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人妻の恋

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同じ市民吹奏楽団メンバーの独身男に遊ばれた40代既婚女性が、数回の関係で突然終わりを告げられたそうだ。遊ばれたとはそういう事をいうのであって、彼女は相手が近づく課程から愛されたと思っている。だからそうだと羞恥もなげにいうのだが、そういう結果に終っても、遊ばれたと思えない、思いたくない女のナルシズムは浅はかというしかない。

それで彼女は、「自身の境遇を悲観しないではいられない」と嘆いて見せるのだが、こういう話を1000人から聞いても同情する気にはなれない。かといって口先の慰め言葉もでてこないので、以下思うところを伝えておいた。「誰に恋をしようが、その恋自体に罪はない。恋を始めてはいけない規則もない。ただし、あなたには既婚という制約があるだろう?

相手が独身であれ既婚者であれ、その制約は同じことです。一人で忍ぶ恋ならともかく、それでは満たされないのだろう、だから相手の誘いに乗るわけだ。それが始まりというなら、始めたこと即ち終わりの始まりということだ。本気になって、夫や子どもを捨てる勇気もない人妻が、恋を始めるというなら、始めた時から終わりに向かっていることを覚悟しなきゃ。」

相手の男はつまみ食いにあきたのか、「始めてしまって思うことですが、やっぱり不倫はまずいです。ご主人に気づかれない保証はないですし…」と言われたという。これがお別れの言葉だそうだ。独身同士の男女なら相手に飽きたからといって、それなりの口実を考えなければならない。相手を傷つけないようにというのも男の配慮だろうが、人妻にはよい口実がある。

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「やっぱ不倫はマズイですよ」と言えばいい。その言葉が人妻を現実へ引き戻す。いわれた女が傷つこうが、どうであろうが、「傷ついた」と言えた義理ではない。実らぬ恋は御法度の恋であるからして、始めたことが終わりの始まりというように、遅かれ速かれ終らねばならない。所詮はつまみ食いなら飽きてしまうのが最もよい終わりかただが、上記の女は違った。

辛い、切ないと尾を引いている理由は彼女の想いにある。団員となぜそうなったかについてこう説明した。「相手の男性に愛されたこともあり、自分としても相性が良かったこともあって、声をかけられたときは嬉しかった。そうして彼とそういう関係になったときから、これほどに幸福感に包まれるような感覚というのを生まれて初めて知りました。」という。

ノロケに聞こえるが、聞くところによると彼女は夫以外の男経験がないという。今どき真面目で潔癖症的な女性であるらしいが、44歳というから今どきの女性ということでもあるまい。「恋をする暇などなかったと思います。親の期待に添うよう学業に仕事に打ち込み、男性には負けまいと頑張ってきましたが、女性に生まれてよかったと、始めて感じました」という女性。

不倫の刺激が加味されたものだろうが、不倫の当事者というのは、そんなことは考えはしない。不義・密通は死罪の時代もあったが、女性の性が目覚しく解放されたよき時代なのであろう。男にとって、女にとって…。ソープランドが週刊誌ネタとして載ることがあるのだろうか?中学生、高校生、女子大生、人妻…、おっさんが簡単に素人を調達できる時代だ。

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なんともおっさんにとってよき時代でもある。若いときに羽を伸ばした男どもは、貞操バーゲン時代に何を思うのか?いや、貞操という言葉が死語である。死語であるから価値が高い。デパートの「特選品売り場」で買い物をするような高揚感か?いや、こんにちデパートに特選品売り場は存在するのだろうか?高級ブランド品店は個々別に店舗を構えている。

100m歩いたら不倫行為者に出くわす時代である。夫一筋、汚れてない妻までもが餌食になる。思春期を迎えた少女の性の目覚めと何ら変わらぬ好奇心のたまものか?子どもを責めるが大人は良いのだと。いつの時代も大人と言うのは勝手なものよ。それで出てくる言葉が、「これほど幸福感に包まれるような感覚を、生まれて初めて知りました」である。

きれいに言ってるのだろうし、初体験した中学生が「エッチっていいね」と言葉足らずでいってるのと何ら変わらない。言葉を修飾してご満悦の人妻に、「奥さん、不倫はいけませんよ」の言葉をかけるほど野暮な男で自分はない。「おめでとうございます」は、半分社交辞令、半分は「気取ってんじゃないよ」。女が気取りたいのは百も承知だから悪口ではない。

