自分のためなら他人の膿(うみ)まで吸うのが人間という。なにごとも人のためと思ってやると腹の立つこともでてくる。相手を責める気持ちや、恨む気持ちにおそわれることで人間関係もギクシャクする。他人に親切を施す場合も親切と思わないのがいい。相手への思い入れから、それをしたくて仕方がないという気持ちになるのがいい。それらのことを獲得するよう努めた。
八分、九分くらいはできるようになったが、そうした「真心」を行う場合には誤解も生まれるし、真正でなきことはしたくなくなる。無理をして行おうとすると自己欺瞞に陥ることにもなる。人間の行為すべてが真心で行うことばかりでないし、真心でないことをどう行為するかとなるが、義務感しかり、社交辞令しかり、それらも実は人間関係で大事なことになる。
気が進まないがやらねばならぬことはいくらでもある。それをしないとワガママ、自分勝手と名指しされる。「そうではない、信念だ!」といったところで他人はそうは受け取らない。そのような場合における自分なり対処というのは、取り立てどうということのない浅い人間関係なら社交辞令で行えばよい。仕事がビジネスとして割り切れるのはそういうことでもある。
報酬という代償を得る対価として、したくないこともやる。とあるビジネスセミナーで以下の指摘があった。「仕事(職場)が楽しいところなら、コンサートや演劇観覧のように入場料を出していくべき。そうではないから、その代償として我慢料(お給料)を貰っている以上、ブツブツ文句を言いながらの仕事はすべきでない」。なるほど、これも自己啓発法の一つである。
人間関係も割り切れば、社交辞令や義務であれ苦にならない。人間関係の深浅を考慮すれば真心ばかりで接することもなかろう。したくないことを遠慮なくしないでいれる相手を、「深の関係」、したくないことを表向きでやれる相手を、「浅の関係」と区別する。深には素直、正直、真心で接することができ、浅にはその場のでき心で対処する。誰もがやっていることだろう。
今回母親の葬儀に出なかったのは、母は「深」であったからである。絶縁して家を飛び出し数十年になるが、氷塊することなくその状況を貫いた。それはそれで母と自分の想い出となる。理念も信念もないままにくっついたり離れたり、「昨日の敵は今日の友」的な節操のなさを日本人気質とされるのは、狭い世界の中では狭い心をもって生きて行かねばならぬ状況による。
他人の葬儀なら義務や社交辞令で出席できるが、自らの心に忠実に従えるのは「深の人間関係」である。「死ねば確執はごあさんすればよい」という者は多い。「ごあさん」は「御破算」と書く。今までの行きがかりを一切捨てて、元の何もない状態に戻すの意味。それがいいならすればよいが、「善い」と「正しい」は別であって、自らの正直を貫くのもあり。
母の葬儀に出ないことで母との「真正」を保った。誰にも説明する必要もなく、しても理解はされない。本当のものを大切にするのはそれなりに尊い。「頑固」とは言葉を変えると「信念」であり、信念であるかどうかはそれを貫くことで実証できる。後から発生するもので事前にいう言葉ではなう。「自分には信念がある」ではなく、「信念があった」が正しい。
「雪解け」や「氷塊」を大事とする考えに反駁すれば誤解を招くが、誤解とは他人の誤った判断であることを理解すればいい。誤解といえばジャンヌ・ダルクであろう。彼女は世界で最も有名な聖女とされるが生前は魔女とされた。「ジャンヌのような魔女なら喜んで火にかけてやる」といわしめた兵士たちの多くが、真の聖女を殺してしまったことを深く悔やんだ。
悲劇的な結末であったが、わずか二年間の行動でフランスを救った彼女の名は人類史に刻まれ、ローマ・カトリック教会で崇敬されているもっとも有名な聖人の一人となった。他人の口に戸板を建てるのは難しい。他人の心の鍵を開けるのも難しい。人間関係のほとんどは誤解であろう。誤解を解く努力はすべきであるが、真正に生きる気持ちさえあれば誤解を怖れる事はない。
どれだけ多くの恋人たちが誤解で別離となったか。理解力も洞察力も人の能力。ない人にはないのだからないものねだりをしても仕方がない。理解を強制することをせず、相手が主体的に誤解を晴らすことを待ち侘びるのを善とするのが自分の美学である。過去に誤解を晴らさんと努めたことは幾度もあったが、「それって言い訳でしょう?」と、とりつくしまがなかった。
誠実に誤解を晴らそうと思った矢先のそんな言葉。人間は自分の能力以上を考えることはできない。何をいってもダメな人間はいて母はその最たる人だった。そのことで子ども心に「心」を閉じた自分。人間関係に何より重要なのは、「聞く耳」である。「嬰児は知にあらざるなり、父母を持ちて学ぶものなり」と、この韓非子の言葉は経験的からして至言である。
子どもを騙すことは子どもに嘘を教えること。子どもに嘘をつき続けると子どもの心は離反する。信頼できる相手から騙された心の傷は深く、一度失った信頼が回復することはない。「人の悪口いうべからず」は儒教の教えだが、人の悪事を告げるのはその悪事を憎む点において大事である。「罪を憎んで人を憎まず」は賢者の知恵だが、「味噌も糞も一緒」の愚者。
人に直言するときも焦るべからず。人の能力は千差万別だからで、相手の能力をしかと確かめていうべきである。さもなくば「馬の耳に念仏」となりかねない。いったから通じた、伝わったではない。この辺が人間関係の難しいところ、面白いところでもある。人は人のいうことをなかなか聞いてはくれないもの。そこではむしろ伝える側の能力が試されることになろう。