そこらのおっさんの「教え」といっても、教えたがり屋おやじのうざい押し付けかも知れんし、どうってことない単なる呟きかもしれんが、おっさんにその意識さえあれば良しとしよう。若者が年長者に教えたい事もあるだろう、おばさんが若者に言いたい事もあるだろう、で、おっさんの教えというのは、「耳をほじってよ~く聞けよ」と言うのではない。
人に何かを言う時は、「お前に好き勝手なことを言うから、聞くも聞かぬも勝手にせーよ」というスタンスが一番利口だろう。道家思想にある、『われ こころみに汝の為 妄言せん 汝もまた 妄聴せよ』の言葉を直訳だが、クソ真面目な大人や道徳的な親、職業意識に徹した教師が、「うるさいと思わずに聞きなさい。お前のためを思って言ってるのだから…」
と、こんな言葉は聞くのも嫌だったが、今もそのようにいうのだろうか?であるなら止めた方がいい。欺瞞に満ちあふれたこの言葉が子どもの頃から大嫌いだった自分は、口に出すのも躊躇われる。人が自分のためを思って言ってくれる言葉って、どれほど価値があるというのか?「お前に夢を託してる」と子どもにいう親もいるが、映画の脚本のような臭い言葉だ。
何で親の夢を子どもに託さねばならないのだろう。子どもにだってやりたいこととか夢はあるだろうし、親の犠牲になることはない。老舗の跡を息子が継いでくれれば親は嬉しいだろうが、自分も継がなかったし、そういう例はいくらでもある。跡目を継いだ子どももいるし、それはそれで良い事だ。つまり、何が良いかは子どもの選択だと思っている。
何がやりたいかが子どもにない場合に、実は子どもが親から多くのプレッシャーを受けていた事実もある。子どもの人生を拘束しない欧米社会では、子どもの自由度が日本とではまるで違う。ジョブズやゲイツを生んだアメリカ社会に立ち入ってみる。世界で最もも資本主義経済が発達したアメリカでは、自分が頑張りさえすればいくらでも金持ちになるチャンスがある。
他国とは比べ物にならないくらいインセンティブ社会となっている。アメリカ人の多くは世界で通用するアイデアとやる気さえあれば、誰でもビル・ゲイツになれると信じている。ゲイツはハーバードの学生であった。レベルは段違いだが日本の東大であるが、そんな一流大学を2年で退学し、会社を起こした。ゲイツは大学を辞めるをこのように言っている。
「もう、ハーバードで知的な刺激を得られなくなった」と。プライドの高いハーバードの教授陣たちは、「あいつは大バカ者」とカンカンに怒っていたという。そうしてゲイツは世界のゲイツになった。世界一の大学を辞めたことでそうなったのだ。ゲイツはわずか20年でそれをなし得たのだ。ジョブズもゲイツも共通するのは「different(変わり者)」であること。
日本で「変わり者」は相手を中傷する言葉だが、あちらでは褒め言葉である。ようするに人と同じことをやってるようでは並なんだよ。日本は資本主義体制をとっていはいるが、みんな一同・一列の社会主義国家の要素が強い。世の中を前進させる原動力はなにはさておいても人のやる気だろう。やる気を与え、やったものには褒美を与え、さらにやる気を出させる。
間違っても褒美を釣り言葉にしないこと。そこを間違えると褒美をくれなきゃ何もしない人間になってしまう。社会主義は、貧富の差をなくしてみんなが平等になる事を目指したが、大きな失敗は人々にインセンティブを与えることができなかったこと。そのために社会の進歩が止まってしまった。貧富の差が拡大するところは、確かに資本主義の問題点であるが。
資本主義体制を変える事はできないが、政治の失敗である格差社会をどう是正するかは政治家の課題である。確かに所得格差は教育格差に広がっているが、幼稚園から高校まですべて公立で通せば500万程度で済む。私立中高一貫校から国立大に行った場合、塾代も含めて2500万という試算。2500万円が幸せか、500万が不憫か、そういう量りを自分は持たない。
自由にのびのび育ったことが親が子どもに与えた財産と思っている。先日の三女の結婚式で彼女はそのようなことを述べていた。彼女の行為をいつも反対する母親がいて(父親は不存在であったとお叱りも受けた。)その母親の指示を全く聞かないで好き勝手に生きたのが三女である。彼女は父親の目が行き届いた上の三人とはまるで別の人生を歩んだろう。
