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「自尊心」

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「○○心」シリーズもまだまだ続くようだが、何かを始めたら徹底してやりたい、やろうとする自分の性癖が現れている。何気に「○○心」のつく語句は何があるかと、頭の体操が楽しいからと、そこが発端になり、語句が集まればそれについて何事かくらいは書けるだろうという、自分に対する暗黙の指令である。命令といってもいいが、どちらにしろ楽しんでやっている。
 
何かをやる前から、「そんなことできない」というヤツがいる。自分は何事も「できるに決まってるだろ」と思うタイプだから、「そんなことできな~い」というヤツには批判的だ。だから、「できない」は「やりたくない」ってことだから男らしく、「やりたくないって言えよ!」などと絞めつけたりした。どう考えても、「できない」は、「やりたくない」から派生する言葉でしかない。
 
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男らしく言えというのは男にであって、女には言わない。「そんなことできな~い」は女の代名詞と最初から思ってるからで、だから、そういう言葉を言わずに、「やろう」とする女を評価する。これは男の女への甘やかしかも知れないが、厄介な女心をアレコレ考えたり注意したりするより、そういうものだと思ってる方が腹を立てないで済む。男には断固許さないが…。
 
当たり前のようだが、どうしても女は甘やかされてしまう。「怒りゃスネる、叩けば泣く、殺せば化けて出る」と古来から言われるように、情緒が変幻する女は扱いにくい生き物。キツく言えども泣いたりすねたりしなければ対等に扱うが、土台無理だと諦めている。そういうときには特別扱いして欲しいのが女というもの。男と同じようにキツく言って下さいはマレだ。
 
「男と女は(性的)対等ではないが、平等である」。そこが男が女に接する場合にもっとも難儀なところ。これは互いの思いあいがあってこそ成り立つが、権利主張と泣けば勝ちの態度に腹が立つ。まあ、女の涙は武器というが、できれば武器は見たくない。涙に弱いのではなく、卑怯な涙に腹が立つ。泣くのは恥と思う男の方が扱いやすいが、ズルい女は武器を使う。
 
イメージ 2一般的に男の武器は手出し(暴力)というが、最近は手出し女も多いと言う。自分は男の武器は我慢だと思っている。「ならぬ堪忍、するが堪忍」というのは、芯の強い男にしかできない技だ。男の価値は「珍」に、いや「芯」にある。「芯」とは植物の茎の芯、花の芯から中身の中心となった。蝋燭の芯、鉛筆の芯。上辺を飾る女と「芯」を重視する男の違いだが、暴力に芯はない。
 
DVなどどっちもどっちよ。ある女がこういった。「男の人と対等にやっていこうと思ったら、『女』を捨てなければ…」。そうそうそういうこと。いい心がけというより当然の心がけ。自分に厳しくしないと無理だわさ。老舗の料理人や種々の匠と言われる親方衆が、「うちは女は取らないことにしてる」というのは、何も差別ではない。様々な経験から得た真っ当な姿勢である。
 
女が男と差別されたと文句をいうのは、厳しさにおいてではない。「何でわたしには甘いんですか!」とは決して言わない。後先考えて区別してるのに、後先考えない女が差別と言ってるだけ。ある親方が、そういうことで差別と食ってかかる女に言った。「そこまで言うなら男と同じように扱ってやる。少しでも甘やかすような言動があったら、差別と文句を言って来い。」
 
案の定その女は続かなかった。どこやらの持病が悪化してみたいな理由で止めていった。"鬼の大松"の異名を取ったのは、元日本女子バレーボール監督の大松博文である。彼の激しいスパルタに耐えた選手は「東洋の魔女」と呼ばれた。当時の全日本メンバーは現在のような寄せ集めではなく、近藤雅子(倉紡倉敷)、渋木綾乃(ヤシカ)以外は日紡貝塚の選手だった。
 
日本は1950年の朝鮮戦争の勃発を機に、「糸へん景気」に沸いていた。文字通り「糸」に関わる繊維産業が、政府統制のくびきから解放されて大発展を遂げていた。そんな活況に沸く多くの紡績会社では、社員らが仕事の余暇として「バレーボール」を楽しめるようにコートを作り、次々と実業団チームが誕生した。そのなかで最強を誇ったのが「日紡貝塚」である。
 
大阪府下の貝塚市にある日紡の貝塚工場に集められた選手たちは、敷地内にある寮に住み込み、一心にバレーボールに打ち込んだ。それが「東洋の魔女」。後の東京オリンピックで金メダルを獲得することになる「日紡貝塚女子バレーボール部」の選手たちである。昭和29年に結成された日紡貝塚は、翌年には日本一。昭和34年からは連勝記録をつづけていく。
 
