ある現役の学習塾講師はこのように述べていた。「○○氏は塾を『教育機関』ととらえているらしいが、私は、"専門的な習い事の場"だと考えている。たとえば、学校で泳ぎ方や絵の描き方を指導され、もっとうまくなりたいからと、『スイミングスクール』や『絵画教室』に通うように、学校で習った算数や国語をさらに究めるために、『進学塾』に通うのである。
すなわち、学校は生徒という『人間の成長』を軸に教科指導するのに対し、塾は『専門技術』に特化して教えるため、人間教育などしない。だから、両者を同じ『教育』という名で呼ぶことに抵抗がある。ちなみに、私が塾で教えていて気になるのは、生徒たちの大半が学校や学校の教師を悪くいうことだ。中には、学校なんて行っても仕方ないと語る子さえいる。
しかし、その子たちを塾が代わりに『教育』できるかと言ったら無理だろう。塾はあくまでも『専門技術』を指導する機関なのであり、塾講師とは、『教育者』より『職人』に近い」。と、当たり前のことを記しており、これを読んで、「納得できない!」と憤慨する保護者はまずいない。子どもを塾に行かせる目的は、子どもの学力向上を願っており、それ以外にない。
この講師は塾を教育の場と捉えていず、自らを教育者と呼ばれることを否定している。つまり、成績向上のみを目指す機関は、「教育現場」ではないといっている。「教育」とは多岐にわたる概念であるが、この塾講師は英語の、「education」が「教育」と日本語に訳されていることの間違いを知っている。「education」は学校教育、塾は「training (訓練)」の場である。
明確に区別されている、「education」と「training」だが、大手進学塾やほとんどの学習塾は「教育」という言葉を使い、「訓練」としないのは、「教育」という言葉の持つ響きが情緒的だからでもある。多くの日本人は、「Education」と「教育」が同義語と考えているが、「Education」の本来の意味は、能力を開発すること、その能力とは職業に関することである。
【Cambridge Advanced Learner's Dictionary】
educate:誰かを教えること。特に学校、大学など正式の制度を用いて教えること
train:技能の習得、及び/又は、精神の又は肉体の練習によって、仕事、活動、スポーツに備えること、また、準備できていること
【Oxford Advanced Learner's Dictionary】
education:知識と技能の向上のために、特に学校や大学で、教える、訓練する (train)、学ぶ過程
education:知識と技能の向上のために、特に学校や大学で、教える、訓練する (train)、学ぶ過程
training:仕事をするのに必要な技能を学ぶ過程
【Merriam-Webster Online Dictionary】
educate:学校教育を受けさせること。精神、意欲、美意識を向上させること(特に指導によって)
train:指導、鍛練、教練によって身に付けること。教えて、何かに適う、適格となる、堪能とならせること
「education」とは、ラテン語の、「引き出す」に由来し、「引き出す」にあたる意味をもつことがないわけではないが、しかしその場合の、「引き出す」は、「産婆が(新生児を)引き出す」のように、純然たる空間移動に過ぎない。フィリップ・アリエスは中世社会研究を主とする歴史家だが、彼によると中世には現代の教育という行為を示す2つの違った観念が認められる。
第一に、見習奉公という目的での教育行為
第二に、学習、教授といった、知恵の伝達行為としての教育
これら、社会の「よき習俗」を伝えていくという教育行為、そして、「学校での知恵」の伝授といった教育行為の2つの教育観念が存在した。アリエスによると、「education」という言葉は1527年に現れ、人文主義的教育や一般教養と共に広まったと記している。その時には、「education」 は、「instruction (知恵の伝授)」と対立する言葉として使用されている。
しかし、1680年に出版されたフランス語辞典には、教育が「人々が子どもを育て教える instruire方法である」と説明されているように、「education」 と 「instruction」 の区別は消えた。そして、18世紀に入ると社会の習慣を伝達する行為としての教育は、学校の発達に伴い消えて行く。言葉には基になる語源があり、類似するものから適切なものが生まれていく。
『国富論』のアダム・スミスの、instruction」は、職業、実務、運動スキルの訓練、その社会に求められる生活信条や習慣づけ、身や心の処し方の方向づけに用いられている。これらの人間形成作用は、「education」と異なり、「discipline」(訓育、規律)、または 「exercise (訓練) 」とは区別されて使用されていた。スミスにおける、「education」 概念は、「訓育」と対をなす「知育」を意味した。
