自分の過去を思い起こせば目の前の親が親。良いも悪いもなく何をされてもただ従う対象でしかない。すべての動物は生まれて目の前にいる大きな生き物を、自分の保護者と感じるが、それが親の実体である。子を生んだ猫の親がいなくなり、目の前に成犬がいれば猫の子はそれを親と認識する。学校に行くようになっていろいろ友人と話をしたり友人宅に行ったり、彼らの母親に接するようになる。
誰もが思うことながらなぜか他人の母親はやさしく感じる。友人たちも自分の親の不満をいうことはなかったが、自分は母親への不満があり過ぎた。「いいな」と思う事は多く会って、例えば文房具やズボン一着買う際、親からお金を貰って好きなものを買ってお釣りを渡す友人が羨ましかった。「いい親だな」といっても彼には普通でしかないが、そんな主体性は自分には考えられなかった。
鉛筆一本、ケシゴム一つ自分で買ったことはなく、家のなかはおろか、外で吸う気行くまで母親に支配されているようだった。すべてが彼女の息がかかったものでなければ認められない。女の子はそれでいいが、自立心の高い男の子の育て方は完全に間違っていると今なら思う。しかし、そうであったから一層自立心が強くなったようにも感じる。すべては子どもの感じ方、学び方であろう。
何から何まで支配する母を友人と比べることで、自分の母親は普通でないとだんだん思うようになった。こういうものを情報といい、情報を仕入れることで物事の判断基準を人間は掴んでいく。何事も有無を言わさず子どもに命じ、逆らえば暴力で従わせる親を普通ではないと感じ、反抗が始まった。当時は分からないことだが、子どもの深層心理というのは、反感の多さに比してよく分る。
「顔見知り」という言い方をされるが、これとて専門的にいうなら子どもの「母親認識」である。母親を絶対視し、一人の人間として他のなにびと、なにものにも替えがたく大切なものとし、心が健康に育っている証拠である。しかし、ここまで子どもに絶対視され、頼られもすれば、どんな母親とて子どもは自分に絶対服従するものだと思ってしまうのだろう。この思いが母親の最大の汚点となる。
乳児期・幼児期・学童期と育っていく過程で子どもが母親に対する意識や接し方が変わるのを当たり前と考えない視野の狭さ思い上がりが親子の不幸の原因となる。自分は小津安次郎の映画『一人息子』から、芥川龍之介の『侏儒の言葉』を知ったが、映画の冒頭テロップで、「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている」の言葉に深い感慨を受け、同時に親と子の心理のあやをみた。
他の一文は、「親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。成種牛馬は親の為に養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪結婚を弁護しなければならぬ」。古い文語体様式だが、これくらいの日本語を理解できる日本人であってしかり。
『侏儒の言葉』には人間関係の本質エキスが詰まっており、次の言葉も一読後にため息が漏れる。「強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れ、弱者とは友人を恐れぬ代りに敵を恐れる」ただし、名句・名言を知るだけでなく、それを生かすことだ。銀行に預けた大金は精神的な安定にはなるが使うべき時に使わないものを、「宝の持ち腐れ」という。不思議なもので、人間はなぜ宝を持ち腐らすのだろう。
しみったれ、みみっちい、とそんな言葉が浮かぶが、目減りするのが嫌なのだろうが。今、役に立つもの、自分の今を満たすものに惜しみなく投資すべきを明日の不安が優先する。「宵越しの金は持たない」という江戸っ子気質、その日の儲けはその日に使えば、明日また稼げばいいのエネルギー。自分は100円玉、500円玉を集めているが、預金と思った事はない。
そこに入ってる硬貨はお金というより、溜める面白さであって、貯める面白さとは違うそれを見て、「こんなにあるなら何で銀行に預けない?」と人はいう。面倒くさいからいちいち説明しないでいる。人の思いを変えることはできないし、何かをやる際に、やっているのは自分であって、他人の出しを無視することが真に自分の生き方であるが、無視を上手くとりつくる術を身につける。
「親は子を生み育てるのだから尊敬すべき」、「どんな親でも親は親」、「親不孝は自分に跳ね返る」誰がいったか慣用句となっている。親が子を生み育てるのは当たり前で尊敬というより義務であって、親になってもその考えを変えない。どんな苦労をしようと、親は子育てを天から貸与された至福と楽しむべきだが、自分が親を尊敬したから子どもにそうされたいって、「なんじゃそれは」。
性行為の証といううしろめたさを、美辞麗句で隠そうとするところに欺瞞がある。動物の子育てを見てつくづく思うのは、彼らは自分(親)のための子育てなど一切していない。それをいえば、「人間と動物は生きる世界が違う」というから、「欲の度合いが違うのでは?」といったことがある。「苦しいことをやった人は立派」というが、そんな風に思ってもらいたいものなのだろうか?
女親一人で3人、5人の子育てをした話を聞くが、立派というより楽しんだと自分は思う。苦しさにかまけて同情などに寄り添う人は自分を誇るだろうが、そういう人にそんなものはおそらくない。苦しみのなかで充実することこそが幸福である。苦しみを経て、あるいはそれを済ませてから幸福の日を迎えるというより、苦しみながら、その苦しみのさなかに喜びを求めているものだから…
「子どもを沢山抱え、汗して働いている時が何より充実していた。苦しいというよりすべてがハリとなっていたし、幸せだった」。こんな言葉を耳にしたとき、我々は人に同情をすることで、自己の現状を幸せと感じるように感じた。他人へ情を向けるのは無意識の浅ましさがある。そうした人に敬愛心を抱くなら、無用な同情など口にせず、だらけた自分を叱咤すべきではないか。