみて、腐った牛乳に気づいたならさっさと捨てることだろうな。自身の嫌なところは他人が見ても嫌だと感じるだろうし、だからといって他人に嫌な顔されたり、疎んじられたりで変えられないことが多く、結局、自分で捨てる以外にない。

他人の自分に対する怒り(叱り)は、自身が蓋をしている問題的な感情の蓋を開けてくれていることだと気づいた人は、その後の努力次第で他人から嫌われることがなくなるはずだ。嫌われる要素は種々あるが、相手を見下したような態度、言葉使いもそうだろう。「どうしてこうまで自分の子ども中心になれるのだろうか?」と、これはある中学教師が言っていた。

ジコチューという新語も言われてはや何十年も経つが、何かにつけて個人の出来事に怒ったり躍起になったりするが、社会的出来事に無反応・無関心というのがより顕著になってきている。特に若者の社会的な問題に対する関心度の低さの要因はなんであろうか?社会学者はどう分析しているのだろう。おそらくジコチュー蔓延による私益>公益優先からの流れではないのか。

学園紛争が何であったかはともかく、今後あのような社会・政治に対して大学生が怒るという事はおそらくあるまい。最近の若者は自己を高く見せようとするので、自身の身の回りに直接不利益が生じると、すぐに相手のせいにしようとして怒り出すが、社会や政治に対する怒りというのは、その原因となる問題が直接自分とは関係ない。県民や国民の一人として関わるに過ぎない。

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そういう風に不利益が直接自分に及ばないことには怒りの手をあげないのだろう。見知らぬ人が困っていても感情移入することもなく、社会の出来事にはきわめてクールである。この共感性のなさは怖ろしい。すべてのことは自分に関わるかどうかで、直接関係ない人たちの気持ちを推し量ろうとする構えすらない。「そんなのカンケーない!」という言葉が流行った。

海水パンツ履いた芸人がやっていたギャグだが、何の意味があってあんなことを?「カンケーない!」と強く押し出すことがカッコよかったのか?あれで若者が社会的出来事に無反応、無共感が強まったのか?いつまでもあんな芸で喜ばせられると思う方もバカだろ。映画にもなった『鉄道員』(ぽっぽや)の原作者浅田次郎のエッセイには悲愴な内容がある。

9歳の時に破産して生家が没落し、両親は離婚で家族は離散した。浅田少年は母親と兄と3人が六畳一間の暮らしを始めるのだが、「貧しい生活ながら私はどうしても私立中学を受験すると言い張り母を困らせた。私立中学に拘ったのは、親の不始末によって私の人生まで変えられたのではたまらぬ、と考えたからである。」と自伝にある。母親は浅田のわがままを許してくれた。

「合格発表の日、母は夜の仕度のまま私と学校に行ってくれた。盛装の母は場ちがいな花のように美しかった。私の受験番号を見上げたまま、母は百合の花のように佇(たたず)んで、いつまでも泣いていた。別室で販売されていた学用品を、山のように買ってくれた。 小さな辞書には見向きもせず、広辞苑と、研究社の英和辞典と、大修館の中漢和を買い揃えてくれた。」 

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ナイトクラブのホステスで生計を支えてくれた母親である。「私はおしきせの学問を好まなかったが、常に自ら喜んで学び続けた。今も読み書くことに苦痛を覚えたためしはない。その力の源泉はすべて母があの日、『えらい、えらい』と泣きながら私に買い与えてくれた三冊の辞書である」。懸命に働く母の悲哀を心に、浅田は一切を自ら精進させるエネルギーに転化したのだろう。

なんと、けなげで美しい花のような母親であろうか…。自分も母親から受けた一切を、自ら精進させるエネルギーに転化した。人は親を選んで生まれてこれない。ゆえに他人の母親を羨ましがってなどない。もし、他人の母親を指をくわえて羨ましいと眺めているような自分であったなら、何もプラスにできなかったろう。自分は行動することを自らに課した。だから納得している。 

東京都下・奥多摩青梅市御岳山にある、「民芸の宿 山香荘」。ここは浅田次郎の母の実家で、時おり浅田もここに宿泊に、執筆活動に来るという。



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