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考える人

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ロダンの有名な「考える人」を真似るわけではないが、考えるときには大体あのようなポーズになる。が、このポーズで考える時は決まってトイレで「大」をするときである。「大は小を兼ねる」のでどちらも致すが、ロダンの「考える人」の右手はなんと左足の上に乗っかっている。実際にやってみると分るが、このポーズはキツイ。こんなんでは出るものも出ないだろう。

どうしてまたロダンはあのようなポーズにさせたのかといえば、無理に体をよじることによって、筋肉を浮かび上がらせる意図だったらしい。あんな無理な姿勢で考えたら5分も持たないだろう。ブロンズ像ゆえに何時間でも何日、いや何百年もあのポーズでじっとしていられるが、ロダンは考えるというよりも、筋骨隆々の男らしさを狙ったようで、メタボモデルなどあり得ん。

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これが彫刻家の哲学である。哲学者は「真理の追求」だろうし、芸術家の哲学は「美の追求」である。哲学とは何か?発祥はいつなのか?目的は?これらのことは誰もが思うことだが、哲学とは何か?と言っても、哲学者の答えはそれぞれ違う。つまり、それぞれの哲学者が違う目的を持って哲学をやっている。それぞれ違っていいし、違うことこそ哲学である。

その前に広辞苑的哲学の意味は以下のように記されている。「古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追及する学問となる。認識論・倫理学・存在論などを部門として含む」。などと難しく書いてあるようだが…

難しい哲学は専門家に任すとして、日常の身近な事を考える方が素人には面白い。カント先生は面白いことを言ってる。「古代ギリシャの哲学は、三通りの学に分かれていた。すなわち――物理学、倫理学および論理学である。この区分は、哲学というものの本性にかんがみてしごく適切であり、これに区分の原理を付け加えさえすれば、かくべつ訂正すべき点はないと言ってよい。」

哲学は、物理学、倫理学、論理学の三つでこれを訂正するにあらずだそうな。物理とは物(自然界)の道理、倫理とは人の守るべき筋道、論理とは思考や論証の組み立てである。これは現代人的思考であり、さらに遡ると物理学は、古代ギリシャの自然学に源を発し、元々は自然についての一般的な知識の追求を意味しており、天体現象から生物現象までを含む幅広い概念だった。

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それが現在の物理現象のみを追求する"physics"として自然哲学から独立した意味を持つようになったのは19世紀からである。倫理学も、行動の規範となる物事の道徳的な評価を理解しようとする哲学の研究領域の一つである。かつては法哲学・政治哲学など、規範や価値をその研究の対象であったが、国家的な行為についての規範(法や正義)を論ずることとなる。

二つの学問分野が全く違う分野として扱われるようになったのは比較的最近である。論理学とて伝統的には哲学の一分野である。数学的演算の導入により、数理論理学という分野ができた。現在では、数理論理学は数学と論理学のどちらであるともないともされる。現在の論理学は、数理論理学と、数理論理学をふまえた論理学、数理論理学でない論理学に分化している。

17世紀後半から18世紀の啓蒙思想時代に活躍し、ドイツ観念論哲学の祖でもあるイマヌエル・カントの哲学体系はその時代を現している。20世紀になると様々な学問の分化から、現代思想という体系になびく。「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という命題で有名な哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学について次のように説明している。

 ・哲学の目的は思考の論理的明晰化である。

 ・哲学は学説ではなく、活動である。

 ・哲学の仕事の本質は解明することにある。

 ・哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。

 ・思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。

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また、ウィトゲンシュタインと同年の1889年生まれのマルティン・ハイデッガーは、「古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。その存在理解のカテゴリー的解釈は、普遍的存在論としての学的哲学の理念を実現するものにほかならない。」と述べている。難しい語句だが、「存在」解釈の歴史をたどると面白い。

