タイトルにしたほどに、実にさまざまな人間関係が存在する。加藤諦三の『若者の哲学』に、「『関係』ということ」の表題で以下のように書かれている。「われわれ現代人にとって、『関係』と呼びうるような関係が、どれだけあるだろうか。例を性関係にとって考えてみよう。いかに多くの性関係が、実は真に『関係』と呼びうるものでないかがわかる」との書き出しは驚きだった。
加藤氏のいう、「関係」とは、“真に関係の名に値する関係”をいい、それは、「明確な意志」を必要とするものでなければならないという。「あなたあの女性と関係したの?」などの言い方をする場合、「関係」が何を意味するかは誰でもわかる。セックスしたかどうかを、「関係」という言葉であらわすが、男同士なら、「お前あの女とやったんか?」となる。下品だが率直で的を得ている。
そういう意味の、「関係」を下品とは思わぬが、「関係」とは人と人が何らかの関りをもつことをいう。加藤氏は男女の性的関係についても以下述べる。「性関係と呼びうるに値する関係とは、社会の禁止にも関わらず、いや禁止されているかを度外視して、自らの明確な意志によって、一切の偶然を排して行われる関係である」。自分が読んでも堅ぐるしく若い人ならさらなりか。
いいたいことは分かるがいかにも古い。加藤氏は率直を好み、普遍的な言葉を信条とするも、さすがに男女のことについては古風である。加藤氏と心を同じにする若者が皆無とはいわぬまでも圧倒的に少ないだろう。馬耳東風の『若者の哲学』が、現代にはさびれた感がある。男女の関係を否定すべくもないが、互いの明確な意志と了解のもとで、「やれ」とはいうが…
あまりの率直言葉は女性に負担である。「そんなつもりじゃなかったけど、お酒を飲んでいたから…」、「あなたが余りに強引だったから…」、「仕事でつまんないことがあったから…」などの言い方を女性が好むくらい加藤氏は知ってはいるだろうが、『若者の哲学』は1971年発刊だから約50年前である。それでも回りくどいことをせずに正面からぶち当たれと理想論をいう。
率直な欧米人と奥ゆかしさを善とする日本人の文化の違いもあれば、50年前とこんにちの社会状況の変化もある。それに伴い若者の思考や行動も大きく変わった。石坂洋二郎の『青い山脈』が朝日新聞に連載が始まったのが1947年。1949年に原節子主演で映画化され、57年には司葉子、63年版は吉永小百合。「変しい変しい(恋しい恋しい)」と書かれたラブレターの場面が懐かしい。
今どき、「恋しい恋しいあなた…」などのラブレターを書く者などいないし、そもそもラブレターなる言葉がもはや死語である。堀、坂口、林田、亀井、加藤らの五賢人が、今の若者に受け入れられないなら、彼らは誰を賢人とするのだろうか。堀江貴文、西村博之、村上春樹、斎藤孝、宮台真司あたりが浮かぶが、まったく想像つかない。「友情」なる言葉もこんにちてきには死語なのか。
組織や学校や家庭の中の人間と我々は結びついているが、雑多な人間関係の中で一番確実な結びつきが友情である。遊び友達や酒を酌み交わす程度の友人はいても、友情で結ばれた友人関係はどうであろう。友情といえども視野を広げると、例えば夫婦であれ、親子であれ、兄弟であれ恋人であれ、どこかに友情感が入ることで関係は柔軟性を帯びてくる。こういう場合の友情感とは具体的に…
人生を生きる上においての共同者としての友情感とでもいってみるが、友情には当然ながら敬愛心が不可欠。いろいろな苦労をしながら共に生きて行くという連帯感的な結びつきと同時に、それぞれが個々の人間として目覚めるということにもなるのではないかと。書物ですら友人である。或る本に親しむことで、その著者を心の友人といって何ら差し支えない。
著者の求めていることと同じことを読者が求める、それこそ兼好のいう心の最大の慰めとなるはずだ。現実に友人を求め得ないなら、われわれもひとり灯の下に書物をひろげれば、心の友を見出すことになる。だから、「本が友人です」といえばいい。近年は携帯やスマホが友人のごとき重宝されるが、彼らは情報の奴隷になっているよう自分には見受けられる。
こんにち最も大切で離せないものを、スマホと答える人はいる。そんなに情報が必要なのか?それなくば時代に取り残されるのか?我々の時代に、「青春に最も大切なものは友情と恋愛」といわれた。人間は一人で生きるではなく、自己に目覚めて道を求めるも先師や同時代人の助けによる。だから良き師、良き書は大事だが、そんなのは昔人間の戯言と嘲笑されるのか?
同様に異性(恋人)の影響も大きい。良き相手と良い恋愛をすれば、心慰み人生に花を咲かせられる。たとえ愛が終焉してもプロセスは消えない。だから自分はめぐり逢いや愛の過程まで壊しかねないような、否定しかねない別離はしない。その場は終わることになろうと、いつかどこかで躊躇いなくめぐり逢えるような、そんな別れを心がけた。それは相手を憎まないことである。
例え別れようと出逢いは感謝。「人は恋愛によっても満たされることはない」と、これは坂口安吾の『恋愛論』の一節。恋愛は一時の幻影だから必ずや亡び醒めるものだと分かっている。人間は恋愛によって心は満たされるものではないことを知っていても、恋する異性を求めてしまう。すべての出会いは遅かれ別れを必然とするが、何事にも結果以上に過程重視の自分である。
人間はその習性から四季のごとく移り気であり、結婚したところで他人に目がいかぬわけがない。他人に手を出さぬを道徳というが、人間のどこが道徳的か。倫理にそぐわぬ人間をいちいち罰したなら、社会は混乱し人間は暴徒と化す。「神の名において汝は汝を終生愛せよ」と命じれど神に従わない。人間すべてが神の命に従うなら人間社会の破綻は間違いない。