「なおわざわざつけ加えて言う必要があろうか?つまり、これら未来の哲学者らはまた、自由な、いとも自由な精神の者であるだろうということを、――また疑いもないことながら、彼らが単に自由な精神の者であるに止まらず、むしろそれ以上のもの、より高いもの、より偉大なもの、根本的に別のものであり、誤認されたり混同されたりするのを欲しないということを。
だが、こういうことによって私は、彼らに対するほとんど同様に、彼らの伝令であり先駆者である我々自身に対しても、この自由な精神である我々自身に対しても、責任を感ずるのである!――つまり、あまりに永いあいだ霧のように〈自由なる精神〉という概念を不透明ならしめていた古い愚劣な先入観と見解をば、共々に我々から吹き払わなければならないという責任をだ。」
上は、ニーチェ全集11 『善悪の彼岸 道徳の系譜』(信太正三訳・筑摩書房)より「自由なる精神 44」の冒頭部分。ニーチェの言う自由な精神とは、あらゆる価値の転倒を実現するために相応しい精神を言う。通常の束縛された精神に対比させたもので、束縛された精神とは、この世の中の価値に囚われているような精神を言い、自由な精神とは、あらゆる価値や慣習から自由であるとする。
『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』においてニーチェは、自由な精神の本質とは、それが従来とは別の新しい価値を獲得したということよりも、従来の因習的なものから自分を解き放っていることとした。つまり、一切の既存の価値を転倒し、それから自由になっていることこそが自由な精神の本質的な意味とするが、社会生活における人間の慣習一切を否定するとどうなる?
集団に属さない非倫理的な人間と非難されるであろう。倫理という既存の価値体系を否定するというのは、狭い意味ではたしかに非「倫理」的である。しかし、そんな非難をまともに受け取る必要はない。その点についてニーチェは、『曙光』の中で次のように述べている。「倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より外の何ものでもない。(中略)
自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを望むから、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、「悪い」ということは、「個人的」、「自由な」、「勝手な」、「慣れていない」、「予測がつかない」、「測りがたい」というほどのことを意味している。(中略) 慣習とは何か?
それは、我々にとって利益になるものを命令するからではなく、命令するという理由のために我々が服従する、高度の権威のことである。(中略) それは、個人的なもの以上の何ものかに対する恐怖である。――この恐怖の中には迷信が潜む」。ニーチェは「倫理」といわれるものの本質をえぐり出し、「倫理」側からの非難に対して「反倫理」の立場から居直っている。
同時に、倫理側が自分を善いと主張することには根拠がないともいっている。彼らが依拠している慣習とは、高度の権威に対する恐怖心に出ているに過ぎないともいっている。これが世間にある「倫理」の実態であり、「倫理」が準拠するところの高度の権威が、その権威を失えば何も恐れることはなくなり、慣習も意味を持たなくなる。「自由な精神」に慣習は無意味である。
「倫理」の立場から反倫理が悪いと言うなら、「悪い」で結構でござるよ。と、ニーチェは、あらゆる価値を転倒させる作業を通じて、次第にそうした価値を成り立たせている前提に踏み込んでいく。自由な精神とは、束縛を解いた精神であるのはその通りだが、問題は人間がそれを社会生活でやる事で失う信用、もしくは信頼であろう。それらを失ったことで孤立する。
ニーチェの言葉に連なる坂口安吾の言葉がある。「私は葬式というものがキライで、出席しないことにしている。礼儀というものはそんなところへ出席するところにあると思っていないから、私はなんとも思っていないが、誰々の告別式に誰々が来なかったなどと、日本はうるさいところである」。というのが他人の葬式に対する彼の態度だが、自身の葬式についてこう述べる。
「死んだ人間などというものは、一番つつましやかに、人目をさけて始末して欲しい。むなしくなった私のむくろを囲んで、事務的な処理をするほかに、余計なことをされるのは、こう考えても羞しい。死んだ顔に一々告別されたり、線香をたて、ローソクを燃やし、香などというものをつまんで合掌瞑目されるなどと、考えても浅ましく、僕は身辺の人に、告別式というものや、通夜というものは金輪際やらぬこと、かたく私の死後を戒めているのである。死後の葬式の盛儀を祈るなどということに、私は関心を持ちたいとは思わない。(中略)告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。もっとも、そういうとこにこだわることも、あるいは、無意味かも知れない。私が人の葬儀に出席しないというのは、こだわるからではなく、全然そんなことが念頭にないからで、吾関せず、それだけのことにすぎない。」
