「親を敬え」というのは、秩序道徳を求める儒教思想である。それに対比する老荘の思想は、「無為自然」を説き、人間本来の生き方を求めるものである。だからか、それらは個人の本来の生き方を追求する思想になったり、管理社会批判となったり、統制的社会への敵対思想となったりした。現実的でないということから、単に処世術として読まれたり、革命思想として解釈されたりした。
老荘思想とくくっていうが、老子は現実の社会や政治に関心をもっていたこともあり、超俗的で奔放な荘子の思想に比べて政治的解釈をされたりした。タオイズムといわれる彼らの思想の、「タオ(道)」という概念は捉えにくく定義するのは難しい。頭のなかだけで観念的に捉えようとしても捉えにくいもので、それの達するように体得しなければ絵に描いた餅にすぎない。
孔子や孟子が人の守る規範に関心を示し、実践したのに対し、老子・荘子は宇宙万物の根源と統一の原理(タオ)到達を追及した。孔孟の書は論語一冊のみだが、数冊の老荘思想は理解を得るために読んだし、愛読する五賢人の思考には孔孟思想批判が多かったこともあって、儒教思想は自分から消えていく。亀井勝一郎には『現代青春論』という著書がある。
「自己の自由を守る精神」という項目に、統制の危険性について以下の指摘がある。「さまざまな統制を試みようとするとき、まずは弱い部分から、あるいは裏側から徐々に首を絞めつけていく」。統制賛同の学者や知識人を利用し、統制に危惧を抱くものたちを槍玉にあげる。倫理概念の危険性にも指摘がなされ、「発禁本」についての考えが閉塞的であるなどが挙げられる。
「猥褻」は刑法対象だが、何が猥褻かとの判断が難しい。1959年、マルキ・ド・サドの長編小説『悪徳の栄え』の翻訳が猥褻書とされ、翻訳者澁澤龍彦と出版社の現代思潮社社長石井恭二らが、刑法175条違反で起訴され有罪となる。1952年には、ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家の伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎が同罪で起訴された。
亀井は、「政府や取締まり当局が、倫理観念を振り回すことを危惧したのはいわずもがなである。権力と結びついた官製の倫理観念は危険である。これは戦時中の軍人たちが国家神道と結びついて絶対主義として強制されたことを怖れるものでもある。亀井は、「若者に批判精神がないなら死んだも同然」と鼓舞するのは、保守攻勢下にあって、青年は自己の自由を守るよう諭す。
さらに亀井は日本人に欠けているものとして、社会生活におけるユーモアの効用をあげている。なぜなら、ユーモアの根本には奉仕の精神がある。奉仕とは、人々に親切に尽くす、人々を喜ばせたい、楽しませたいという気持ちから派生するもので、抽象的な観念的思考からは決して生まれない。ユーモアとは具体的なものであり、大声で唾を飛ばす演説や下品なヤジとは一線を画す知的なものである。
神聖がよくて獣性が悪いのではない。人間性の醜悪さを深く考察・実感なしに、清純や聖化という観念は成立しないからだ。つまるところ、抽象道徳が危険であって、かつての女性にのみ求められた人間性を無視した、「純潔」、「貞潔」、「清純」がどれほど人間性を歪めていたであろうか。高村光太郎の『智恵子抄』の主人公を純粋で清純というより、あれは浄化された愛の形である。
しかし、光太郎には智恵子への紛れもない敬愛心があるのはわかる。敬愛心とは何か?そんなものを深く突き止めなくとも読んで字の如く人を敬う心である。尊敬と敬愛は似ているが意味は違う。「私はペットの犬を敬愛する」というが、「私はペットの犬を尊敬する」といわない。このことから理解すればいい。また、敬愛心は思想書や哲学書を読んで身につけられるものではない。
敬愛心は自然と身につくものだが、自分が人に敬愛心を抱く理由を聞かれて何と答えよう。「人間が好きだから」とでも答えるのか?敬愛心の欠片もない人がいる。人を見下げ、バカにした態度からてき面わかる。他人をそんな風に思う者を敬愛できるか?答えは、「NO!」。特段敬愛の条件を満たす必要はないが、敬愛されるに値しない人間を敬愛できないのは当然だ。
ちょっとしたことで相手に食ってかかる人間がいる。彼らとは気をつかわなければ付き合えない。付き合わなければいいが、無理して付き合う者もいる。子どもを虐待する親はどうか?虐待は親の権利と思ってはいないだろうが、子どもは自分を養育してくれる親から逃げることはできない。これは付き合うとか、付き合いを止めるとかでなく、権利と義務の関係である。
子を持った親は親権者の義務を果たさねばならぬが、育てるけれども感情まかせに子どもの人権を踏みにじったり、正常な発育を害するような言動したりの親は少なくない。それでも黙って従う子どもは何なのか?親への敬愛心か?抗えぬ道理として受け入れるからなのか?哀れ子どもにそんな親を、“動物レベルの非道な親”という知識も、知恵も、認識もない。