父親の目が不在だったことで得られた自由などといいながら、父親の不在を恨んでいたという二律背反の言葉が印象的だった。思春期時期に彼女を叱ったものはいない。「だから今叱ってやってるだよ」と叱られ慣れしていない三女にキツイ言葉を浴びせている。時に目に涙を溜めて反抗する彼女を見るに、もっと早い時期に叱っておけばよかったと職場放棄を悔いる。
ネットには格差社会に苦言を呈する投稿は多い。経済格差、教育格差への不平・不満のごうごう嵐である。文句だけはイッチョ前に言うのだけれど、文句を言うだけで格差が是正できるはずもない。単発投稿ではナシにコンセプトを持ってブログでも立ち上げてみるとか、社会参加の方法はあるだろう。記事のコピーで御託を並べても説得力はなんにもない。
人生経験豊富な「そこらのおっさん」にあら聞いてみるべき。と前稿に書いたが、何はともあれ"本気度"だろう。何を聞く、何をやるは万人に与えられた共通語であるが、本気で聞く、本気でやる、となるとかなり減少する。おっさんは本気が好きだ。本気で聞いてくれば本気でぶつかるし、本気でないなら何一つ答える気がしない。本気度といえばザッカーバーグの父親の代名詞。秘所って何だ?辞書には3つの意味が記されている。① 「隠し所」=物を隠す場所。陰部。秘部。 ② めったに人に見せたり、人を入れたりしないところ。「うーむ…」これは意味深な文言でござる。「めったに」がついているなら、「たんび」に見せたり入れたりするなら、もはやそこは秘所とはいえない?③ あの世。冥土。これを秘所というのは初めて知った。
知り合って間もない女に「夏休みにヒショチでヒショを見たい」と言った。「避暑地いいよね」と女。「だから避暑地でヒショを見る」、「避暑地で避暑を見る?」。意味が伝わってない。「避暑地で秘所を見る」と文字で書く。「なに、この秘所って?」、「秘所は秘所だよ。いいっていったろ?」、「避暑地で避暑かと思った。秘所っていやらしいとこ?」、「人気のあるとこ」
「なにバカなこと言ってんの!いやよ、恥ずかしい」、想定内の返答だったが、後の言葉はいかにもすれてない○女らしい。今でいう天然気質の素直な性格の女。その後で「そんなもん見てどうすんの?」と言った彼女の言葉は自分の中に永遠に残っている。「そんなもん見てどうすんの?」などの言葉は、情報化社会の昨今では小学生でも言わないのではないか?
こういう会話は男女の隔絶感を埋め、距離感を縮める効果がある。人はサプライズの後、どのように反応するかで、相手の性格が分かることがある。一番よく分ったのは道路で転んだ時、笑った女と、心配顔を見せた女。こういう時に笑う女って稀有。いい加減にいえば30人に一人くらい?女の母性本能的優しさは、こういう時に笑えるものではないと考える自分流。
人に知識はなくとも会話に人間味があればいい。知識だけが充満する昨今の若者であるが、彼らの自我は10歳にも満たないお粗末なもの。なぜ自我が未成熟なのか?家庭教育に大きな欠陥があったからだろう。自我未成熟の最大の問題点は自分のことしか考えない自己中、もう一つは自分の考えをもたない付和雷同性。主体性の強調、主体性の欠如という自我未成熟。
主体性の確立が叫ばれるなか、両極に問題を感じる昨今の若者。自己存在証明は自己主張によって証明できるが、自己否定によっても自己を証明できる。なぜなら自己否定するということは、ある事を前提としているからだ。自分を虚しくすること、自分を忘れること、それが高い自我に生きられるものだ。人がなにかで、「ああ、良かった」と思うことがある。
自己主張を通したときもそうだが、自身のワガママが抑えられ、自分が成り下がることが出来た時などの方が強く思うのではないか?つまり、人に道を譲った時のような…。すぐにあたまに来る、キレやすいと若者は言う。そのあたまに来るのを抑えたとき、キレる自分を抑えることが出来たとき、「よくぞできた」、「成長したな」などと思うことはある。
大人の喜びとは自我を抑えたときに感じるものが多い。子どもの喜びが感情の刺激のみという点に比べて大きく異なる。成長とは理性を身につけること。だから、大人になって些細なことでキレたり、感情を露にしたりする人間を「幼い」という。どんなに知識が増えても、背格好は立派になっても、周囲から賢いといわれても、「子供だな~」と評価を落とす。