田舎の人は葬式の会葬者の人数に拘ったりする。「○○家の葬儀は凄かった、外にまで多くの人が溢れて受付も大変そうだった」と、コレは一種の羨望観の現われとして聞いていた。人は自分の死後の会葬者の数まで気にするのだなと。安吾のいう「葬式の盛儀」とやらがこれだろう。派手な挙式、派手な葬式で人は他者との差別意識を優越とするのではないか。
田舎の人は葬式の会葬者の人数に拘ったりする。「○○家の葬儀は凄かった、外にまで多くの人が溢れて受付も大変そうだった」と、コレは一種の羨望観の現われとして聞いていた。人は自分の死後の会葬者の数まで気にするのだなと。安吾のいう「葬式の盛儀」とやらがこれだろう。派手な挙式、派手な葬式で人は他者との差別意識を優越とするのではないか。
このようなチンケな優越感を持つのがチンケな人間の世界である。他者と自分を比較することでしか自身の優劣を決められないのが人間なら、ニーチェや安吾の言葉は目に入るまい。つまり、周囲を見て暮らす人のことだ。自身の絶対的信念がないものだから、孤立を極度に怖れ、人と同じことさえしていれば、後ろ指を指されることもなく、無難な社会生活を横臥できる。
斯くの人を非難する道理はない。要は自分がどうするかである。ザ・ローリング・ストーンズのミックが、エド・サリヴァンの言いなりに歌詞を変更した事について、自分は彼をビジネスマンと評した。「ザ・ローリング・ストーンズ」という事業主としての彼の経営手腕と評価した。反逆児といわれながらも、是は是、非は非という姿勢が50年以上もバンドを解散もせずに続けている。
唯一の脱退者ビル・ワイマンはどうしてストーンズを辞めたのか?彼は地味ではあるが秀逸なベーシストとして誉れ高かった。あのボブ・ディランでさえ、ワイマン脱退をこう嘆いている。「彼なくしては、ただのファンク・バンドだ。ビルが戻ったら、本物のザ・ローリングストーンズになるよ」。ストーンズサウンドを支えて来たビル、「Honky Tonk Women」でのプレイは凄いの一言。
「Jumping Jack Flash」も始めて耳にしたとき、あのムーヴィングなベースラインに鳥肌が立った。ミックの派手な動きをフォローした感があるが、ムーヴィングなベースラインを直立不動、微動だにせず、直角気味のおっ立てたベースを知性的に弾くビルは、ストーンズの活動に飽き飽きし、それが脱退の理由であるといわれている。1993年のことだ。
「バンドに入った時、ぼくにはもう8か月になる息子がいて、だから、ぼくは自分がかつてバンドをやっていて、テレビにも出て、レコードも2枚出したと息子に知ってもらいたくて始めたことだったんだよ。それでいろんな細々としたものをスクラップブックに集めるようになったんだ」。それがどんどん増えて山ほどの資料になってしまったとビルは振り返る。
私生活でも知性的で多趣味のビルは、「覆水盆に返らず」を強調する。「昔の同級生、昔の彼女、離婚した昔の女房とヨリを戻そうったってうまくいかないんだから。バンドだって同じだよ」。ストーンズの活動に多芸多趣味のビルが飽きたという面とは別に、彼は突然飛行機に乗るのを嫌がるようになったと言われ、彼だけ陸路でヨーロッパツアーに参加したこともある。
ビルは脱退当時、「ロッキン・オン」という雑誌で以下のように語っている。「正直、このまま続けていくのはとても疲れた。長期ツアーの連続だったしプライベートでもゴタゴタしていたし(この頃、年下の妻と離婚している)、だから辞めた。もう沢山だと感じた。それに今は自分の店のプロデュース(レストラン「スティッキー・フィンガーズ」のこと)でも忙しいから…」
いろんな脱退があるものだ。バンドという集合体の中で、個人的なものが主張されるなら、それで組織に迷惑・被害が及ぶなら辞めるべきであろう。辞めるという自由は許されてしかりである。誰も引き止める権限はない。ビルはベースを弾くことが嫌になったわけではなく、1982年にもソロ・アルバム『Bill Wyman』をリリースしていたが、脱退後もアルバムを出す。
おそらく性格的に、バンドを辞めたくても辞められないジレンマに陥った人はいるだろう。本当の自由、真の自由とは何か?であるが、それらが我が侭と混同されることがしばしばある。自由とは、「外的な障害が存在しないことである」とホッブスは述べた。仕事が多忙で好きなゴルフにも釣りにも行けない。そんな時人は、「自由を奪われている」と感じるだろう。
