ひとえに人間とは骨格や肉のかたまりや、消化・吸収・排泄を旨とする臓器という物質でできていると同時に、精神という物質でもある。精神は物質か?ならば見せてみよといわれても、見えない物質はいくらでもある。物質の最小単位は原子と高校で教わる。原子はまた陽子、電子、中性子などの元素で構成され、陽子・中性子はさらに素粒子(クォーク)が集まったもの。
したがって、宇宙が誕生したときは、まずこのクォークが生まれたと考えられている。よって、物質を作る究極の素粒子・クォークの謎を探ることが、宇宙誕生の謎を探ることでもある。ビックバン後の宇宙は膨張し、温度が下がり、エネルギーからいろいろな粒子が生まれた。初期の宇宙は、クォークなどがまるでスープのような状態で自由に飛び回っていました。
ビックバンから1万分の1秒後、クォークは陽子や中性子という粒子の中に閉じこめられた。その後、陽子などが集まって原子核を作り、原子が生まれて星や地球が作られた。陽子はアップクォーク2個、ダウンクォーク1個が結合して作られている。ばらばらのクォークは軽いが、結合して陽子などになると重さ(質量)が約100倍くらいになる。なぜそうなるのかは解明されてない。
人類は宇宙の多くの謎を知らないが、身近な脳研究は目覚しい進歩を遂げ、多くのことが分かってきた。精神とは何か?端的に言えば思考である。「人間は考える葦」、「我思う故に我あり」など、考える故に人間である。思考を脳細胞内の神経伝達物質と定義すれば、思考(精神)は物質となる。が、心は物質などではないという考えもある。
ただの電気とすれば物質であり、死しても消えない魂といえば非物質。かつて唯心論と唯物論の対立があった。宗教的観念論が幅を利かせていた時代にあって、唯心論者は唯物論をこう非難した。「導き出された第二のものを第一のものとし、主観からではなく客観から出発し、本来唯一の確実なものである"私"からでなく、"対象"から出発するという誤りを冒している」。
「出来あいの客観的真理としての感性的世界から出発した唯心論など、この世界に存立する必要はないというのは、唯物論者の転倒した直観に過ぎない」。「観念論」と称された当時の哲学的唯心論は「唯物論」をこう非難した。「唯心論」と「唯物論」は、意志の自由と必然の対立であり、観念論の唯物論に対する批判にフォイエルバッハはこう説明する。
「人々が主観(私)から出発しなければならない点において私は観念論に一致する。なぜなら、私に対して存在し、私に対してそのようにある世界の本質は、もっぱら私自身の本質に、私自身の理解や性状一般に依存するからである。したがって、私にとってそのような対象世界は、その独立性を損なう事なしに、単に私の対象化された自己に過ぎない。
しかし、観念論者がそこから出発する自我、つまり感性的事物の存在を廃棄する自我は、いかなる存在も持たず単に思考された自我で、現実的な私ではない。現実的な私であるのはただ汝が対立する私だけであり、ただそれ自身他の私に対して汝であり客観的であるような私だけである。だか観念論的な自我にとっては、一般にいかなる客観も存在しないと同様に、またいかなる汝も存在しない。」
難しい言葉を要約すれば、唯物論者が感覚的世界を人間から切り離して絶対化するのは人間を抽象化であり、観念論こそ人間の出発点とするのも同じ抽象世界である。どちらも人間を人間という具体的な存在として捉えていない。したがって、人間を具体的に、思考と感覚の両輪から統一的に捉えれば、唯物論と観念論の対立も解消するとフォイエルバッハは言う。
「唯心論」も「唯物論」も、いずれも真理ではなく、真理とは人間を抽象的にではなく具体的に掘り下げた人間学であろう。女は感性的、男は理性的というが、どちらも人間である。どちらにも良い点、良くない点があるなら、双方の良い点をうまく機能させるのがよい男女関係、ひいては人間関係であり、対立を融和させるのが賢い人間の知恵である。
