人は一人で生きていないゆえか指摘されて気づくこともある。人はいつもこちらを見ている。「あなたはどうして人にやさしいの?」とか、「人への接し方がちがいますね」などといわれてハタと気づく。「何でそう思う?」と聞き返さないのはくどくなるからで、敬愛心をもって他人に接する自分は分かっている。意識してでなく、自然にそういう風になるのが敬愛の心。
普段考えない敬愛心について考えてみる。このようなことを考えるのもブログをやっているからで、自分と向き合い自らを分析するのも悪くはない。他人への敬愛心というのは、人は誰も優れていると感じるからで、それが心の底にあるのだろう。自分のことくらい判る。人は誰にも優越意識があって、他人よりいくつかの優れた点を自覚をするがすべて自分が優れていることはない。
そんなのは当たり前であっても、人は自分の優位と他人の劣位を比べて自尊心を満たそうとする。30歳になったかどうかの頃だったか、何かにつけて他人を見下す奴がいた。どこにでもいる、“何様”的な奴だが、誰もがそんな奴と心得て放っておくが、ある時自分は友人のことを偉そうに卑下する彼が許せなかったこともあって、黙っていられずこんな風にいったことがある。
「黙って聞いてりゃ人をボロクソにいってるけぢ、そんな言い方ばかりしてないで少しは相手のいいところを見ようとしろよ。彼は結婚もして子どももいるのを知ってるんだろ?独身のお前にくらべてその分人生体験してると思わないのか?チョンガーごときが偉そうにいうことか?」突然の思わぬ攻撃を受けた彼は、その場を黙してすぐに席を立って出て行った。
あのことがあって以後は彼は自分を避けたが、それは彼の都合でありバツの悪さであって、悪いことをいったとは思わなかった。自分の本意が彼にどう伝わったかは分からないし知る由もないが、「どんな人にも自分にはない優れた点がある。自分にない体験もある。人をそれほどバカにすることもなう」という趣旨でいったつもりだ。独身と既婚というだけでも人生体験の差は確実にある。
彼は自分が独身なのをバカにされたと思ったかも知れない。それならそれでいい。彼が既婚者たる相手をバカ大卒と詰ったように、独身が彼の負い目ならそれも事実だ。人をバカにする人間にだってバカにされる要素はあるが、人がそれをしないからいい気になっている。近年はそれらを、“ブーメラン”という言い方をするが、誰がつけたか上手い表現である。
「俺をバカにしたいのか!」とはいわなかったがいわなくて正解で、「だったら人を見下すな」と追い打ちが待っている。人ってのは自分の利するところだけで人を眺め、見下したりバカにするが、相手がいないところでそれをやるのは姑息で卑怯者である。「チョンガーが偉そうにいうな!」とは勢い余った言葉だったが、それで反目するか反省するかは彼の問題である。
彼が見下した自分の知人はその場にいなかったから、陰口という恰好だが、彼の名誉のために自分が代弁をした。独身をチョンガーという差別用語を使ったほどに腹を立てた自分である。最近は耳にすることがなくなったチョンガーとは、未成年者や独身男を意味する言葉。いうまでもない朝鮮語からの借用語で、かつての大韓帝国において、未婚者はチョンガーと呼ばれて非常に軽蔑されていた。
この手の人間は昔も今もいる。むしろ現代の方が多くなっているのか、それともSNS全盛の時代だから目にする機会が増えてそう感じるのか、ツイッターやブログのない時代は、心に隠していることは分からなかったが、最近はSNSであからさまに他人攻撃をする。そんな人間は自分に自信もなく、必要以上に他人を怖れる小心者であろう。最近その手のコメがきた。
一読して思ったのは、何故にこれほど人間に怯えているのかである。人間を恐れるから必死に我が身を守ろうというのがありありで、悲愴感さえ感じられる。よほど精神が脆弱なのか、必死でこちらに噛みつくさまが憐れですら感じられた。「あなたを刺激したなくないからこれ以上は書かない」と、収束を図ったのは、「あなたを傷つけたくない」の言い換えである。
何を言おうが返そうが傷つくしかない人間は、それほどに人に怯えて生きている。「なぜ人を怖れるのか?」について、そういう人間を目の当たりにしたときに考えたことがある。普通人は相手が自分に調和してくれるように望みはするが、ゲーテはそのことをを、「非常に愚かなこと」という、賢人の考えの深さを知った。なぜそれを愚かとするのかについて、彼はこう述べている。
「私は各々を独立した一個人として見、その人を研究し、その持ち前のままでつき合おうと努めはしたが、その人からそれ以上の同情など全く求めなかった。そうすることで私はどんな人とでも交われるようになった」。ようするにゲーテは、人が自分に調和してくれるよう望むのは、ある種の同情と考えているようだ。いわれてみると広義の同情と感じられなくもない。
人が自分の意見や主張に合わせてくれるのを人は喜ぶのは分るけれど、それらは相手の自発的・主体的な気持ちからもたらされるもの。卑しくもそれを望んでいる気持ちが察知されるなら、相手は同情心からそのようにする。年端もいかぬ年代ならともかく、成熟した大人にとってはあまりにつたないことだ。ゲーテは人は成熟した大人であるべきといっている。
こういう深い考えに触れると、「相手が自分に調和してくれるのを望むのは愚かなこと」だと分かる。早いうちから知ることになれば人はそれを目指す。だから人間には賢人が必要だ。賢人から学ばないで、しょぼい凡人のまま生きていたくはないが、賢人のエキス100あるうちから、10~20でも学べたら幸便だ。人に学ぶ力はあっても、欲や利害が障害となるようだ。