親と子、兄弟姉妹、叔父と甥、いとこ同士、友人・知人、上司と部下、同僚同士…、すべて人間関係であり、それぞれにそれなりの人間関係がある。今回、見知らぬいとこと屈託のない人間関係を持てた。存在を知るだけで一度も会話をしたことのない親族でも、話すことで分かり合える。いとことは叔父貴の娘である。どこかで何かのついでに顔だけは見たが10代のころの彼女だった。
血縁というのは意識しないと感じないが、意識して感じたとしても意識だけのもので、血縁以外の人と表面的に変わらない。いとこであれば、親からの何がしかの影響を受け、その想い出なり感謝なりがいとこ関係に連鎖するのを今回感じた。敬愛する叔父貴であればこそ、その気持ちはいとこに向かう。叔父貴から受けた恩の数々をいとこに奉仕の気持ちにおそわれる。
「時代は変わる」と歌ったボブ・ディラン、「時代はめぐる」と歌った中島みゆき。どちらの詞にも書かれてないが、なぜに時代は変わり時代はめぐるのか?時代を作り、時代を支え、時代を信じた人間が死ぬからでは?人間の組織も古い細胞が死滅し、新しい細胞に生まれ変わるのを新陳代謝というが、時代も新陳代謝の流れの中で死滅し、新たなものが生まれてゆく。
人は生まれる国や場所や親さえ選べないが、どこに生まれてこようとその生は幸せと理解すべきだろう。寿命を全うでき、そのうえに富貴であるを福というなら、福とは禍があることでもたらされるとの考えも可能。様々な禍があるが、死こそ究極のそれである。だから、人の生は幸せであるのがいい。早死にするお金持ちより、貧乏でも長生きを人は選ぶはずだ。
人の生育環境についての結論は、田舎人と都会人は違うことにもある。それらが人間関係や交際の差となってあらわれる。さらには日本と外国の文化の差も日本人と外国人の習慣の違いとなる。同じ人間であっても中身はまるで違った人間だからややこしい。1500年代に渡来したポルトガルのカトリック司祭で、宣教師のルイス・フロイスは、織田信長や豊臣秀吉らと会見した人物。
彼は戦国時代研究の貴重な資料となる『フロイス日本史』を著した。鎖国時代に歴代オランダ商館長による『オランダ商館長日記』、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』は1946年に出版された。ソ連邦の機関紙『プラウダ』の記者だったフセワロード・オフチンニコフは、1962年から68年までの7年間、日本各地を所在し『一枝の桜 日本人とは何か』を著した。
日本人による日本人論として浮かぶのは、加藤周一『日本人とは何か』、会田雄次『日本人の生き方』、山本七平『日本人の人生観』などがある。日本人の日本的な自己とは、西洋的アイデンティティという自己決定的な自己でも、ベネディクトのいう共同社会の外圧に従って決定される自己でもない。環境の変化に応じて自己を限定し、そのつど自己を作るという自己の在り方である。
山本七平は学者でないが、「日本とは何か」、「日本人とは何か」に生涯格闘した。彼はその傑作書『空気の研究』のなかで、「天皇制は空気の支配」と明言するも、天皇制否定論者ではなかった。「天皇制は消えてなくなるべきもの」と批判した元朝日新聞記者の本多勝一に対しても、「あなたのような考えが日本的ナチズムというべき超国家主義を生み出す」と指弾したこともある。
動物のなかで唯一言葉を持つ人間にとって「秩序」とは、「言葉による秩序」であろう。もし人間から言葉を奪ったなら、動物的攻撃性に基づく暴力秩序となるだろう。喜怒哀楽を言葉で表現するから人間は救われており、それでも暴力に打って出るがもし人間に言葉がなかったなら、あらゆる動物に先んじて人間は滅亡するのではないか。「はじめに言葉があった」ろは聖書の冒頭文。
「言葉は神とともにあった。言葉は神であった」と続くが、人間は時々の都合で神を利用したり神を不要としたりで、日本国天皇もかつては「現人神」であった。権威というものは利用される存在である。利用して最大のものが権威であろう。だから自分は権威、権威主義には反吐がでる。自らの正義、自らの善を疑うことを知らない偽善的なパリサイ人など世界中に散らばっている。
物心ついたころには少数派を自認、行動した自分だが、少数派ゆえの苦悩は少ながらずあった。「多勢に無勢」、「力は数」、民主主義はヒトラーを生み出すパワーを持つ。数は力、集団の力に抗うためには強さを持てばいい。それが「孤立」である。孤立に力はないが強さがある。それを示したのが聖徳太子。日本がアジアのリーダーとなれなかったのは、中韓に臣従した忌まわしい過去がある。
かつて日本人は「孤立」を怖れたが、これを「愚」といわずなんといおう。こんにち、中韓にバカにされまくった様は、愚かな先人政治家がもたらせたものだといっていい。早い時期に聖徳太子のような人物がいればと嘆きたい。日本人は孤立を宿命的なものと合点することで、孤立を怖れなくなる、これが太子の手法だった。「孤立は強い自立である」と、太子の事跡は日本国民の能力として可能と教えている。
「他人より自分との付き合いを大切にする」のが孤立を怖れぬことと理解した。人と上手く付き合うためには刺々しいものがないのがいい。刺々しさを自身にもっては他人と上手く付き合える筈がなかろう、だから身ぎれいにしておきたい。身ぎれいとは嘘の排除も含んでいる。率直に素直に正直に、それだけで十分身ぎれいである。これは自分だけの経験だろうか?
心のなかに平和をもつことが重要なのを分からぬ者多し。世の中には男女関係やらの交際本が多く出回っている。読んだこともないが、付き合いについてごく当たり前の分かり切ったことが書かれているのか?「交際術」などと、テクニックばかりを奨励しているようだが、術よりなにより、「自然」にもとるものはなかろう。相手を知るのは大事だが先ずは己を知ることだ。