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Channel: 死ぬまで生きよう!
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母・逝去

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・6月29日に妻より連絡あり。母は医療老人介護施設に入居中だが、医師の見解ではもうダメかも知れないと。

・8月3日朝、大阪・茨木市在の叔父貴(母の弟)より電話あり。「元気してるか。9日の金曜日に同窓会で広島に帰るから会おう。老人施設にも顔を出して見舞いたい」。

・8月3日午後「危篤状態だそうです」と妻より連絡。9日に叔父がくるので、その前になくなれば事後報告で線香でもあげてもらう。危篤の報もいわない、葬儀の連絡もしないが、9日まではもちそうもないとのこと。

・8月4日朝、昨晩未明に他界したとのこと。葬儀は出ないのは妻は承知済み。家族葬を命じ、妻の親兄弟も呼ばぬよう指示。

医療老人介護施設に入居して3年か?5年か?記憶がまばらだ。それくらい顔を合わせていない。互いが自分に正直を通したということで、死んだから葬儀には行かない。死なない葬儀はないし、だから死んだから葬儀にはいかない。行きたいでも行きたくないのでもないから、行かないという選択をしたまで。行く選択もあったかもしれぬが、どちらかに傾きが強いわけでもないからどちらでも同じ。

出席したことの悔いもない、しなかった悔いもない前提での選択だ。今の気持ちをメッセージとして発しなければならない立場ならなんというだろうか。「母が死んだ。次は自分だ」の10文字か。叔父貴の突然の電話は虫の知らせか不思議と感じた。何もいわずに仏壇の前に通し、そこで詫びるつもり。叔父貴は生前に母と顔を合わせたかったか分からない。もしそうなら、会いにきただろう。

来ないから会いたくなかったというではないが、人は人が死んで大騒ぎをするものだ。死なない前に取り立て会おうなどはせず、死ねば死んだで何かをいう。みんなが自分の生活を中心に、大事に生きているわけで、それでいいとしたものだ。だから、芸能人のように、死んで大騒ぎすることも、取ってつけたようなお悔みの言葉も必要なかろうが、あれはマスコミ用、対外的なものだ。

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自分の中の心の問題とする人は、出席しても黙して退席するだろう。マスコミのカメラを意識してか大袈裟な文言を用意の人もいるが、それなら死ぬ前になぜ合わない?「亡くなる前に会いたかった」というなら行けばよかったろう。死んで騒ぐのを偽善者とは言わぬまでも、自らの心に問えばいいこと。それがすべてではないか。2~3日もすれば忘れようとも、その場で故人を讃えるのは礼であろう。

死んだから葬儀に出なかったというのは、死ぬ前に会わなかったと整合性が取れている。死んでいそいそ出てくるくらいなら、死ぬ前に出てくるべきではないか。これをへそ曲がりな言い方と受け取る人は、読解力なき人である。影響されたというのではないが、似た考えだと思ったのは、坂口安吾の『私の葬式』という短文だ。「私は葬式というものがキライで、出席しないことにしている。

礼儀というものはそんなところで出席するとことにあるとは思っていないから、私は何とも思ってないが、誰々の告別式に誰々が来なかったなどと、日本はうるさいところである。(中略) 死んだ顔に一々告別されたり、線香をたてて蝋燭をもやし、香などというものをつまんで合掌瞑目されるなどと、考えても浅ましく僕は身辺の人に、告別式や通夜は金輪際やらぬことと固く私の死後を戒めてある」。

行きたくないところに行かない、出たくないところに出ないを実行できる人間は、よほどの我儘か強い意志かのどちらだろう。他人から見ればどちらかに思われるわけで、だから自分の意思がどちらかなど関係ない。相手が判断することだ。白洲次郎の遺言「葬式無用、戒名不用」は短きにて有名だが、永井荷風もちと長いがこんな遺言を残している。「一、余死する時葬式無用なり。

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死体は普通の自動車に載せ直ちに火葬場に送り骨は拾うに及ばず。墓石建立亦無用なり。新聞紙に死亡広告など出す事元より無用。一、葬式不執行の理由は御神輿の如き霊柩自動車を好まず、又紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環を嫌うためなり」。しかし、故人の意に敵わず、天皇より祭祀料、文化勲章などを飾った仏式葬儀は行われ、墓も作られた。なぜ故人の遺志を尊重しないのか。

葬儀というのは、死ぬものの都合でやるのではないからだが、著名人というのは死して讃えられねばならず、荷風は自分がもっとも忌み嫌うことを死後にされたのはさぞや無念であったろう。自分の遺言は白洲次郎でと決めており、断固従わせるつもりだ。「いう通りにしないと呪ってやる!」と、ここまでいっておけば大丈夫だろう。折角文書を残す以上、死んでも実行してもらいたいものだ。

親の葬儀に出ない理由は自分だけのものならなぜ相談欄に書くのか?肯定してもらいたいのか?①「縁を切ったのだから行く必要はありません。私なら行きません」。という回答もあれば、②「まあ最低な親だとしても、絶縁しても、死んだら次はないからね。最後の仕事として葬儀だけはやってやりなよ。あなたが最愛の奥さんや子どもに会えたのは両親が産んでくれたからだからさ」もある。

こんな意見聞きたくもなかろう。②のようなことをいう人間は結構いるが、子どもを殺して人生を奪うような親に何をいうつもりだ?他人が他人に意見するのは何かと矛盾が出る。だからか、「あなたの好きにやればいいのでは?」と回答するのが正しい。どういう相談であれ、本人の自己責任なのだから。他人が他人にあれこれ言うのは、他人のためではなく所詮は自己満足だろ。

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