ロックやルソーなど古典近代期の、「education」概念は、知育、徳育、体育、美育といった様々な領域を含み込んで構成されていたが、スミスの、「education」 概念は、訓練や規律とは異なるものとして考えられていたようだ。人間の学習訓練は、「教育的な教え (educative teaching)」などと言い換えられるが、動物の訓練 (training) と明確に峻別できるとも思わない。
単純に嫌なものを避けるうちに、心的な性向 (mental disposition) が育まれることもあるが、いつもそうという訳でない。よって、「education」と「training」は区別されるべきかも知れない。大脳前頭葉が肥大した人間は、動物と違って感性が多様だ。明治初期、「love」をどう訳すかの末、「御大切」に落ち着いた。「education」の訳を巡り、大久保利通と福澤諭吉と森有禮が論争した。
大久保は「教化」を主張、福澤は「発育」が適訳といい、森は間をとって「教育」とした。「教育」という言葉の発祥や、「education」としての訳について述べたが、大事な問題は中身である。「教育」とは何か、時代の変遷でさまざま変容している。現代の教育加熱社会と50年前とではまるで違う。飢えや貧困から少年保護のために作られた少年法が、今や犯罪の温床の時代。
「少年法によって守られているから刑務所に行かなくてもいい」と豪語し、悪辣な犯罪者である15歳の少年に、少年法の適用など無用であろう。教育加熱は少年の屈折した心を育んだのではないだろうか?一般的日常語としての「教育」という語について、その概念を明確にしようとすることを、「教育哲学からのアプローチ」と考えてなされた結果は以下のとおりである。
教育思想一般としては開発主義、自由主義、民主主義等々各様の主張がありはしたが、戦前、戦後、巨額の国費を投入してなされたいわゆる公教育の主たる側面は「牧民的教育」観に立つものであった。 ※「牧民」(『管子』に見られる語で、為政者が「民」をさなから牛馬等を扱うように「牧」、管理統制すること)。朱子学が目指すところの教育は「聖人」である。
日本の朱子学には「聖人」になるという思想はなく、求めるものは「人倫」であった。豊臣秀吉・徳川家康らに儒学を講じた儒学者藤原惺窩は、家康に仕官を要請されたが辞退し、門弟の林羅山を推挙した。彼には、「人倫は皆真なり」(人間関係にこそ真理がある)の言葉がある。1960年代の中頃、『青春とはなんだ』という映画はテレビドラマにもなり、人気を博した。
その答えは何だったのか?次作に、『これが青春だ!』も放映されたが、何が青春かよく分らないが、誰にでも青春期はあるだろうから、その時代を青春時代と言えばいい。♪喫茶店に彼女と二人で入ってコーヒーを注文すること、それが青春~、という歌詞もあったし、青春とはその程度のモノだ。60歳を超えて、「ワシは今が青春よ!」というじっちゃまもいる。
青春とは現象ではなく精神である。VANヂャケットの創始者石津謙介も、「若さとは年齢じゃない、精神である」といった。青春期は教育される時代、老齢期は自己教育の時代という違いはあろう。青春期に勉強するといかなるご利益があるのか?勉強しなかった者、勉強した者にはそれぞれの結果があるのだけは間違いない。あるのはあくまで結果であって、良し悪しではない。
勉強したものが得、しなかった者が損とはいえない。だったらしておくのがいいという親は多く、こういう歩留まり論は子どもに勉強を願う親の言い草だ。勉強が出来ようが出来まいが、問題になるのは現実であって、現実への対処であるが、学校というところは問題を現実から切り離して設定し、それで答えを出させようとするなら、勉強した方がいいという答えになる。
例えば歴史の年代の暗記は無意味で、そんなことを知って生きてる人は時代趣味な人だが、試験をするしかないから、無意味なことを暗記させる。重要なことは歴史から何を学ぶかなのにその本質が失われている。歴史から学んだことが人生や社会生活に寄与するものなのに、そんなものは学校の勉強とはいわない。学習の本質は、社会に役立つことを学ぶべきはずである。
与えられた問題を、与えられた時間内に、与えられたように解く。実際の人生や、現実の社会では、このようなことはまれであり、ほとんどないといっていい。同じ問題を、全員が、一斉に解くから平等なのだという学校というところが如何に世間ズレしているか?何も試験が悪い、テストが悪いわけではない。試験が教育の全てを支配していることが悪いのである。