なにかと物事の善悪を提示する人はいる。「それはよくないな」、「それはダメでしょう?」そういう人を道徳的な人というのか?正義感が強いといえば聞こえはいいが、とかく話の腰を折る人のようだ。人は善いことも悪いこともやるという現実を知ってか知らでか、真理という説法をする麻原彰晃がイカレタおっさんという別の顔を持っていたと同じこと。

イメージ 4「あまり人前で善悪を振りかざすのは止めような」などと釘を刺す。赤信号の横断歩道を渡って咎められた気分になる。「みんなで渡れば怖くない」と言われた時代から成熟したのか、一人で渡れる時代になった。不倫も映画やテレビドラマや芸能人のお手本がなくても、みんなやってるからという口実がなくても、自身の考えでやれる時代に成熟したのかも知れない。自分の考えで行動できるというのは、一つの成熟であろう。そこには必然と自己責任がともなうからだ。「○○さんが、やれといったから…」、「○○さんもやっているから…」、これらが典型的な子どものいい訳だ。かといって、夫一筋の貞淑な妻と思われたいのは人妻の共通した虚勢だから、だれかれかまわず、「不倫している」とはいわないものだ。

上の女性もあなただけに言ったという。光栄とは思わぬが見込まれたものだ。見込まれたというより、類は友を呼ぶという事だろう。おまけに「別れて以降、辛い、苦しい」というお土産まで聞かされている。女は男を女友達と同じように同情の類とみなすところがあるが、男は友人関係であっても、口先の慰め言葉など掛け合って生きてはいないものだ。

自分に不倫を告白した女性は、自分なら言って差し支えないと思ったからだろうが、慰め言葉を望んでいたのならそこは見込みは外れたろう。「始まりは終わりの一歩」。「始めなければ終わりもない」。言いたかったことだが、その事は理解したようだ。ついでに、「恋は幻想、醒めれば現実だ」。これは理解したかどうか分らない。しかしこの人妻はこのようにいう。

夫一筋というのは名ばかり、「夫に触られるだけでも気持ち悪い、そばに寄られるだけでも…」と言う。意地悪い夫への虐げ言葉ではない。彼女は極度の潔癖症であるようだ。中・高・大と女の園で育ち、それなら異性に興味が沸くのが順当だろうが、まったく湧かないタイプもいたりと二分する。それでよくも子どもができたものだと皮肉をいうと、「アレは生殖です」。

保健の教科書みたいなことを言う。形骸化夫婦は多いし、まあ、気持ち悪いことはしなければいいわけだ。夫としてもこういう妻ならやる気も湧かないだろう。セックスが必要なら別の相手を探した方がいい。妻もそうして欲しいという。それでとうとう、不倫に踏み出したというのだろうが、本人はあくまで愛されたといっている。そういう夫婦事情なら外で調達してくれ。

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そういう気持ちであって、それを言葉を変えて進言した。「くれぐれもバレないようにやりましょうね」。これはまあ、不倫のイロハの「イ」である。相手はエールと受け取ったようだ。少なからず罪悪感はあろう、人間だから動物のように本能に忠実に生きるわけにはいかない。昨今はなぜか浮気といわず不倫というが、言葉のインパクトの問題であろう。

不倫は「不倫理」であり、なんとも大局的な言葉であるが、「浮気」は直接的で生々しい。しかも、綺麗な言葉とはいいがたい。昨今は浮気と言わず不倫というが、さすがに文化的な言葉なのかと…。浮気は男の甲斐性といったものだが、女の浮気は社会的不認知という時代背景があった。よって、浮気する妻は少なく、女の浮気など御法度とされていた。

また、女は生物学的見地からしても男のように浮気をしないものだと思われていた。それが生物学的真相にあらずして、自制心のたまものであったことが正しかったようだ。女は動物生態学的にいっても男より淫乱である。そもそも淫乱は女に向けた言葉で男に向けていわない。英語の"bitch"というのは日本語の淫乱と同じ意味だが、男にはそういった言葉がない。

「助平」、「やりちん」くらいか?「ドスケベ」もまあ、かわいい部類だ。「尻軽男」は仰々しい。男尊女卑の時代背景が言葉に表れているのだろうが、男は全員「助平」という事情もある。これこそ、科学的論拠があり、男は生物学的・遺伝学的な「助平」でない方がオカシイ。性欲が一人だけに向かうより、複数の対象に向かう方が種の保存や拡散に有利だからである。

