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一期一会を叔父貴と…

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明日をも知れぬ運命にある戦国時代武将達。彼らは茶道で一期一会を体感しながら日夜武道の稽古に励んでいた事だろう。そんな、「一期一会」の語源を知った時に少しばかりの感慨があったのを記憶している。現代においても、「人と人との出会いは一度限りの大切なもの」という意味で使われたり、「生涯に一回しかないと考えて専念する」という意味で使われたりするようだ。

茶の湯といえば千利休だが、その弟子山上宗二(やまのうえそうじ)の本に、「これから幾たびも茶会を開く機会があっても、この茶会と全く同じ茶会を二度と開くことはできない。だから、茶会は常に人生で一度きりのものと心得て、相手に対して精一杯の誠意を尽くさなければならない」とある。母の逝去は4日の記事に書いたが、9日には叔父貴が同窓会で来広することになっていた。

同窓会は夕方には終り、本来なら有志数人で二次会へとなだれ込む手筈だろうが、83歳の高齢ともなればそうもいかない。終了後そのままホテルに戻って部屋で休んでいた叔父貴に会いに行く。前回会ったのは京都の叔母の葬儀だったと記憶するが、その年月も曖昧で、15年くらい前だったかも知れない。前日、叔父貴の次女より連絡があり、一人では不安なのでエスコートをするとの申し出だった。

叔父貴は大阪市在、次女は東京在だが、何とも父親思いの彼女である。元気な頃の叔父貴しか知らぬ故か、エスコートは意外だった。久々の再会を楽しみに宿泊先のホテルに行き、現れた叔父貴を見たときにさすがに80歳の年齢を感じさせられ、次女の要エスコートには納得できた。叔父貴と自分の年齢差は変わりようがないなら、叔父貴と同じ年齢を自分は加算されていることになる。

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人はみな自分のことは棚にあげ、なぜか他人の加齢に驚くようである。当たり前とはいえ、誰もが“老い”を生きなければならぬ宿命にある。だとすれば、叡智から老耄への幅広いスペクトルのなかで、豊かなる生をどう生きるかが現代人の課題となっている。人が老いや加齢に抱くイメージはネガティブなものが多いが、老人自身が老齢に対して抱くイメージもネガティブであるのが問題か。

名匠ルキノ・ヴィスコンティの『』は、トーマス・マンの原作を映画化したもので、老人が若者のなかに自らを見出そうとするという観点に加え、同性愛という視点を含んではいるが、老いを描いた秀作である。この作品がマーラーの交響曲第五番第四楽章「アダージェット」を一躍有名にした。ヴィスコンティは生涯独身を貫き、バイセクシュアルであるをオープンにしている。

叔父貴は姉(自分の母)を慕っていたようだ。母も7歳下の叔父貴を可愛がっていたことも話の中で耳にする。叔父貴は母を見舞うつもりでいたが、5日前に他界したのを知らせていなかった。折角の同窓会が湿っぽくなってもいけないとの自分の判断である。二次会がないこともあって、その日に叔父貴は母を見舞いを兼ねて介護施設に行きたかっていたが、翌日にということで何とか制止した。

翌日、宿泊先ホテルに叔父貴を迎えに行き、二人を自宅に案内すると、「どうしてここに?自宅にいるのか?」と怪訝な面持ちで聴かれた。「とりあえず中に入って下さい」と押し込み、仏壇の部屋に叔父貴を通す時の言葉にいい現わせない心情。母の遺影を前にし、叔父貴の心は想像するしかない。「申し訳ない」、「すみません」、「許してください」と、叔父貴への謝罪が言葉にならない。


叔父貴は姉の小さな骨壺を抱きしめ、別れを告げていた。人は死を前にすると脆弱になる。死を前にした時の人間の不完全さや弱さを隠すことなどできない。人が死を受け入れるのは他人の死であり、自分の死を現象として見ることも受け入れることも不可能である。人間にとっての死とはすべて他人の死である。他人の死を前に遠い先に訪れるであろう自身のくるべき死を見つめることになる。

老人の多くは己の老いを知らない。このことは理解に及ぶ。こんな言葉もある。「老人たることを知るものは稀である」。自分のこと以外なら何でも知ってるかのような賢者や知識人でさえも、当の自身の老いを知らないでいる。人が老いて死ぬのはある意味幸福で、若くして死ぬ人の悔いは計りしれない。その後、叔父貴と想い出の場を回った後、見送る駅の構内で互いが身体を寄せ合う。

自分は叔父貴の耳元でこういった。「これが今生の別れになるかも知れません」。意外だったのだろう叔父貴は少し間をおきこう風に返した。「そんな言葉はいうもんじゃない」。「今生の別れ」、こんな言葉に釈然としないのは当然だが、心の中の一期一会を自分は言葉にした。この出会いが最後になろうとも悔いが残らぬようにと、全身全霊を込め、力を込めて叔父貴と過ごした自負。

この世のすべては、「一寸先は闇」。元気な人の急死は珍しくない。だからこそ人と会うときには一期一会の気持ちこそが大切だろう。二度と会えない、そんな気持ちが尊いがゆえに再びの出会いが喜びとなる。叔父貴の誤解は分かったが、自身の心底にあるべきものをあえて説明しないでいた。自分はしばしば誤解されるが、誤解を怖れることなく自らの気持ちに正直に生きるを善とする。

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人は人に理解されることが大事でそれがすべて。という考えは大切で理解できる。いかに自分に忠実であっても、他人に理解されなければ身も蓋もない。しかし、他人との付き合いよりも自分自身との付き合いがはるかに大切。人間の中には様々な自分が存在するが、いくつもの自分はみんな同じ性質とは限らない。だからその中のどの自分を選んで付き合うかは大事である。

悪の自分と付き合うか善の自分と付き合うかはまちまちの選択だろう。が、大事な人と付き合う時は自分の中の最善なる自分と付き合う。「こんな歳になりましたが、叔父貴の前では子どもの時のままの自分」と伝えたように、自分の中のその部分を引き出す。子どもは素直だから大人に誤解されるを怖れないが、叔父貴の前でそうありたい心情は幼少期の甘えの名残だろう。

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