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Channel: 死ぬまで生きよう!
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人間関係さまざま ②

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ヤフーブログの終焉が発表され、少しばかりの意識変動があり、これまで書かなかったこと、書くのを躊躇われるようなこと、そういう垣根を取っ払って書く意識が持ち上がった。あくまで自らの意思や気持ちに素直に書こうというのが強まった。不思議だがこの変節は期限を切られたことの影響だろう。ダラダラ書いてきたわけでもないが、以前よりも凝縮度が高まってきた。

自分を誇示するとか自慢とか、誤解を与えかねることは避けてきたが、終わるというなら、「どうとでも思え!」と、開き直りが芽生えたかも知れない。他人の思いに関心はない方だが完全無欠というわけでもない。拘りなく思う存分きがねなく書こう意識の強まりをpositiveと捉えている。が、自身の中にある、「謙遜」という日本人気質は間違いなく存在する。

意識の変化が文章にどう現れるか自分にも分からない。人は時に自身を鼓舞し、なだめたりする。鼓舞もいいが、自分自身と上手く付き合うには、「なだめ」が大事なのは、人間は感情の生き物だからである。自分をなだめすかす最良の手段は趣味を持つこと。そちらに費やす時間や空間が自分をリフレッシュさせ、人によっては現実逃避と感じることもあるだろう。

電車でスマホを眺める人は珍しくないが、かつては週刊誌や小説や趣味の雑誌を読む人が多かった。あるとき目の前の二人の男の一人が三流週刊誌を、片方は将棋雑誌を読んでいた。娯楽に善悪優劣はないが手前勝手な視点でみると、将棋雑誌で棋譜を追う男に軍配があがる。ゴシップとスキャンダル、エロと犯罪記事の三流誌を読む男はいろんな空想をしているだろう。

比して将棋の棋譜を追う男は思考を働かせ、彼という人間を統一している。飛車や角をどう使うか、囲碁なら白石と黒石が盤上で繰り広げられるさまを、電車に座って一生懸命に考えるなどは、見方によれば滑稽といえるが、これは石川啄木のいう、「悲しい玩具」であろうか。自分自身をなだめすかすことの重要性を教えてくれるのは、モンテーニュもそうであった。

彼は自分自身をどうなだめるかに取り組み、『エセー』なる随想録を書き上げた。一巻の第八章にはルカヌスの「無為の精神があちらこちらに追い散らす」を引用、「彼が余りにも奇怪な妄想を後から後からと、順序も計画もなく産み出すので、私はそのとりとめのなさやその物狂おしさをとっくり考えてみるために、それらを一つ一つ書きつけてみることにした」と記す。

ブログを13年続けたのは自身をなだめ、何かを書きつけるのが自身との上手い付き合いと感じた。自らに正直に背伸びをせず、知ったかぶりをせず、知らないことは調べて知識として蓄えるなら、知らないことは恥どころかむしろプラスに作用する。「そんなことも知らんのか」と口幅ったい奴に、「お前はどんなことも知ってるのか?」と言葉をつきつけたことがある。

「何でもってわけじゃないけど…」と突っ込まれて怯む彼に、「お前が知らぬことを笑う奴に好意を抱くか?」といって黙らせる。知ったかぶりを罪とは思わない。「ブラックホール知ってるか?」と聞かれ、「知ってるよ」と答えるのは名称だけの場合もあり、必ずしも相手を欺くことではない。嘘もついていないし、大して知らぬことを知っているよう見せかけるだけのこと。

「知っているか」と聞かれて、「知らない」と答えるのを嫌がる人がいる。どんな物知りであれ、知らないことは山ほどある。「知らない」ことは教えてもらう方が得なのに、自尊心が邪魔をする。知ったかぶりすぐにわかるが、さほどの罪はないと考える。自分がもっとも忌み嫌うのが、知らないことを「知らない」とさも自慢げにいう奴は少なくない。この心理は後で記す。

「知らなきゃいけないことか?」「知らない。だから何?」などと角の立った言い方を得意とし、挙句、「わたしはおバカなのよ」と、恥を打ち消すためのキャラを演出するが、決して自己卑下ではなく棘すら感じられる。自尊心が壊れるのを未然に防いでいるつもりが、今風とはいえど良い印象を与えない。会話で大事なのは、知識量の争いというよりエッセンスである。

「何か食べる?」→「食べない」。「映画でも観る?」→「観ない」。「〇〇知ってる?」→「知らない」。こんな人間とは会話をする気も失せよう。なぜかといえば、相手は会話を拒絶しているかのような印象を与えている。だから話をする気がなくなる。「捨て鉢な言い方をするね」というと、「食べたくないから食べない、知らないから知らないといって悪いの?」と返された。

「君は塾育ちなんか?」と皮肉をいってみた。「なによそれ?」というので、「問いに素早く答えを出すが、会話は学習塾じゃないからね」。彼女は不機嫌そうだったが、嫌味をいったのはそれっきり逢わない覚悟だったから。何事も正直、何事も正解がいいことではない。会話はエッセンスであり、気配りの有無が如実に表れるのも会話だがまるで答弁、そんなのを会話といわない。

正しい受け答えより、「あや」も必要である。「あや」を上手くは説明できないが、「物の表面に表れたいろいろの形・色合い。模様。特に、斜交する線によって表された模様」とある。人間関係とは、縦横プラス斜めの関係であり、さらに人間はそれほど単純ではないということ。付き合いとかの難しさは、人間は単純なように見えて、実は単純ではないことにある。

もう一つ会話で大事なのは言葉づかいで、慣れ合った関係は別としても人は言葉づかいで多くを判断される。この国では目上に敬語は常識とされるが、目下に対しても丁寧語を使えばいい。目下に対して極端な見下げた物言いをする人間は、体育会系体質か教養のなさであろう。教養を一言でいうなら、「知的な魅力」であろう。それがない様は言葉に如実にあらわれる

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