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男は「種撒きびと」である。女は大地に根を張って、花粉が飛んでくるのをじっと待っているモノだが、それは植物の話。動物はじっとしていられず、女であっても交尾を求めて動き出したのだ。壬申の乱、平治の乱、平将門の乱、大塩平八郎の乱…、乱を起こすのは男だが、女は淫乱を引き起こすと手に追えない。10人と連続でやれといっても男の能力を超えている。

が、女は相手が可能なら100人、1000人ともやれるという構造上の問題である。男から見ると女の方が100倍淫乱に思えるが、女は男の方が助平という。交わることのない話だが、交わってみればよく分る。射精で終る男の性は儚いもの、余韻すらない。特に清楚系に淫乱が多いのは自明の理。清楚系というキャラが邪魔をし、下ネタとかも言えないわけだ。

おもいっきし自身の性欲に忠実な行為・発言ができていないからだろう。おまけに純情っぽく見せている女、清楚系な女は、視野も狭く自己陶酔レベルが高い。男に清楚系好きが多いのは、普段と寝所のギャップであるというが、いかにも"やって当たり前系"なる女は、手ごろ感や値ごろ感を求めるトーシロ向きだ。自ら乱れるが清楚系自身を高めている。

そんなわけで清楚系人妻も不倫に乱入する時代となる。世間の目を意識し、自制心が抑止力になっていたのだろう。自制心がそう簡単に取れるものでもないが、自制心をとるための口実が「愛」、「恋」という言葉。動物の交尾を恋愛とはいわない。人間がそういうのはキレイにいっているのであり、あれは子孫を残すためにプログラムされた生殖行動である。

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動物は性行為を交尾というが人間は交尾と言わない。理由は簡単、人間にしっぽ(尾)がないからだ。それでは、雌豚と人間の男がやると交尾なのか?さて…、正解は獣姦という。それ以外を真面目に考える必要なし。人間の性行為をなぜか愛情(愛の交換)という。違っていても、本人たちが「そうじゃない。愛などないよ」といわない限りはそうみなされる。

もっと近年は、セックスに愛などいらない(とまではいわないが、それはいわないだけ)人間が多くなったようだ。しち面倒臭いことを言わない時代になったのだろう。かつて外国映画で不思議でならなかったのは、出会ってするにやる男女。自分たちが「性には愛が必要。それが人間ぞ!」といい含められていたのだろう。それも性教育の一貫であった。

昨今は「軽薄短小」の時代。だからか、外国映画のように出会ってすぐにやる。それを節度がないといえるのか?節度とは理性であるから、理性で自らに歯止めをかけることはできる。かけなくても間違いではないという社会認知を得たのだろう。善悪の問題ではなく、道徳は時代とともに変容する。昔人間から見れば異様でも、現代人にとっては「軽薄短小」だ。

恋愛感情というのは不思議なもので、時間の経過と共に冷めていくものだが、これが不思議でなくなったのは、科学的に解明されたからだ。『愛はなぜ終わるのか―結婚・不倫・離婚の自然史』なる本がある。解明と言っても学説である。愛は4年で終わるのが自然であって、不倫も、離婚・再婚をくりかえすことも、生物学的にみると自然であるという。

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思い出してみよう、それぞれの恋愛を…。一番恋焦がれているのは片思いの時、一番楽しいのは付き合い始めの最初の頃ではなかったか?その後はゆるやかに低下して行く。他の異性に興味を持つようになる。この女はどんな下着をつけ、そんな性器の形をし、セックスのときはどんな悶え方をするのか?は、別に助平な男でなくとも共通の思いであろう。

女が夫以外の異性にいかなる淫乱心を抱くか男には分らない。聞いた事があるが、男と似たりよったりであった。好奇心とは見えないものを想像することだ。それでも女は自制心を要求された時代である。上記著書には、恋愛状態が長続きしないものだというのが遺伝子レベルで説明されている。つまり、遺伝子はあくまでも自分の種の繁栄を第一の目的としているからだ。

なので一人のパートナーだけを永遠に愛し続けるというようなプログラムにはなっていない。だれでもか?誰でもだ。同じ相手と80回程度セックスしたら飽きるようになっているそうだ。本能に従うことしかできない動物と違い、理性的に生きる人間にとって、終わらない愛というのは理性によって継続するよう仕向けている。これが理想的な男女(夫婦)の恋愛関係か。

理想的な男女関係を望むなら、理性的な男女関係をやることだ。坂口安吾は『恋愛論』の末尾にこう記している。「人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。」



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