「『自由精神』という原型を内に宿し、それをいつか完全なまでに成熟させたり甘美なものにならせたりするはずの在る精神は、自らの決定的事件として大いなる解放を経験している。そして以前はそれだけでいっそう縛られた精神であったし、永久に自分の片隅と柱とに縛り付けられているかに見えた、と推量されてもよいであろう。何が最も固く縛るのであるか?いかなる罠がほとんど引き裂き得ないものなのであるか?
高尚な選り抜きの部類の人間にあっては、それはもろもろの義務であるだろう、若い人に持ち前のあの畏敬、すべて古くから崇拝されたものや品位あるものに対するあのはにかみと感じやすさ、自分たちが成長してきた土地・導いてくれた手・崇めることを学んだ聖殿などに対するあの感謝、――彼らの最高の瞬間こそ彼らをもっとも固く縛ったり、もっとも持続的に義務づけたりするであろう。」
これは、フリードリヒ・ニーチェ全集5 『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』(池尾健一訳・筑摩書房)からの一文である。ニーチェにとっては平易な部類の文章だが、なぜ哲学者は難しい言葉を語るのか?カントしかり、ヘーゲルしかり、特にニーチェは難解である。語ろうとする内容が難解という事情はあるが、難解な内容に彼らの言語表現能力が追いついていないといえる。
他にも理由がある。難解な言葉で語ることが哲学者として認められる最低の条件という事になっている。『存在と時間』のハイデガーも難解極まりない言葉をふりまくが、彼は「素朴」な問いには決して答えなかったという。「素朴」な問いとは、彼らにとって自身の検閲が働く問いである。例えば「人生、いかに生きるべきか」ような問いは哲学者にとっては青くさい。
青くさい問いを不作法として退けるシステムが哲学アカデミズムに存在するのは事実である。難解な哲学者を考察する学術論文も量産され、横行する現実にあって、難解な文章を読み極める青くさい若者が、彼らに蔓延する素朴な問いに対し、「真理とはかくあるべし」平易な思考で答えてくれる大川隆法や麻原彰晃といった、あやしげな「新宗教」に走ったのは理解に及ぶ。
早川紀代秀(大阪府立大学大学院緑地計画工学)、上祐史浩(早稲田大学大学院理工学研究科)、村井秀夫(大阪大学大学院理学研究科)、中川智正(京都府立医科大学医学部)医学科卒業土谷 正実(筑波大学大学院化学研究科)、土谷正実(筑波大学大学院化学研究科)、遠藤誠一(京都大学大学院医学研究科)、石川公一(東京大学医学部医学科)、林郁夫(慶應義塾大学医学部)。
上の面々は、「オウム真理教事件」の当事者として当時新聞紙面をにぎわせた懐かしい名前であるが、ご覧の通りほとんどが有名大学・大学院卒の理系学部卒である。そんな一流校の理系出身者というのは、秀才で冷静な思考のできるはずとの世間の認識とはまるで逆の、ヒゲヅラでデブで、コキタナイ乞食のような、食わせ物麻原に傾倒していったのだろうか?
