この歳まで生きれば人間関係について分かることもある。人は他人しか見えないが、実は問題の多くは周囲や他人でなく自分にある。自分にとってのマイナス点や、いい難い事を素直にいえるかどうか。いい難いことの多くは恥に関わることで、大して恥でないことを恥と思いこむ場合が多い。自慢するのも止めた方がいい。自慢は恥を隠すことになるから、自慢を止めれば恥も薄らぐ。
批判についても、他人の評価を求めるから批判に敏感となる。他人の評価を望まなければ批判も苦にならない。他人を気にせず自己評価や、自己批判も含めた判断基準を持てばよい。「人は人、自分は自分」を志向すれば、他人の言葉に一喜一憂しなくなる。確かに他人から評価は嬉しいものだが、自信をつけることで批判に動じない自分を作る。これらは自分が実践したことだ。
御都合主義の生き方を改めるには、人為を排し自然感覚を育むのがいい。人間は弱いがゆえに都合のいいことを正しいと思い込むが、自分にとって都合の悪いことに向き合うことで、客観性が身につくのも経験則だ。さすれば他人の自分への批判の前に自身の短所を把握しており腹も立たない。先手で対処しておけば、想定済のことに驚くこともない。先回りして理解しておくのは大事である。
褒められて喜ばないと、「素直じゃないね」という人間がいるが、貶されたら怒れといってることでは?人の軌道の上を走ることもなかろう。褒めれば喜ぶだろうは若い女性へのオヤジの見え見えの下心で、利口な女性は「どうも」といってあしらうだけだ。あしらわれていることにすら気づかぬ下種なオヤジは、相手を喜ばせたといい気になるが、見え透いた世辞は陰口よりたちが悪い。
おだてられて木に登るのはブタもいるにはいるが、こうした光景にはしばしば出くわす。褒めて反応しない女性に、「人が褒めてるんだから喜べよ」とまでいうオヤジも何度か見た。女性のたしなみを教えてやった」といっていたが、バカかこいつと自分は感じた。素直に喜べば「お世辞に喜ぶバカ女」となる。こういう始末におけないような底の浅い人間への対処法として社交辞令がある。
「人のふりみて我がふりなおせ」というが、「人のバカみて我がバカなおせ」と聞こえる。バカを反面教師にするなら、沢山見ておくのがいい。他人の良いところを真似るより、反面教師には即効性がある。シビアに見れば見るほど人間関係というのは、自己向上も含めて学習になる。算数や物理を学習するよりはるかに現実的で深遠で、しかるに滑稽であり、人間関係は眺めていても面白い。
人間関係とは人間同士の関係をいうが、人間と神との関係を信仰という。自分の理解する「信仰」とはそういうもので、それ以外の実践的な信仰について経験がないし分からない。経験がないということは信仰が何であるかを知らないことになる。憲法で保障された、「信教の自由」であるが、信仰そのものに自由はなかろう。「自由とは信じるものはなにもない」ことだというのは間違い。
人は何かを信じないで生きてはいけないから、厳密にいえば人間に自由はない。自分は五賢人の多くの言葉を信じ、範としつつ頼って生きてきたが、聖人を信じるのも賢人を信じるのも範とする以上は同じというが、自分にすれば大違い。なぜなら、五賢人は何事も命じないし、「自分に従えよ!」などといわない。ところが一神教の多くは、「我に従え」と命じる。なぜにそんなことをいう?
考えるまでもない理由は簡単明白だ。「我は絶対者であり、絶対に正しいからである」。これが宗教の最も危険なところだと思っている。あの麻原彰晃でさえ、「我に従えよ」であった。宗教は自由であるべきか、あるべきでないか、そこらは分からない。カトリックにあまりに自由さがないから他の宗派が生まれたように、宗教が唯一絶対として他を排斥するものでなければならない。
これは宗教に限らずとも、政党であれ思想であれ、自分の信じたところに執するのは、信じる者の定めとして仕方のないことだろう。そうすることで人間は自身の精神を束縛し、どんどん不自由になっていく。不自由と思うか不自由と思わぬか、それを信仰への帰依というが、信仰の是非は信仰者にしか分からぬもの。宗教もしかりだが、信仰とは程遠いりのノンポリ宗教信者もいる。
ゆえに信仰者と一口にいってみてもピンキリを感じるが、信仰者にとって絶対にないものは、「自分の立場」であり、「自分独自の信仰」であろう。自分を棄てる点に於いて独自の私有観念があってはダメだろうし、信仰者というのは本当に私有観念を捨てられるのか?という素朴な疑問を抱く。私有財産を捨てられないように、私有観念も捨てられないと思うが、信仰経験がないから想像である。
もっとも私有財産の一切を捨てて(教団に寄付して)信仰に入る人がいる。信じがたいが、「信仰とはそういうもの」だと言い含められたと感じる。言い含められたとはいっても行った以上、信仰とはそういうものだと本人は納得した。「言い含められた」は被害者もどきに聞こえるが、本人が納得しようと親・親族にすれば異常となり、多額な財産の教団への寄付は社会問題になった。