だからか、ジョブズもゲイツもバカバカしいと学校を辞めた。彼らのように自分のやりたい事を見つけた人間は、大学の勉強など屁にも糞にもならない。そういうものを見つけられない多くの若者が4年間大学へ通い、それが何かの役に立つと願ったところでせいぜい卒業証書くらいである。大卒証書がモノをいうと本気で思っているとするなら、時代遅れの大学生よ。
1000人卒業して就職できた人は何人だ。同じ大学の学生なのに就職できない学生の違いは何なのか?「あなたは当社に必要ない」と、内定を取れない理由は何なのか?おそらく人間的な差であろう。その差は大学入る前にすでにあったものか?大学でついたものか?もし前者であるなら、その差は大学で修整すべきものではなかったか?いや、大学でつけれる差であったかも…
差がいつからあったかなど分らない。内定を撥ねられた時点で確実についていた。大学が卒業証書目的ならそれも一つの目的だ。こんにちのようなおびただしい数の人間が大学に行くなら、彼らがいずれも学問に適正のある頭脳をもった人間とはいえない。ごく一握りの筋のいい頭脳をもった人間、学問に向いた環境なりを持った人間が、最終的に学問の世界に残っていく。
現在なされている教育の目的は、試験に合格することのみであろう。そう断言して何ら言い過ぎでない。だから、試験の合格率の高い塾、そういうテクニックを教える先生がもてはやされるのである。試験というのは、一定の基準によって人物の評価をし、選別することを可能とする事であり、こんな簡単な方法はない。この試験の利点は、そのまま、試験の欠点になる。
試験問題は、一度答えを出すとそれで終わりであり、後はそれが正しいか、間違っているかの検証するだけである。しかし、一度答えを出したら以後は変わらない、などという普遍的な答えは現実の社会にはない。が、答えを出したら、それで終わってしまう。何も考えなくなる。考えなくてよくなる。現実の問題は、答えを出したから終わるというわけではない。
答えが出たからといって、片づくわけではない。むしろ、問題が新たな問題を生むから、その新たな問題に対処していかねばならない。しかし、こういう受験勉強の成果ばかりで人物の優・良・可・不可を決めるなら、そりゃあ採点側も楽だし、誰でも「赤ペン」先生になれる。こんなことばかりやっていて、日本の学校教育を良くすることなど、到底できないだろう。
勉強に向かない性向の人間は大学に行っても何もいいことにはならない。さりとて、高校卒業段階でやりたいこともないし、どこかで働くといっても高卒では将来はないと思い込んでいる。ひたむきさ、熱心さ、好感度があれば学歴など関係ないんだし、大卒でも精彩のない人間はいくらでもいる。特殊な頭脳を必要とする仕事ならともかく、現実的に仕事そのものと学歴はリンクしない。
嫌な仕事も逃げず、避けることなく、前向きに気を利かせて働いていれば目に止まるものだし、学歴をいう企業が少なくなったのも分る。目の前に出された物しか目に入らない。食事が出されても、箸がなければ箸がないと駄々をこね。醤油がなければ、食べられないと母親にせがむ。その癖が、職場でもいっこうに抜けない。仕事もしかり、目の前の仕事しかこなせない。
物事の根本、本筋を子どもに教えていく親が少なくなったという事だ。「見掛け倒し」という言葉があるが、見掛け倒しの人材は企業の人事担当者に見抜かれている。それほどに、人間つきあいに必要な礼儀やマナー、モラル、常識のな、社会に適合できない人間が多く生み出されているという。オリックス元会長の宮内義彦氏の発言が、ネット上で話題になっている。
宮内氏の発言とは、「正規雇用は一度採用されたらクビにならない。たとえ生産性が下がっても企業は解雇できない。だから非正規で雇用調整せざるを得なくなり、非正規はいつ契約が終わるかとびくびくしながら働かざるをえない。これは不公平だ。働かない人の雇用を打ち切れるように、解雇条件をはっきりさせることが必要」との持論を展開した。
宮内氏が法改正が必要というように企業の、「解雇権」は制限されており、正規雇用者は一度採用されたら、客観的に合理的な理由がなく、社会通念上相当であると認められない場合、無効となる(労働契約法16条・解雇権の濫用法理)。あくまで、『できない』というのではなく『難しい』だけで、現行法下でも、能力不足や適性欠如などを理由とする解雇はおこなわれている。
働かない正社員を、"月給ドロボウ"と呼ぶのは今も昔もそうだった。そういうふとどきな正規社員を簡単にクビにできるようにし、正規・非正規の差別をなくするためにも、正規社員解雇のハードルを下げるのは賛成だが、有給も取らず、遅刻も欠勤もせずに会社に来る社員を、かつてはマジメと評価したが、昨今は勤務態度がマジメだけでは即リストラの対象だろ。