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東京オリンピックで金メダルを取った大松の目に涙があった。やがてオリンピックの熱狂が去り、大松博文は監督を引退する。"おお、懐かしの提灯ブルマー"、 名門・日紡貝塚は東京オリンピックでマネージャーを務めた小島孝治・新監督に受け継がれ、公式戦258連勝を記録した。以後、チーム名が「ユニチカ」となり、2000年の活動停止をもって「東レ・アローズ」へと引き継がれた。
 
その初代監督が大松博文であった。鬼の大松と呼ばれた男。彼は大学時代、全国大会で2度優勝したその実績を買われての登用であった。大松は女子部員に、「泣くな!」の怒号を張り上げ、そのスパルタぶりは内外から恐れられた。「いやー、ゾッとしましたもん」、のちの魔女の一人、宮本恵美子は高校時代、入部前の練習見学ですっかり怯んでしまっていた。
 
魔女たちのコート練習の動画を見たことがある。まるで虫けらのように、ひたすらバレーボールマシンのようにしか見えなかった。彼女たちの誰一人として「自尊心」を保てた者はいない…と思われがちだが、コートの中における重要な役割としての責務が、集団から価値ある存在と他の選手や監督から認められ、尊重されることを求める欲求(自尊心)を満たしている。
 
これはマズローの五段階欲求説の「承認と自尊心の欲求」に当てはまる。また、自分の能力を引き出し創造的活動がしたいなどの「自己実現欲求」は、オリンピックの金メダルで完遂された。目的が明確ならどんなにつらいことでも耐えられる。そういう「我慢」も一種の能力と考えると、我慢は得なことばかり。かつて運動部の生徒が就職に有利だった。
 
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いうまでもない、身体は丈夫だし、先輩・後輩の上下関係も身についているし、「我慢をしっている」ところが評価の対象だ。文句や不満を訴えるのは、人間の自尊心だが、会社や組織やチームは自分の思うようにはならない。「イヤだ」、「やりたくない」などの自尊感情がどうしても働くが、組織プレーをすることで自尊以上に大事なものを暗黙学んでいる。
 
「自尊心を傷つけられた」という言葉をしばしば耳にする。自分なども無慈悲な毒親に自尊心を傷つけられた。言葉による暴力は肉体的暴力同じくらい、時にはそれ以上に人を傷つける。特に、親による侮辱的なののしり、はずかしめ、バカにした言葉などは、子どもの心を著しく傷つけ、心の発育に劇的な悪影響を及ぼす。言葉に対して返す言葉をたくさん考えた。
 
「お前のために言つてるんだ」というのがいかにも口実であるかのように、それに対して、「ボクのことを考えるなら言わんとくれ。何のためにもなってない」などと返す。こんな風に言われたら親は言葉を失うね。実際そうだったしヒステリー起こして殴る、蹴る、その前に自分は逃げる。よそ子のと比べる言い方をすると、即座によその親と比較してやる。
 
親の言葉が大したことないと感じていた自分は、常に親の言葉に勝る言葉を考えようとした。親の心理を分析をし、暴言で対抗するより、論理を磨いた。「お前なんか産まなきゃよかった」などというものなら、「こっちも生まれたくなかった。腹に戻してくれ」などの頓知は結構働いた。「一休さん」に感心した事もあったし、頓知をすぐに考えるのは大事なことだと思っていた。
 
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ただし、一休さんにも不満はあった。橋を渡るなと言われて真ん中を通ったのはいいにしても、おわんのふたを開けずに味噌汁を飲めといわれ、「冷めたから新しいのに変えてくれ」との返答は納得いかなかった。「それって飲んだことにはならなくないか?」であり、自分ならキリや千枚通しで穴を開けて飲む。屏風の虎の一件は、当たり前すぎてつまらない。
 
他にも、日本一長い文字を書けと言われた一休は、竹ホウキで「し」という字を書いたが、数字の「一」でもよかった。それがヒントで友人に、「長い直線で、真っ直ぐに信号もなく、一回も止まることもなく5時間歩ける所があるが、どこか分るか?」と言ったことがある。「そんな所あるはずない」が普通の答え。正解は「ある」。デパートのエスカレータを逆に上る。
 
いつごろか、オヤジギャグを笑わないのが若者のトレンドになっているが、それでもあえて笑わせるのを考えるのもオモシロイ。おかしいのに素直に笑えばいいのに、無理して笑いをこらえているのが滑稽だ。笑わないことで自尊心が保たれるのだろう。つまらんところで自尊心出すなと思うのだが、先日、歯科医院の受付でギャグったら受けて涙を出していた。
 