理系というのも一つのキーワードであろう。科学書は読むが哲学書を読むことはなかった彼らである。科学は「現象」である。現象とは(人に)見えるもの、つまり(外面的な)<<現れ>>のこと。出来事を、それが存在するかどうか、本当かどうか、といった、その見える<<現れ>>の背後にあるものは問題にせず、その観察された<<現れ>>として扱うとき、それを「現象」と呼ぶ。
現象の対義語は「本質」である。多くの理系出身者が麻原という人間の現象に傾倒し、麻原という人間の実態的・本質的側面に蓋をした。麻原ならずとも、宗教的指導者の一般的特質は、人の心を見透かす洞察力に長じているのではないか?彼らの苦悩を読み取り、求める物を読み取り、適切な言葉で丸め込んでしまう人間という意味で、麻原は頭の良い人間であった。
後に麻原を取調べた担当官も、「こちらの考えていることを読む力に非常に長けている」と言わしめている。さらに麻原の空中浮遊の写真、これはトリック的現象であるが、多くの理系秀才たちが、「これをエネルギー化すれば世界平和が実現できる」と考えた。ヘーゲルは「本質は現出する」といった。「本質」は「現象」となることによってのみ存在するといった。
「現象」は、「本質」の現れでた姿であり、事物の表面に現れでた感覚で捉えることのできる外観的な、側面を示すもの。これに対して「本質」とは、事物や出来事の本当の姿のことであり、事物の基礎をなし、その表面からは目に見えない背後に隠れている内面的なものを示す。端的にいうなら、「現象」は事物の外的表面的なもの、「本質」は事物の内面的なものをいう。
であるなら、「現象」と「本質」の関係は一体のものであって、異なった別個の事物を捉えるものではない。我々人間は現象と本質を切り離して「現象」を認識できるが、「本質」は認識できないというのは正しくない。ヘーゲルは現象と本質との関係について以下述べている。「本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照するとは、自己を直接態へ揚棄することである。
この直接態は、自己への反省としては存立性であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立である。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって、本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。」
難しい文章だが、ヘーゲルがいうところの「現象」は、事物の表面に現れた外的な事実であり、「本質」とは「現象」の原因を作りなしている事物や事柄の内的なものだということ。要約すると、現象とは事物の本質的側面における、外的な表現であるとする。「外的な表現」というのは、事物の表面に現出されて我々の感覚器官に、直接反映されるという意味である。
感覚器官が知覚することで認識できる外的な表現というのは、あらゆる客観的な事物を現象として、捉えていることになるが、我々は事物の現象を感覚という主観でしか認識できない。このことから「本質」は、感覚器官で直接把握はできないが、「現象」を分析・吟味という思考作業で理解することはできる。となると、やはり「現象」がそのまま「本質」とはならないに帰結する。
矛盾するようだが論点を整理すると、「現象」は事物の運動過程における名々の側面における本質の表現であるに過ぎない。現象と本質には違いがあり、その間には矛盾がある。「木を見て森を見ず」というのも認識である。小さいことに心を奪われて、全体を見通すことができないことのたとえだが、本人はそんな風に思ってはなく、物事をキチンと認識していると思っている。
「現象」や「本質」もつまるところは認識である。局部的な「現象」や、その個別的な外的な連関を見るだけでは事物の全体を認識することはできではいないが、それで事物全体や本質を認識しているのなら、客観的な事物の真の姿を反映しない不正確な認識となる。そこで人間の認識というのは、感性的な認識から理性的な認識へと発展、高めていかなくてはならない。
その目的とするものは、我々が抱えている現実的で色々な現象を検討し、吟味することを通じて事物の本質を、認識することにある。よく「勘があたった」、「女の勘は鋭い」などというが、「犬も歩けば棒に当たる」的なものであろう。そういうこともあるが、感性的なものに普遍性や妥当性はない。「STAP細胞はあります」と言ったところで、それを科学とはいわない。