仕事は食う糧を得る手段だから、本当に自分がしたい趣味や道楽を満喫できないのは、「自分は自由を奪われている」と感じるのもやむを得ない。嫌いな勉強を親から強制され、好きなゲームをやれないとき、「自分には自由がない」と感じるだろう。自分の好きなこと、やりたい事を他から妨げられず、自分の思いのままにやれるのが自由であると、誰もが考える。
「それを真の意味での自由と呼ばない」これが、ある哲学者の考えである。女を自由に口説いてセックスしたい、大好きな酒を、高級ワインを、思う存分飲んでみたい、ダイエットなど億劫であり、好きな物をたらふく食べたい、着たい洋服を着て街を闊歩したい。これらは快楽を求める欲望であり、愛好の対象に向かう行為は、外的対象によって規定された他律に他ならない。
といえば、先の哲学者がカントであるのが分る。カントの言う「真の自由」とは、理性的な意志が、自ら立てた掟によって自己を規定することを言う。つまり、「意志の自律」である。カントのいう「掟」とは「道徳法則(道徳の掟)」を意味し、要約するとカントのいう「真の意味での自由」を成り立たせるためには、道徳法則によって自己を律することにある。
「道徳法則」を分りやすくいうなら、「嘘をついてはならない」もその範疇である。あるサラリーマンが会社を退職して何か事業を始めたのだが、どうも思わしくない。慣れない仕事で思った通りの業績が得れないし、このままでは借金地獄でたちゆかなるのは目に見えている。どうすればいい?苦境に立たされるが、それは自分が選んだ道であると呪ったりはしない。
受験生が「どうしても合格したいから」と、自身の意思で好きなゲームを止めて頑張った。また、生徒の自由を束縛する校則を生徒会活動を通して見直し、自分たちで新たな校則をつくり、皆がそれに従うことになった。これらはすべて他者に律されたものではない、「意志の自律」である。このように自分が自分に課したものなら規則であっても積極的に従おうとする。
カントが我々に要求しているのはこういう「意志の自律」である。我々自身の理性が生み出したもの、という観点に立つことである。そうであるなら我々の精神は他律からの束縛を受けないし、それが「真の自由」である。毎朝6時に起床、公園の周囲5kmのジョギングを課してる人は、他者から無理やりに課されたわけではないから、むしろ楽しんでやっている。
同じ行為でも強制されたものとそうでないものとではまるで自由さが違うはずだ。他者への義務が束縛と感じるのは当たり前である。カントの自由についての考えは正鵠を射るものであろう。フィヒテやヘーゲルなどの多くの哲学者に影響を与えた。が、果たしてカントのいう自由を我々は背負いきれるのか?カントの道徳法則は、真の幸福を捨てろといっていないか?
そういう問題に突き当たる。人間は快楽を求めてはいけないのか?そういう疑問にぶち当たる。我々は――いや、少なくとも自分は快楽を求めて人生を楽しく彩りたい。経済的にもゆとりのある暮らしを望みたい。つくづくイスラム教信者のような宗教的戒律を遵守し、幸福を求める人間もいるが、あんなのは沢山だと思う。ほどほどでいいから幸福な人生を送りたい。
この考えは多くの人の願いであろう。言っては何だが(といいながら言うけれども)、地べたに頭をこすり付けて幸福が得れるものなのか?イスラムの神はそういう信者全員に分け隔てなく幸福を供与するものなのか?と思う我々はそんなことをしないし、しないながらも幸福を得ている者は多い。では、それをする彼らにもたらされる宗教的幸福とは一体何なのか?
実はそれすら分らない彼らはニーチェのいう、「我々にとって利益になるものを命令するからではなく、命令するという理由のために我々が服従する高度の権威。それは、個人的なもの以上の何ものかに対する恐怖である。――この恐怖の中には迷信が潜む」というものではないのか?宗教的儀式と言うのは、一種の慣習ではないのかとさえ、思ってしまう。
キリスト教批判で知られるニーチェは『曙光』の中でこのように書いている。「力の感情のための処方がある。第一に、自制することができる人々、それによってすでにある力の感情に精通している人々に対して。第二に、まさにこの感情が欠けている人々に対して。第一の種類の人間はバラモン教が世話をし、第二の種類の人間はキリスト教が世話した。」
まさに事物についての自分自身の意見をどうして啓示として感じることができるのか、である。ある意見を啓示として感じることによって、それを自分に確証とし、それによって仮説的なものを排除し、意見に対する批判を懐疑の手から奪い取ったあげく神聖とする。宗教の発生の問題はまさにこうである。麻原彰晃の言葉を啓示とした信者たちは、無差別殺人を敢行した。
「バカに金と力を持たすな」というが、金と力は最も人間をひれ伏させるものであるからで、ヒゲヅラデブのおバカなおっさんが吐いた普通の言葉を、啓示と受け取った側とてバカである。新興宗教の教祖と祀り上げられている普通のおっさんが、なぜに偉大なる幸福の創始者であり得るのか?信じる人を貶したくはないが、信じない側にとっては素朴な疑問だ。