闘うだけでは愚かでしかなく、知恵があるなら出せばいいが、知恵がないならバカである。最大の問題は、知恵者とバカの争いであって、知恵者がバカに押される関係がなにより不幸な結果となる。よって、人間はバカを選ぶと不遇となる。何をもって賢いとするか、人間には想像力、記憶力、語彙力などの能力があるが、最も大事なのは読解力(理解力)であろう。
これがない人間といるとこちらの頭も悪くなる。理解力の無さは伝染する(自分の経験)ようだ。よく、「バカと話しているとこっちまでバカになる…」は、この事をいう。バカは本当に死ななければ直らないのか?いや、自分がバカであることに気づき、嫌悪するならさほど努力を要さずとも直る。自殺する人間を「バカとしか言いようがない」と人は言う。
人間はつきつめて考えると自殺以外に手はないのかも知れない。罪深い存在であり、意地汚らしい存在である。人間社会でいう、人間として守るべき道徳など、人間が守れるはずがない。それなら、そんなもの無くせばいいのだが、それがなければ社会秩序が成り立たないのだ。したがって互いに秩序を乱さない程度に守ればいい道徳の中で生きている。
人間である以上それを守れと教えられる。が、そんなものは教えられたものに過ぎないと大人になって分かってももう遅い。それらは良心として自身に内面化され、それに添って生きるのは外からの要求ではなく、内からの要請となっている。だから、突きつめて考えると自殺するしか手がない。長く生きてればいろいろな自殺に遭遇した。
文士や画家の自殺、政治家、アスリート、学者、芸能人、子ども、親、教師、医師、弁護士などなど。自殺者の主観的理由は分らない。よって我々は客観的に理解するしか方法がない。自殺未遂者の言葉は自殺を代弁するものだろう。ただし、それが狂言で無い限りにおいてである。が、狂言であるなしも判別不能であろう。本人は死ぬ気だったという。
自殺は意志でなされるが故に、人間の意志というのはこれほどに自由なものである。人間を含めたすべての動物には生存本能があるというが、自殺はそういった一切の自然法則から独立し、それゆえの一切の感性的動機から独立した意志であると哲学者は言う。人間の超自然的な意志の自由性は、「自殺ができる」という事実によって証明される。
自殺は本能さえも凌駕する一切の束縛から解放された状態なのだろう。迷いはあったとしても行為した瞬間は、「生の執着」さえも束縛となっているのだ。自殺者はバカではなく、バカは死なないし、賢い人が自殺をする。笹井芳樹はなぜ死んだ?バカの不始末の責任を取ったのも一因と見る。バカを見抜けなかったのは万死に価する不徳と思ったのか?
「死を決意するということは、自然に対する概念の優位をもっとも純粋に表現している」(フィヒテ)。「(純粋な無規定性という)意志の原理のうちには、私が私をあらゆるものから解放し、あらゆる目的を放棄し、あらゆるものを捨象できる、ということが横たわっている。ただ、人間だけがあらゆるものを、自分の命すらも放棄することができる。人間は自殺ができるのだ」(ヘーゲル)。
自殺については概ねそういう思考がなされる。自殺は人間の自己保存欲の一つ自愛心と矛盾するように見えるが、見方を変えると自殺も自愛行動である。なぜなら、自殺者は幸福欲や快楽などのあらゆる満足を断念するが、そのことで自身の幸福欲求がもはやなにものによっても傷つけられないことを願っているといえる。自分は今後もはやこれ以上の不幸や不運や苦しみに悩まされたくないのだという思いは自己の幸福を願う自愛心に他ならない。人は誰にも未来は分らない。分らないから希望であり、また分らないから苦悩である。どちらを選んだかであって、いずれも自愛心であろう。ヘーゲルのいう、「自殺はあらゆるものを捨象できる」自由の証明ではなく、むしろその反対ではないだろうか?
自殺はあらゆるものを捨象できる自由の証明ではなく、自らの捨象を放棄する者は、己の捨象能力が制限されているのを告白していることだ。自殺は自己否定という場合もあるが、自己肯定の末の自殺もある。自殺者にとってはどちらも自殺の動機になり得るだけに、個別の自殺の動機は不可解である。芥川の自殺は自己否定か肯定か、太宰は、高野悦子は、笹井芳樹は?