年の頃30歳~35歳の受付嬢はいささか天然で、「今日は薄化粧じゃないですか?」とある日、スッピン気味の彼女に言ったら、「年のせいでしょうか、皮膚のシワにファンデーションが入ってダメなんですよ~」と隠すことなく説明してくれた。天然女性は妙な自尊心がないところがかわいい。また、女性にそういう悩みがあるのを初めて知ることにもなった。
 
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まあ、ファンデーションなんか塗った事もないからな。自尊感情はあってこそ人間である。人間は思い上がらずして何ができるのかと。美人は我が身を美しいと思いあがっておればこそ、より美しくも見え、また美しさも増そうというもの。自尊感情とは自らへの肯定感、あるいは否定的態度でもある。自分を「これでよい」と思うのはいいが、他者軽視は余計なこと。
 
自尊心が強くて問題なのはそこだろう。自分を尊ぶだけでは物足りない、だから他者軽視に回る心理を突き詰めるととどのつまりは自信がないのだろう。年長者が「最近の若い者は…」と言う場合、それが他者軽視な言い方である場合は多い。そうではなくて、戦後の経済的厳しい時代を送った年長者が、他人を厳しい目で捉えてエールのつもりで言う場合もある。
 
自尊感情が高いなら他人を見下さなくてもいいわけだし、自尊感情が低いから他人を見下すことで高めようとするのかも知れない。まあ、他者軽視に基づく中途半端な有能感の背景には、「希薄化する人間関係」が存在するのだろう。他者軽視の裏には実は他者を怖れる何かがあるのかも知れない。他者を脅威とみなせば、背伸びをして弱い自分を防衛しようとする。
 
自分の頭の悪さを差し置いて、「勉強しないとお父さんみたいになってしまうよ」というバカ母がいる。自身のことが見えていない無理性かつ、他人の悪口大好きのヒステリー性向でないと、こういう恥知らずな暴言は吐けないものだ。勉強しない子に、勉強しないとどういうことになるかを教えたいというより、夫に対する潜在的不満を晴らしたいのだろう。
 
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このような言葉はある日突然言われるわけでもないし、夫が妻に徹底的に舐められてるんだろうよ。妻の若い時分の事情を知ってる夫が、彼氏をとっかえひっかえする娘に「お母さんのようなヤリマンになるんじゃないよ」と言ってるようなものだし、いずれも口に出すべくことではない。「お父さんのように~」という妻は、おそらく勉強ができた自負があるんだろう。
 
小中高にどれだけ勉強ができたとしても、こういう言葉を発するという思慮のなさ、そういう意味でバカ母である。頭の良し悪しとはこう言う事だと思った方がいい。子どもに父親の体たらく、不甲斐なさを教えて勉強が好きに、楽しくなるわけでもないだろうが、その点においても頭の悪い母である。過去の成績や学歴を自慢しても、今はバカな母親である。
 
かつてはバカでも利口な人間もいれば、かつては賢くて現在はバカもいる。どちらが問題であるかは、今が賢いかどうかでしかない。遠慮することない、「お前は過去の成績や学歴を自慢したいのだろうが、今はどんだけバカか分ってないな。学校はいいから、寺にでも行って座禅でもして来い」と言えばいい。もっともこんな言い合いをする夫婦も情けない。
 
子どもの前で配偶者の悪口をいうのは、夫より妻の方が多い。「お父さんのようになっちゃだめ」、「お父さんは本当にだらしない」など、子どもに良い環境であるはずがない。夫に言う分は問題ないが、子どもに言うところがバカの見本。自尊心を崩壊させられた夫も自分の居場所がなくなり、家へと帰る足は遠のいてしまう。家族の悪口は家族の前で言わない。
 
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子どもが男の子なら、将来の生き方のモデルを失うし、女の子なら、幸せのモデルを見失うと言われている。米アマゾンのサイトで「Self-Help (自己啓発)」のカテゴリーから、サブカテゴリーである「Self-Esteem (自尊心)」に5000冊もの本があるのを確認できる。大半が強い自尊心を持てない理由を教えるだけでなく、自尊心を高める方法の伝授を目的としている。
 
そうした本が売れているのは、少なくとも西洋の文化においては、「自尊心」が個人の成功の礎と考えられているからだ。自分自身を素晴らしいと思えなければ、人生で成功を収めることなどできない、という理屈である。日本で自尊心は謙虚さと対比される。自尊心が高い=高慢というわけではないが、アメリカでは謙遜は自分の能力を発揮できなくなると教える。
 
謙遜を示す語句は「self-imposed handicap (自らに課したハンデ)」であるからだ。謙遜よりも率直を選ぶようだ。最近の研究では、「自分は素晴らしい」プライドを保ったり、自分に厳しくしたりすることは成功にはつながらない。むしろ必要なのは、自分を慈しむ心であるという。自分を大切に思ったり、愛したり、自分に価値を感じたりも「自尊心」である。
 
 

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