「人間は動物から学ぶところが多い」というのが持論だが、「人間と動物は違うだろ」と反論するのも分からなくもない。人間は絶望の果てに自らの命を絶つが、「動物に絶望という感情はあるのか?」と考えたことがある。ただし、動物にも絶望の意識が芽生えたとしても、自らの命を絶つことはなかろう。死に方を知らないというより、彼らには生きる本能だけがプログラムされている。
「窮鼠猫を噛む」といい、猫は犬を噛む。人間はガムでも噛むのか、いじめで自殺するなら相手に噛みつけばいいのに、命を守りたい意識が感じられない。それで「絶望」というならなんとも甘えた絶望だろう。絶体絶命に追い込まれた動物の闘うさまを見て、何としても命を守ろうとの意思が伝わる。人間がそうならないのは勇気のなさと、「絶望」という二文字への憧れか。
抵抗なしに死にゆくものの絶望を、“甘えた絶望”といったが、絶望と思い込んでいるなら仕方がない。自分が思春期に絶望感を抱いた相手は母であった。母は自分を徹底支配し、苦しめたが我が子の苦悩には気づかない。絶望感をどうすれば排除できるか、徹底して抵抗するしか方法がなかった。苦しみを訴え、母にはあれこれと嘆願するも、まったく聞く耳を貸すことはなかった。
「人を変えることはできない」とつくづく感じさせられた。親に絶望すれども人生に絶望しなかったのが救いであった。人生への光を失うことはなく母という障害を排除すればよかった。それで分かったことは、「絶望とは何かに向けて懸命に努力すること」。自分でいうのは憚るが、バカではなかったと当時を思う。いじめに抗うことをせず死に向かうなどは、絶望というナルシズムか。
真の絶望というより、感傷的な自己愛の発露ではないだろうか。絶望への努力を放棄し、自らのナルシズムに酔えば死への憧れを抱いても不思議でない。なぜ頭を働かせて絶望を解決しようとしない?強い気持で人生を広範囲に見つめない?これが自殺者への疑問である。絶望体験は大事で、そこから立ち直るところに人間形成の基本がある。幾度か書いたが中一の時も級友に絶望させられた。
クラスでもっとも知能の低いMから、投げやりな言葉を向けられるなど夢にも思っていず、それはショックであった。鼻っ柱をへし折られ、いいようのない屈辱と羞恥を忘れることはない。家に帰りこれまでの自分を思い浮かべて、それはそれは嫌な自分であった。Mはそのことを何気に自分に伝えた。『罪と罰』の売春婦ソーニャから啓示を受けたラスコーリニコフのようだった。
ソーニャは文豪ドストエフスキーの観念の所産であり、「聖なる娼婦」などといわれてきた。自分は今でもあの時のMを思い浮かべる。知能の低い彼を見下し、放言した言葉の数々、それに対するMの仕返しであったろうし、それが咄嗟に言葉にあらわれた。Mに初めて噛みつかれたことへのショックもあったが、「こんな奴にこんな風に思われていたのか?」という羞恥心の方が勝っていた。
あの時、あの場面のことは、Mの顔つきも、言葉の投げ方も、映像のように頭の中に残っている。ラスコーリニコフはソーニャにひざまづき、彼女の脚に接吻をするが、自分を見下ろす偉大なるMに自分は精神的にひざまずいた。Mの言葉を一蹴していたら、自分は何も変わらなかったろう。「誰がいったかではない、何をいったか」を大事にするようになったのは、この時の体験による。
誰がいったではなく、何をいったかを感じ取るのは素直な心。同じ言葉でも人によって受け方を違えるのは自尊心のなせる技であろう。心の持ち方一つで人間は大きく変わるものだ。権威には迎合するが、自分以下レベルにはつけあがる。こういう人間を揶揄し、「上にへーこら、下にオイこら」といい、周囲にわんさといる。目にすれば、「何とも浅ましい奴!」と腹で笑う。
動物の親は見栄や欲のために子育てをしない。彼らはそんな理由で子育てをする必然性はないが、人間は見栄と欲の塊である。だから人間と動物は違うが、本当は同じであるべきとの理想を描くが故に人間は動物から見習うべし。どう育てれば子どもが幸せになるかの思考は動物にない。「お金持ちになる」ことも、「社会的地位を得る」必要もないが、人間はそれを目的とする。
それが悪いとは思わぬが、親の意志であるべきなのかどうなのか?自分の産んだ子をどうするのも親の権利だが、リスクや子どもの性格も含めた、正しい権利行使か否かの疑問はもつべき。自分は、「自信」や、「信念」という言葉を疑っている。「自信」のようなもの、「信念」らしきものに常に疑いをもちながら生きているのは、それらが一種の空想のようであるからだ。
どんな人間であれ本当は、「自信」などない。本当の、「信念」などもない。一時的にあっても、すぐに壊れてしまう代物だ。人間は常に動揺し、変化している。だから、「自信がある」と口にして強める。「信仰」も同じで、そもそも、「信仰」そのものが迷いの所作である。神仏を思うのは解き難き人生の深さゆえの嘆きでは?それとも迷いや苦悩を捨て去るための幻影か?
信仰を疑うべきなのは、宗教や神を創った人間を疑うことにある。「神を疑う」のが心苦しいなら、「人間を疑う」と思い直せばよいが、神は人間が創ったものではないと絶対的に信じる人はそれができないだろう。神はそれぞれの人の心に宿るものだから、自分の心を疑えばよいが、神は天のどこかにいると信じる人は、神を疑うことは自分の存在を疑うことになり自己嫌悪に陥る。
それでは信仰の意味がないのだろうが、信ずることによって盲目になるのではなく、信ずることで明晰になるべきではないかと。信仰を明晰にするためには、「救済観念」を捨てよといわれるが、これは自己救済の放棄である。ドストエフスキーの遺作『カラマーゾフの兄弟』に有名なセリフがある。「もういっぺん最後にはっきり言うてくれ。神はあるのかないのか、これが最後だ」。
人間の存在する限りこの叫びは永久に絶えないだろう。親鸞もこのように述べている。「我に救いありと思った時が即ち人間の堕落した時である」。彼は自我を捨てて真理に向かうよう説くが、自分など到底理解・実践できるものではなさそうだ。親鸞は人間をこよなく愛し、また理解をしている。なぜなら、あまりに厳しい戒律のもとにおいては、人間は偽善者になるのを見抜いている。
いかにも口幅ったい物言いをしながら、陰では別の人格を楽しんでいる。見方を変えるなら、あまりに厳し掟や厳しい道徳観が、人間に偽善性を強いることになる。親鸞が肉食妻帯を善としたように、パチンコ、競輪、ソープを合法とするのは、人間の生きる糧をを失わせないため。自分は神を最高の規範者とせずとも、人間を規範にして不足はない。「五賢人」に近づくだけで大変なこと。