アリストテレスは、師プラトンの形相によって示されるイデア(本質存在)が、質量(ヒュレー)によって支えられる事実存在より優位とした。質量(ヒュレー)とは、「木造の家」を立てるときの木材のこと。材木を用いて家をつくるその家のかたちがイデアであり、イデアは家を建築する場=実在の家に内在化する。プラトンの本質存在優位を建前とする形而上学である。

それに最初の反逆を加えたのが弟子のアリストテレスだった。彼の哲学は、木材に働きかけ加工し、形を与えることで「木造の家」が現実化するというもの。「本質存在」の「事実存在」に対する優位を逆転し、それによって形而上学を克服しようと試みた。それと同じ試みはアリストテレスの2000年後にシェリングが、そしてその100年後にはサルトルが試みることとなる。

イメージ 6シェリングは僚友であったヘーゲルによって完成された近代哲学の総体を、事物の「本質存在」だけしか問題にし得ない"消極哲学"だと批判し、事物の非合理な「事実存在」を問う"積極哲学"を提唱、これを「実存哲学」と呼んだ。ウィトゲンシュタインが、哲学とは本質を解明するというように、出来上がった家こそ本質、いや、木材を加工してこそ家であると、実に面白い。
「大工あってこその家ではないか!」は、「存在」とならない。サルトルは第二次大戦終結後、『実存主義は一つのヒューマニズムである』と題する講演で、「事実存在が本質存在に優先する」と主張、形而上学の克服を図る「実存主義」の根本テーゼとした。作られた椅子の事実存在より、職人の頭の中にある作る前の本質存在が優先する。

この応用でいうなら、生まれた子どもよりも生まれる前、作る前、作る行為、即ちセックスは本質ということになる。生まれた子どもは事実存在でしかない。あえて刺激的な言い方をするなら、人間が生きていく上において、ヘーゲルやニーチェやサルトルの哲学書を読むよりセックスする方が大事であろう。読書なしでも生きていけるが、セックスなしではダメだ。

そう考えると哲学的な本や純文学やディケンズやフォークナーが良書で、性的な本が悪書というのはオカシイし、そもそも悪書などは存在しない。その人のモチベーションに寄与すればいかなる本も存在価値はある。親が子どもに『少年少女世界文学全集』を読まそうというのは分らぬでもないが、子どもは親に隠れてエッチ本を読むことが健全の証しである。

『文学全集』の類は知識になるのかも知れないが、エッチ本は血肉になろう。血肉というのは紛れもない生きていくための必須なものである。いつだかこのブログに書いたが、「暇ですることない」という奴がいるし、よくそういう言葉を聞く。不思議だった。「暇ですることない」など、この年になるまで一度たりとも思ったことがない。だから口に出したこともない。

暇ですることないって、暇だと何かしなくちゃいけないのか?どこかに行かなきゃいけないのか?海外旅行やアウトドアライフなどとしきりに持てはやされた時代もあったが、あんなものは一種の洗脳である。自分は何もしない事が楽しい。自分を強いらない事が楽しい。それこそ余暇の本質だろう。なんだか分らないけど、いろいろな強迫観念にとらわれている人多し。

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「余暇は遊ばなきゃいかん」も強迫観念だ。何もしないのは紛れもない非生産的な状態だが、非生産的こそ余暇である。生産ばっかりしていたい人には退屈だろうが、体ばかり動かさなくても頭を動かすのも立派な運動だ。普段しないことをするのが余暇なら、暇なときに哲学書を読むのもいい。エッチ本も哲学本も嗜好だが、趣味は思考なら、哲学書を読みたくもなる。

「自由」の定義にしろ、「自殺」にしろ、「幸福」にしろ、「存在」にしろ…、思想家によって様々である。それら「哲学」という言葉を使うが、「哲学」という言葉に何ら振り回されることもない。「哲学」とは普段なにげに使う言葉だ。あの人の考えにはきっちりした哲学があるとか、経営者の経営哲学、プロスポーツ選手としての哲学とか、チームを率いる監督の哲学とか…。