人間を構成するものは精神と物質であり、であるがゆえに「精神主義」、「物質主義」という二極化が起こった。一般的に「心は物質的でない」とするのは変ではないし、疑問の余地すらない。人間の体のどこを切っても、「心が見つかった」ということはない。心とは脳であるというのは間違いではないが、脳のどこを調べても心は発見されない。それで心は物質ではない。
『オズの魔法使い』に出てくるライオンは「勇気」を欲しがった。カラスにバカにされていたカカシは賢くなりたいと「脳みそ」を欲しがった。ブリキの木こりは心臓(ハート=心)を求めた。ブリキの木こりは今でいうロボットであり、人間の形をしているが人間と同じような喜怒哀楽の心がない。それで人間らしくなるために心を欲しがった。つまり、心は人の証である。
『オズの魔法使い』は非常にファンタスティックな映画で、教育的要素も含んでいる。常々思うことだが、「何も教えずに教える」という、教育の根源を網羅した教育映画であろう。「教えない教え」というのは教育の理想と思っている。「言葉にしない言葉」も人間関係で重要だが、心でのお礼はダメな人もいれば、言葉だけではダメな人もいる。何か持って来いみたいな…
「Sound of Silence」の歌詞の内容についてはさまざまに言われているが、 英語圏に人間でも難解のようだ。日本人に分らなくても当然か。「沈黙は神の友達」するクリスチャンもいる。ポール・サイモンの詞には、1962年に発表されたレイチェル・カーソン『沈黙の春 Silent Spring』の影響はあったのか?自分たちが子どもの頃、農薬にはDDTが一般的に使用されていた。
稲にも大量に使用されていたが、国や自治体もDDTの残留性や生態系への影響を公にし、農薬が撒かれた直後には学校から「川で泳がないように」と達しがあった。環境問題意識の低い当時にあって、『沈黙の春』は、DDTの世界的な禁止運動に発展したが、その反動で蚊が媒介するマラリアが増え、レイチェルの真の意図は曲解され、彼女は悪者扱いされてしまった。
ポール・サイモンの「Sound of Silence」は1963年に書かれており、レイチェル同様に文明批判と指摘するもの、コミュニケーション不足を嘆いていると指摘するもの、この曲の歌詞の真の意味を人類が理解するのは百年後か二百年後というもの、いろいろである。ディランも『風に吹かれて』でアレコレ指摘しておきながら、最後に「答えは風に吹かれている」と茶を濁す。
何ごとも易々と答えを出さないことが普遍的なのであろう。人の数ほど考えがある、意見がある。であるからこそ、あえて答えを出さないのもクレバーさである。吉田拓郎が、『イメージの詩』で、「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか?信じれるものがあったとしても、信じない素振り…」と書いたのも、当時の説教臭さと哲学的な修辞(レトリック)である。
レイチェルは、「知ることは感じることの半分も重要ではない」と言った。好きな言葉である。まさにこんにちの詰め込み教育の弊害を言い当てているようだ。教えられること、記憶することばかりが重視され、自身の頭で考えることが苦手な子が多い。何ごとも自身の頭で考えることが正解なのに、それでは不安であり、間違っては恥ずかしいというのが前に出る。
もし、ニーチェが自身の頭で思考をしなかったら、「自由意志があることを信じることは誤りだ」というのを発見できなかったであろう。自由意志的な行為というのはハッキリとした「意図」や「目的」や「動機」に基づいてなされる行為だが、ニーチェ曰く、そういう形で我々の意識にのぼる表象(イメージ)は、「すべての力のなかで、もっとも劣ったもの」であるという。
「意識のうちに現れでるものは、すべて、ある一つの連鎖の最後の環であり、一つの結末である。ある思念が他の思念の原因であるように見えても、それは見かけだけのことに過ぎない。実際の生起の結びつきは、我々の意識の下部で進行している。現れ出る感情や思念などの系列と継起は、実際の生起の徴(しるし)なのだ。」(1885―6年の遺稿)
一般に意志するとは、何かを意志することであり、その何か(意志の対象、実質)とは自己の幸福であろう。意志は常に幸福を意志するし、意志の実質か引き離された意志といったものは無意味なものに過ぎず、ショーペンハウアー的意志=「無を意志する意志」は、実際は存在しない。繰り返すなら、「いかなる幸福欲も存在しないところに、いかなる意志も存在しない」
意志が常に幸福と結びついているとの見方は、倫理学上の「幸福主義」の立場である。倫理学でしばしば問題にされる、幸・不幸と善悪の関係においても、善は自分にだけ善であるなどあり得ず、他人に対する義務を履行し、他人にとって善である限りにおいて、善と言えるのだ。単に自我から導き出された道徳は、幸・不幸と善悪との間には本質的な区別があるはずだ。
よく「これは自分にとっては良いこと(善)だけど、他人には迷惑かも知れない」などというが、そんなものを善とは言わない。「自分に善くて人に善いもの」は善であろう。善人とはまずは他人に尽くす人のことであろう。善意とは他人を思いやるという意味だ。自分自身に対する善意な行為とはどういう行為なのか聞いて見たい。奉仕作業に行く自分は善人?