われわれの精神を鍛えようと思うなら、常に語り難いものに直面していくことではないか。語り難きをあえて語ろうと努力を重ねることで強くなる。極度に人間を怖れる人間は、甚だしき自己妄想に陥ったりもする。自分を非難する人間に内心びくびくしている人間を滑稽と感じるが、本人にとっては笑いごとどころではなさそうだ。人は愛すべきもの、怖れるのは理解しがたい。
人を怖がる理由もない、あげつおうなどと考えたこともないが、それでも自分は他人からみて怖い人間となるのか?それほど人を怖れるなど、バカげたことと思うが、どう考えても臆病で小心さが災いしている。臆病者は人を怖れると同時に自分さえも怖れている。自身の孤独であるのと孤立するのを怖れている。そんなでは生きていけない。治す努力をすべきだろう。
相手を怖れるなどの臆病気質は、自己過保護から派生するが、改善努力を怠るなら仕方なかろう。生活を共にしようとする相手を怖れていい事などない。言葉づかいや、身なりや、生活態度に嫌味のないことを教養というなら、ムダ話ができるというのも大事な能力と考える。ムダ話がムダ話として意味をもつのは、それが用談や重要な会話のところどころに挟まれるからだ。
汚い言葉や暴言は罪深いが、ムダ話に罪はない。言葉はその人の心の入り口であり、精神の脈拍である。病的なまでに精神が衰弱した人は言葉も狂ってこようし、精神を病むというのは自身の内的自由のなさではないだろうか。人間関係に会話は重要だが、上手い話し方とは、いろんなことをいろんな風に考えられる能力であるから、最初から最後までムダ話というのとは違う。
「相手の立場に立って考えなければならない」。人は誰でもこういう。我々もそのようにしたりもするが、相手の立場に立って考えるということは、必ずしも相手の立場、相手の気持ちを充分理解していることと同じではない。または相手の気持ちを理解していなくても、相手の立場に立って考えることが出来る。このように考えてみるのも必要であり大事なことだが難しい。
なぜなら我々は相手の立場に立って考えることは、相手の気持ちを理解してると勝手に思い込んでいることもある。相手の気持ちを理解するのはそんなに生易しいことじゃないのよ。では、本当に相手の気持ちを理解するとはどうすればいいのか?これは相手の気持ちを真剣に聞くしかない。しかも相手が本心を述べるような雰囲気づくりがなされていなければならない。
これをして初めて相手の気持ちを理解し、その上にたって相手本位に考えることこそ、相手の立場に立つことになるのでは?「相手の立場に立って考えろ」と上司や目上の人にいわれながら、相手の気持ちをどのように理解していいのかを誰も教えてくれない。仕方なしに自分なりに相手の気持ちになったつもりで考えるしかないが、躊躇いなく上手くやれる人がいる。
それを能力といっていいだろう。だから、できる人とできない人がいる。自分は相手の気持ちに立って考えるのが少年時代から好きで、おそらくは人間そのものへの好奇心が強かったこともある。人はいつ、なんどき、どんなことを考えているのか、隣で一緒に散歩する彼女は何を考えているのか、あいつは、こいつは、彼は、彼女は…、そんなことを考えるのが楽しかった。
だから、知らず知らずのうちに訓練となっていったのかも知れない。人の気持ちは分からないもの、だからその人の気持ちになって考えるしかない。それがもっとも人の気持ちを理解する方法である。無意識に習得する能力の陰には無意識の訓練がある。だから、人の気持ちを理解する方法は、一にも二にも訓練だろう。「あなたはわたしの気持ちがどうしてわかるの?」
しばしばいわれた。理解した自信はないが、「どうしてわかるの?」といわれて、「本当に分かっているのか?」と自問するも、半信半疑でしかない。が、相手がそのようにいうなら分かっていることになるのか?と納得する。不確かで確かなものなどない人間関係の基本とは、“相手の価値観を理解する”ことだが、幅広い価値観を持っていれば無理に合わすこともなくなる。
例えば他人に親切にする。相手から感謝される。そのことですら、どう感謝されているのか、相手の気持ちはどういうものかを知るすべはない。が、感謝されているくらいは分かろう。同じように、自分が相手から親切を受けた場合、自分が相手にどのように、どの程度の感謝を感じているかは分かる。そうした自身の体験から、人は相手に対する想像力を磨いていく。
他人の心の中を覗くことなどできない。だから、わかったふりをして付き合うことになるが、人間関係には社交辞令や、本心を偽る気持ちや、世辞の類などが混じり込むから本当を感じ取るのは至難である。真の関係を願うなら、少なくとも自身の表裏を無くすこと。誤解を怖れ、誤解なきよう己を偽り修飾するより、自らに正直であればいつしか相手の理解を得られよう。