他人は自分とは全く別の存在であることを認識し、肯定もし、その上で相手を知ろうとするのが正常な人間関係と思う。相手を知ろうとしないことには何も知ることができない。初めから自分の気に入った相手、自分に似た相手や自分の心に合致する相手をわれわれは求めたがる。それは分からなくもないが、人と人との交わりの基本は異なる個性のぶつかり合いだろう。
その認識がないと人づきあいが苦手となり、気づかぬ間に人付き合いが不得手と感じるようになり、ネガティブな人間になっている。他人との付き合いも大事だが、より自分との付き合いが大切なのかも知れない。一度くらいはそういうことを考えてみるのがいいのだろう。「自分に忠実であるべきか、他人に忠実であるべきか」ということは人間にとって重要かも知れない。
そんなことを考えるのが好きだったことでいろいろな問題意識を授かった。何より先ずは問題意識を持つことで、それに対する答えなり方策なりを少しづつ考えていけばいいし、しかもその答えは年齢を重ねるごとによって変わってもくる。例えば、「自分の気持ちに忠実であるべき」などと声を大にしていわれるが、見方を変えるとワガママということにもなる。
自分の感情や考えを尊重し、相手を尊重しないというこなら人から好かれることはないだろう。反対に、「他人に忠実になる」という生き方は、主体性がまるっきりなく他人に害はないので嫌われないからと、こういう生き方を好む者がいる。一般的に人間は他人を偽る動物で、他人を偽ることは自分を偽ることであって、人間が生きて行くための知恵でもある。
「自分を偽る」といえば聞こえは悪いが、自分を偽ってまで他人と上手くやるというのはそんなに悪いことか?多かれ無意識でそんな風にしている筈だ。「何事において自分を隠せない人は大成しない」。これはカーライルの言葉で、大成するしないは別にしても、自分の気持ちを隠すというのは、自分を抑制することでもあるなら、批判されることもなかろう。
自分の感情を抑制できないと何かと不都合となり、理性のなせる技だ。自分の心のなかは案外と他人から見透かされるもの。「今日は楽しそうだけど何かいい事でもあったのか?」などと問われたりする。「いや、特になにもない」というのと、「昨日はとてもいいことがあったんだ」とアレコレと説明するのとでは後者の方が面白みのある人間で、話も弾む。
どっちがいいかの問題でなく、どう答えるかは相手によって決める。性格的にどちらかに偏る人間もいるが、自分はその時の気分や相手によって変える。自分に忠実、相手に忠実ということより、柔軟に相手との人間関係を深めていく。「あのことをあんな奴にいわなきゃよかった」という後悔は誰にもあるだろう。そうした失敗も含めて人は人間関係を学んでいく。
つくづく人間はいろいろである。いいこと、嬉しいこと、楽しいことは率先して話す人間もいれば、そういうことはあまり口にせず、不愉快なこと、悲しいこと、苦しいことを好んで話したがる人間もいる。そのどちらにも相対するのも人間関係で、人と上手に付き合う術があるとすれば、自分自身に折り合いをつけ、自分と上手く付き合うことが大事だろう。
出会った人についていろいろ考えるのは好きかも知れない。たとえば臆病で小心な人間は大抵の場合「調和」を求める。人間を極度に怖れ、怯えを感じる人間は、「自分の悪口は許さない」などという。今回久々その手の人間にでくわした。こういう人間への対処法は、とにかく拘わらないこと。相手を嵌めて楽しもうとするところもあるから注意がいる。
「自分のブログで悪口をいうな」とワザワザ言ってくるのには驚く。行ってもいないのにアクセス解析で判明したというが、完璧なフライングである。しかも、二度と来るなといいながらブログのURLを知らせてくるって…?もし、クリックしようものなら、「来るなといったのになぜに来たのか!」ということか。こういう罠をかけて何がしかの気晴らしをする倒錯者であろう。
小心で孤独な人間は、「調和」してくれる相手を探し、世の中を楽しく生きて行こうとするが、ロジカルを好む人間は議論や言い合いを吹っ掛けて楽しむ。「同じ穴のムジナ」というように、同種ばかりを求めて異質を排除すれば、交際範囲は狭まるばかり。考えに同調するのは悪くはないが、同感すれどもう一度考える。同感しない場合も、もう一度考えてみる。
賛同する自分は本当に正しいのか?反対する自分も本当に正しいのか?人間は正しいことも行うが基本は間違うもの。だからか、人間の最大の誤りは、犯した誤りを誤りと知りながら謝らない改めない。別の言い方をするなら、罪を犯しながら、その罪を悔い改めないことこそ最大の罪。勇気のいることだが、そのことで自分の皮が一枚むけることになる。