「ひみつのアッコちゃん」の主人公の秘密とは、女の子の願いを何でも叶えてくれる鏡と魔法の呪文である。綾瀬はるか主演で2012年、実写版にて映画化されたが、こんなものが『宇宙戦艦ヤマト』同様、こんなものが実写版映画化されるくらいに昨今の日本映画は台本に困窮しているのだろうか。いずれも観てはないが、キムタクと綾瀬を目玉にした駄作だろう。
「秘密」といえば子ども時代、茶の間番組の代表『私の秘密』は親と一緒によく見た。名司会高橋圭三の「事実は小説より奇なりと申しまして…」の決まり文句で始まり、渡辺伸一郎、藤原あき、藤浦洸のレギュラー解答者と、週代わりゲスト解答者の4人が、珍しい体験など秘密を持った登場人物の秘密を探り出す番組で、1956年よりNHK総合で11年間続いた。
個人の「秘密」というより、特殊技能や隠された体験談などを秘密と称し、それを当てるというあの時代特有の企画で、今の時代、そんなもの誰も興味がない。そうしたことから、秘湯、秘伝、秘宝、秘技などを巡ったりの番組に変遷する。ところがそれらも頭打ちになるほどに、昨今は珍しいものがなくなってきた。秘宝と銘打っても「何が秘宝じゃ!」と視聴者。
「秘」をつければ興味を示す時代は去り、「秘」に騙されなくなった聴視者である。心霊、霊感、オカルト、超能力番組を放映することの問題点が、こういう番組を一掃する羽目となる。創世期にあってテレビは情報メディアであったが、今やネットにお株を奪われ、エンターテイメントで存在感を模索する。しばしば嘘情報で社会を混乱させた功罪もあった。
ユリ・ゲラー、清田益章、宜保愛子、織田無道、福永法源、Mr.マリックらがオカルトブームを巻き起こす。そもそもスプーンを曲げることの社会的意義はなにもないが、それが単なる奇術と分ってしまったこんにち分ったことは、「ユリさん、清田くん、あんたら役者やのう…」。まあ、奇術師というのは役者的要素がないと面白くも何でもない。
そうして遂に奇術界の革命児ともいうべくマスクマジシャンの登場によって、プリンセス天功ら多くの名だたるマジシャンが失業の憂き目にあう。1997年から1998年にかけてフォックス放送で放送された特別番組『破られたマジシャンの掟!』においてヴァル・ヴァレンチノは、謎のマジシャン「マスクマジシャン (Masked Magician) 」として登場する。
マジシャン仲間は長いマジックの歴史で守られてきた、トリックを明かさないルールを「Magician's Code (マジシャンの掟)」と呼び、共存共栄を果たしていた。ヴァル・ヴァレンチノその掟を破り、マジックのトリックを明かしていった。マスクマジシャンは、同じく1990年代後半にイギリスのITVで暴露番組に出演、その様子は2009年にITV4で繰り返された。
『破られたマジシャンの掟!』に危機感を持ったアメリカのマジック界は、1998年5月18日に非営利団体「WAM (World Alliance of Magicians)」を結成、マジックの保全にあたった。彼らはフォックス放送に抗議、4回目の放送でヴァレンチノが正体を明かす。ヴァレンチノはアメリカショービジネス界から追放され、ブラジルで活動を始めるが、すぐにブラジルからも追放された。
日本においては日本テレビ系列の『信ジラレナイ99連発』で『破られたマジシャンの掟!』の1シーンが用いられるなどして認知度を高め、2001年にはヴァレンチノ本人が来日し、日本テレビが制作したマジック暴露番組にマスクマジシャンとして出演している。彼の正体は既に本国アメリカでは明かされていたが、日本では依然謎のマジシャンのままだった。
「秘密」は隠されてこそ秘密だが、種の分ったマジックほど味気ないものはない。また、マジックは「頭のいい人ほど種が見つからない」と言う。その理由は、マジックのタネは呆れるほど単純だが、一般に頭の良い人は色々と深読みしすぎたり、複雑なことを考えるが、頭が悪い人は物事を単純に考えることで、このような定説が生まれたのだろう。
「秘密」を暴く、「タネ」を暴くのはいいが、自ら故意にそれらを語る、喋る事もないだろう。墓場までもっていってこそ浮かばれる秘密もあろうし、まして他人の秘密を知りうる第三者が秘密を他方に知らせるのは善意とは言えない。映画『うなぎ』では、隣人の密告により浮気最中の妻を刺殺した夫は、妻への憎悪を晴らせど、本質的には不幸だったのではないか。