いろいろな考えに触れることで人間は、「○○が分った!」見たいな言い方をするが、「分かる」ということは、対象者と考え方が同じになること、気持ちが同じになること、などといわれたりする。自身もそう思ったりする。しかし、「分る」というのは必ずしもそうではない。相手といろいろと話し合っているうちに、相手と同じ考えや気持ちに自分がなることがある。

また、相手方の気持ちになったりもある。そういう事を「分る」といっているようだが、「分る」はそうばかりではない。人間が誰かのことを深く理解するということは、その人と交わりを増していろいろと話し合う中で、相手と自分は本当に違うということを思い知らされること、それも「分る」ということであろう。つまり、「分る」とは、「違う」という事を理解することでもある。

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決して同じでなければならないことはないのに、自分と意見が違う人間を排除したり、異端視したり、腹を立てたり、そういう事が往々にしてある。そうではなくて、「こんな風に自分と相手は違うのか!」も「分る」なのだ。生きてきた時代背景や環境が違えば、同じものを見てもこんな風に受けとめ方、感じ方が違うのだということが分かることこそ大事であろう。

気持ちが一緒になるとか、考えが一緒になるというような理解は、幅の狭いものでしかない。多数決で全員一致というのが、作為的な臭いが漂うかのような不信感や不自然さを抱かせるように、あるいは単純な全員一致は中身が薄いものであるように、だからそのようになったのだろう。人と自分は違うのだ。が、それが知識の差である場合には、説得を試みるがよかろう。

信念の違いはそればかりではない。大事なことは、ああだ、こうだ、ああでもない、こうでもない、と時間をかけて話しているうちに、(自分にとって)当たり前のことでも、他の人にとっては当たり前でないとか、自分にとってはたいしたことではなくとも、他の人にとっては大変であるとか、そういったいろいろなことが分ってくるということ。それも「分る」である。

確かに人間にとって「教養を高める」、「知識を増やす」ことは大事であっても、もっと大事なことは「成熟すること」であろう。すべての果実はやがては熟していくが、ところどころ熟さないままの実もある。栄養成分が回らないから、あるいは病気だから、であるなら人間も同じだろうな。すべてのものが成熟の要素になり得るし、病気にならないよう管理も大事だろ。

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人生は長いよ。あの時は分からなかったけれど、今なら分かるということが結構ある。問題が起こってから、あるいは、課題を与えられて、その時は分からなくても、時間を置けば分かる事が多い。その場で、すぐに分からないからといって、すぐに問題が解決ができないからといって、いじめられてその対応がまだできない、成熟していない時に悲劇も起こったりする。

解決よりも苦しさからの逃避だろう。自殺は自己愛の場合が多いといったが、自分に過保護に生きてきた人間は、辛抱や我慢が育たないのだろうな。もちろん、それは本人だけではない、親も過保護にしてきたはずだ。つまり、親に子育ての哲学がないということだ。果たして人生経験を積んだ親なのか?同じように過保護にされて育ってきたのか?哲学とは人生経験のことである。

「あの人には哲学がある」という人は、おそらく人生経験が豊富な人だろう。「哲学とは人生経験」と噛みしめて、各々の人間哲学を作ることだ。ニーチェやヘーゲルやカントをぱらぱらとめくるのも人生経験であろう。生きているときにやる事一切が、人生経験であろう。それが多いか、少ないかで人の何かが決まってくる。少ないなら、少ないなりに決まってくる。

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近年はどこもかしこも様式便器である。便座に腰掛けてみれば、誰でも「考える人」になっている。それが単にポーズであるか、実際に考える人であるかは周囲に分らない。当たり前だ、「個室」である。ペーパーで拭く必要が無いくらいに長便所を咎められたものだが、足の腿の上が黒ずんでることに気づいた。そこに腕を置いて、それが自分の「考える人」のポーズである。

で、一体に何を考えているのか?ということになるが、何を考えたのかは、トイレを出たと同時に忘れている。便秘の人も「考える人」のポーズを取るとよいそうだ。




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