ブログの効用は普段あまり考えないことを考え詰めるところにあるが、周辺でのあれこれを日記として書き綴る人はそれを目的とする。日々のあれこれを自らに問い詰めることはないから、自分のブログは日記形式とは異なる。ブログから判断する自分の性格は真面目で堅苦しく見えるのは問題意識を軸に書いているからで、本来の自分とはかけ離れている。
何事か問題提起をし、その答えを探すのを思考というなら、これがけっこう面白い。ふと、こんなことを考える。「人間にとって純粋な時間とは何であろうか?」。本を読んだり、物思いに耽ったり、考え事をしたり、心にあることを書き綴ったり、などの時ではないだろうか。いずれも思考をともなう時間であって、人間はやはり考えるために生まれ、生きているのかも知れない。
「趣味は何ですか?」と聞かれて、「思考です」と真面目に答えた時期もあった。好きなことを誠実に答えたつもりだが、いわれた相手も困って反応が難しいようなので、こういう答えはよくないと改めた。真実をいえばいいというものでもなさそうだ。いろいろ考えていると感動が生まれることがある。自分という人間はこんなことを考えていたのかという感動もある。
考えるというのは、それくらい自分を客観的にみているのだろう。他人やあることに感動するのと違い、「お前はそんな風に考えていたのか」という自分自身の発見と共感も含めた自身への感動である。人間理解もあれば、批判もあり、それらを含む、己の心の中の真実に触れる感動である。10代、20代の若き頃の自分については、その無知さや至らなさもあってか批判ばかり。
自身の過去を羞恥で情けないと思えるのは、それだけ成長してるということだろう。成長に気づくのはそうしたこと以外にはなかなか分からぬもの、あれほどバカでよく生きていられたと思うところもある。周囲の皆が若く同じ程度のバカレベルだったということで救われている。まさに同じ穴のムジナどもといえよう。昨今周囲はお年寄りばかり、自分もそうだから当然か。
しかし…といっては何だが、何も成長していないような人たちも目に付く。おそらく彼らは成長の機会を逃したのだろう。自分とて未完成であるが、未完成の自分がみても、「こんなんでいいのか?」という人もいる。人はみな同じように無力で生まれるが、同じように育ち、同じように老いるのではないということ。成長する時期には成長しないとダメだと実感させられる。
将棋仲間という人間関係がメインで、その中の一人Kさんは昭和21年生まれの73歳になるが、ずっと独身を通しているという。誰もがあくせく嫁探し、婿探しをした時代であるから珍しい部類であり、Kさんはずっと一人でいた理由をこんな風に述べていた。「わしゃあ、1歳の時に観音で被爆してそれで結婚したらイカンのじゃないんかと思うとった。奇形が生まれるいわれて…」
もっともな理由のようでもあるが、爆心地から観音の重工(三菱)社宅までの距離は直線でも5km以上あって被爆線量は微々たるもの。多くの人が問題なく婚姻し子どもも普通に設けている。Kさんは周囲にそう語っているが説得力はないが話を聞けば誰もが耳を傾けるし、「3km、1kmで被爆して普通に結婚した人は多い」などとはいわないのがマナーというものだ。
Kさんが一人案じて結婚を避けたのかも知れないし、無用な詮索はすべきでない。我々の世代は結婚が当たり前であったことから、独身男には辛辣な言葉を浴びせた。「アッチの具合が悪いんじゃないんか?」などは平気でいった。女性には、「行きそびれ」という心ないことをいう。それらが特段悪口というではなく、離婚者の、「出戻り」同様、普通に市民権を得た言葉であった。
時代が進み、よい社会を構築するために多くの差別用語が撤廃されたが、過渡期には混乱もあった。「こんな言葉が何でダメ?」というのも多かった。「めくら」、「つんぼ」、「おし」、「びっこ」などは、「目の不自由な人」、「耳の不自由な人」、「聾唖者」、「手足の不自由な人」に代わった。他にも、「土方」、「百姓」、「土人」、「ぽっぽ屋」、「パーマ屋」、「ポリ公」、「気違い」などがある。
天気予報の常套句だった、「表日本」、「裏日本」も、「太平洋側」、「日本海側」と改められた事で、「そこまでする?」と感じた記憶がある。「めくら・おし・ちんば」が撤廃されたことで、落語協会からは、「これでは古典落語ができない」といった苦情もあったというが、「おい、めくらのはっつぁん…」というところ、「おい、目の不自由なはっつぁん…」では落語にならない。
2018年版「生涯未婚率」が過去最高というデータがでた。離婚率とか未婚率とかのデータを見るたびに時代は変わりつつあるのを実感する。そりゃ変わるだろうよ、時代なんてのは。平安時代も江戸時代も明治・大正・昭和時代もあったわけで、それぞれが違っていた。思えば、「昭和も遠くなりにけり」、昭和天皇もお亡くなりになったし、平成天皇もそう遠くない。
様々な視点・観点から一つの話題について熟考すれば、書けども書けども尽きないのは当然かも知れない。それだけ自分の視野も広がろうし、己の視点・観点の度量を試すことにもなる。自分はKさんに、「まあ、結婚は勢いだから」といってみたが、真面目なKさんは、「そうはいっても無責任なことはできん」と踵を返すので、この話はもうすべきでないと感じた。
“結婚は勢い”という面はある。二晩、三晩、半年考えて決断できないなら、突撃精神が必要となる。ただ、「この人と結婚する女性はいないだろうな」と思わせるようなタイプもいるにはいる。しかし、半世紀前の時代では、どんな男、どんな女であっても、周辺の人達は一緒にさせる努力をした。見合い写真に駄々をこねる娘には、「ききまをいうもんじゃない」と叱りつけた。