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独身を貫く覚悟 ⑦

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恋愛は結婚の目的ではないが結婚の予備段階として重要だ。こんな一文が頭の隅に残っている。「恋愛とはその人と結婚したいと願う心」。いろんな考えはあろうが、結婚目的のために恋愛というのは馴染めないし賛同しかねる。なぜなら既婚者とて恋愛はする。恋愛相手に結婚を望む気持ちが沸くことはあれ、恋愛の度に相手と結婚を願うなるなどあり得ない。

「恋愛を成就させる」というのは一体どういうことなのか?恋愛の成就が結婚という見方もあるが、「恋愛の成就」について考えてみたところ、意中の相手と相思相愛(いわゆる両想い)になることと結論した。そのようになればどちらともなく結婚を望み、結婚に向かうのは自然なこと。したがって、恋愛の目的は結婚というより、結婚は恋愛の過程によって生じるものと考える。

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結婚の予備段階としての恋愛を否定しないが、結婚の意志に背いて恋愛が進行することもある。にも拘わらず一方的かつ強引に、恋愛を結婚の予備段階扱いされても困ろうし、そういう体験は幾度かあった。付き合ってまだ数日しか経ってないのにいきなり、「北海道の両親に会ってくれない?」といわれたりと、若き自分はどうにも返答のしようがなかった。

気の利いた断り文句も浮かばず、彼女からそそくさ逃げるしかなかった。23歳頃だったと記憶する。恋愛中の相手女性から、「結婚してほしい」といわれて断ると、「遊びだったのね」と女がいう。これは映画やドラマでのお決まりのシーンだが、「遊びだったのね」はどうなのか?いわれた経験はないが、被害者ぶった女が男に加害意識を与えるものではないかと。

こんにち男女同権時代にこんなのは流行らない。最初から結婚相手を目論むからで、「恋愛は結婚目的ではない」と毅然とすればいい。結婚に相応しい相手かどうかの視点で眺めることはあれ、結婚目的ではなく、自分のメガネに適う相手かどうかを見ている。いろいろな結婚動機があるのを体験として聞いたが、緻密な思考でもなく流れで結婚というのも以外に多い。

以下のメールはある女性の結婚に至った状況だ。「結婚は勢いの部分もあります。主人に『お付き合いしてください』と言われたとき、好きでもなんでもなかったのですが「はい」と返事しました。数か月後にはもう結婚式の日取りまで決まっていました。あのときのことはあっという間すぎてよく覚えていません。」この話は何らオカシいと思わなかったが、覚えてないという疾風さがすごい。

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結婚10年になる夫婦で現在幸せかどうか聞いてはないが、特に問題はなさそう。どういう出会い、どういう相手、どういう経緯、どういう挙式をしたかなどは、幸せを得るための条件でも何でもない一例である。が、幸せになる諸条件を自身がかたくなに決めている人がいる。そうでなければ自分に幸せはもたらされないと確信するのを他人がとやかくいう必要はない。

「幸せ」は欲のない人に降りてくるというが、欲もなく小さな幸せに満足するからだ。小さな夢も夢であるように、素朴な幸せも幸せである。高いレベルの幸せを望み求める間にどんどん遠ざかるのが幸せであろう。何億のお金をもっていても人が使えるお金は限られている。使い切れないお金を銀行に預けて幸せと思う人もいるが、自分とは無縁で興味もない。

「結婚したいならすればいいじゃないか、男は腐るほどいる」といった相手は多かった。今に思えば無責任な言葉と反省する。「誰とでも結婚できるわけじゃないし…」と、確かにそういうものかも知れぬが、本人の要求があまりに高望みであるのに気づかぬ者がいる。それに対する忠告の意味もあるにはあったが、何をいっても分からぬ相手にいうべきではなかった。

「私の勝手でしょ?放っておいてよ」といわれるまでもなく、他人のことには関与せず、放っておくのが賢明だ。心配することすら余計なことだと今なら思うが、当時の自分には結婚が当たり前という観念があったのだろう。他人が右に行こうが左に行こうが、上に登ろうが下ろうが、人の人生の関わらないのがマナーと思うようになった。人の人生の責任など誰も取れない。

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子どもに対する親にもいえること。親は自分の価値基準に合致した子どもに満足するが、「あなたがそれをしたいなら応援する」という姿勢こそが親のピュアな愛情と考える。思い起こすは、「親子になったことから悲劇がはじまる」という『侏儒の言葉』の一節か。高い学力、秀でた能力の子どもを愛するではなく、あるがままの子を慈しむのが根源的な愛ではないか。

こうしたピュアな愛情を子どもに捧げられるか?この一点だけとっても親をやるのは難しいこと。秀才の姉とバカな妹のどちらにも対等な愛情を注げるのかは親の試練とみる。親子に悲劇があるとするなら、その一切の原因は親にあると自分は考える。親になることの楽しみはあろうし、生涯独身者はそれを知らない。同様に親であるがゆえの苦悩を独身者は知ることはない。

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