女性は脳内の右脳と左脳をつなぐ「脳梁」という部分が太く、男性の1.5倍も細胞が密集しているため、的確に右脳と左脳の情報交換ができる女性は直感力に優れ、男性の些細な変化に気づきやすい。「人は目で見た」・「耳で聞いた」・「におい」の情報を右脳と左脳でやりとりして判断しているが、女性は脳梁が大きいので、些細な情報まで脳で判断できてしまうという。
だとしても、恣意的なものとしか言えない。生活の中で役割はあろうが科学ではないから、女性科学者が世紀の発見をし易いという事には寄与しない。事物の本質とは、現象してこそ本質なのであって、現象しない本質などは存在しない。必ず現象するものだが、正しく認識する力量がないと麻原のようなペテン師に騙され、利用されるということだ。学問には答えがある。
が、社会には答えはない。自分が正しく判断したモノを正解とするしかない。社会の倫理とは基本的に自身で考えるしかないということだ。哲学史に名を残す偉大なる先人といえども、生きた時代が異なる。彼らは彼らの時代に生き方や国家社会の問題を真面目に深く考えた。彼らの固い殻に閉ざされた思索は「倫理」といえるものであるが、我々はそれを栄養分として摂取する。
そうしてそれらを自身の頭で思索する糧とすべきである。そこに我々が哲学と関わる真の意味があるのではないか。と文字にすれば簡単なようだが、コレがなかなか難しく、簡単ではない。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762年5月19日 - 1814年1月27日)は、ドイツの哲学者で、彼の「人がどんな哲学を選ぶかは、その人間がどんな人間かによる」という言葉が有名である。
彼はこうも言っている。「理性を欠いた一切のものを自己に従わせ、これを自由に自分の掟(法則)によって支配すること、それが人間の究極目的である」。これは「自我の完全なる自己一致」を指している。「自我」と「自己」は別のもの。自分が考える「自分」が「自我」。自分と他人を通しての「自分」が「自己」。自我を語る時「アイデンティティ(自我同一性)」という言葉を使う。
アイデンティティは「自分視点の自分定義集」。自己を語る時は「パーソナリティ(人格)」という言葉が使われる。パーソナリティは「他人から見た自分らしさ」をいう。一例をあげると、自分は女だけど「男っぽい」と、周囲(他人)から言われたとする。自分の中(自我)では、「自分は女だ」と思っていても、周囲の目を通す(自己)だと「男っぽい」ことになる。
どっちが正しい本当の自分なのか?他人の目か、自分の意識か?何を正解とするよりも、「男っぽい」と言われることを自覚しつつ、「私は周囲から男っぽいと言われる女だ」と正確に「自我」をコントロールするのが「自己」である。自分は性的に女であるにも関わらず、「私は男だ」と本気で「自我」で思い込んでいるとしたら、性格が分裂している精神病である。
パーソナリティとは、あくまで他人との交流からの自分視点を重視するものだが、オカマハどうなんだろう?オカマは自分が女だと思っているのか?男だと思っているのか?それぞれのオカマによって違うのか?見ている分にはいいが、身近にいるならどっちか決めてもらうほうがありがたい。「性同一障害」は間違いなく自らの性に否定的であるが、それとオカマは違う。
「性同一障害」を別にすれば、性別というのは他人が決められることではない。他人がどう言おうが、どう思われようが、自分は女だと認識しているのであれば、その人は女性である。つまり、他人が人の性別を決められる立場ではない!と言うこと。だから自分にはなぜ男が女の恰好をし、女言葉を使うのか、その理由がよく分らない。男の意識なら男の恰好をするはずだろ?
さらに、なぜこんにち男性の女装がここまで抵抗なくブレイクしているのか?「いわゆるイロモノとしての女装ネタは、一定の視聴率をとれるということで、テレビ局は女装に優しい」という分析は分るが、サラリーマンや紳士服売り場の男性店員が、女装で出勤することはないから、あくまでも趣味や憩いの場でのコスプレだろうが、趣味女装は女願望であるのは間違いない。
「女性になりたい」、「女性として見られたい」と思う人が多いようだが、「女装をして人に見てもらい、アートやエンタメとして感情を喚起してもらう活動であり、女になりたいと思ったことはないしゲイではありません。他の方とは違って僕には明確なキッカケはないし、あるとすれば、母親が中性的な感じに育って欲しいと思っていたことですね」という人もいる。
まあ、何でも分からなきゃってこともない。世の中は分らないことの方が多い。他にもっと知りたいことは多いよ。女装子(ジョソコ)というらしく、市民権を得ているとの言い方もあるが、「市民権」とは一部にしか行われなかったものが、広く認められて一般化すること。テレビにオカマや女装子が多いのは、視聴率を当て込んだイロモノ出演であって市民権とまで言えない。