あるとき、ある男が、ある奴に挨拶をしたら、挨拶を返さなかったと腹を立てたという。ソクラテスはその男にいった。「そんなことは笑い飛ばせばいいこと。君は身体に障害のある人に出逢って何の腹も立てないだろう?」なるほど、さすがにソクラテス先生は上手いことをいうものだ。人間はいろいろだから、こちらの思いや先入観・期待感でもって他人を眺めても仕方がなかろう。
非常に粗野な言葉を返す人間がいる。ブログをやっていると、初対面ながらこちらの意見に文句をいい、考えにもクレームをつけ、人格批判をし、荒々しい言葉で毒づいたりと、バカ丸出し行為を気づかずやっている。バカにバカだと知らせるのも無意味だから軽くあしらうのがよかろう。そんな相手にムカつくようならソクラテスの言葉を噛みしめたらいいし、凡人は賢人から学ぶに限る。
他人と上手く付き合うのは易しくないというが、ツボを心得ていればそうでもない。犬は心置きなくつき合える動物である。犬はワガママをいったり、問うたりもしない、余計なことはいわない。要求もしない、批判もしない、見え透いた世辞は口が裂けてもいわない。あげくに外出先から帰ると満面の笑みで喜んでくれ、嬉しきに吠え立てあり得ないくらいの尻尾を振ってくれるのだから…
人間が犬を愛する理由がわかるが、猫にも魅力があるというが、好きでなかった猫の魅力が最近分かるようになった。おそらく岩合氏の番組のせいかも知れない。大きな目、ふわふわな毛並み、愛くるしい動き、尻尾をとがらせこれ見よがしに歩くさま…、猫は魅力満載であるという。「なぜ猫がかわいいのか」について説明するのは難しいが、可愛いと思えば理屈をいっても仕方なかろう。
犬や猫はともかく人間について考えてみる。言葉の通じないペットが可愛いのは、言葉が通じない赤ちゃんの可愛さに似ている。つまり、一方的な愛を供与できる可愛さであろう。とりあえず犬や猫たちはその愛らしい鳴き声で応えてくれるが、言葉を話せない赤ん坊も泣き声や言葉にならぬカタコト言葉で応えてくれる。言葉が通じない彼らが可愛いのは誤解の危険がないこともあるだろう。
会話もできない彼らの正体を突き止めることは至難である。であるけれども、彼らが何を考え、何を欲しているかについて、分からないなりに想像力を働かせ、彼らの気持ちに応えようとする。まったく分からない相手というのは、本来なら付き合う上で難しいものだが、想像力がそれをカバーしてくれる。つまり、こちらのさじ加減で判断できるし、そうした能力は高めることも可能だ。
人は人から命じられるのを好まない。上目線で物をいわれるだけでも反抗的気分になる若者は多い。ところが犬や猫や赤ん坊がつきつける欲求は、「ああしろ」、「こうしろ」の命令と違って、我々の自律的・主体的判断を強いられる。自らが自らに折れ、率先して相手の意に応えようとする心地よさでもある。「世話のし甲斐」というように、ペットや赤ん坊にかまける楽しさであろう。
ペットの可愛さ、赤ちゃんの愛くるしさの、「なぜ?」ついて考えてみたが、「可愛い」の理由はいろいろあろうが、対等でないが故の可愛さというのが分析の結論である。分からぬことを分かろう・分かりたいと突き詰める性分で、何かを説明する際も、対象が限定されない老若男女なら、どれだけ分かり易く、懇切丁寧に説明しても、「やり過ぎ」ということはないと考える。
理解力旺盛な人は、「そこまでくどく言わずとも分かる」と思うだろうが、そこまでいって、それでも分からぬ人がいるのを経験した。分かったふりをする人も含めた、人の理解能力の差異が伝える事の難しさを表している。だからか、「そこまでいわせなくても分かれよ!」という捨て鉢な言い方を自分は好まずしたこともない。あくまで分からせるのが伝える側に課せられた使命である。
伝わらないからと腹を立てるのは、挨拶を返さない相手にと腹を立てるようなもので、我々はそうした様々な人たちに対処していかねばならない。伝える一点に限っていうなら、労力を惜しんでははじまらない。「人づき合い」というのはそういうものだと理解するが、「そこまでいわなくても分かりますよ。バカにしてません?」といわれたこともあるが、腹は立たない分かればそれでいい。
何かを分からせるのが目的であるなら、相手が理解を得ているならこの上ないこと。子育ては、「力仕事」というのが実感で、人間関係というのも広義の「力仕事」と考えるなら、「力」を惜しんではならない。なにごとも全力投球なら悔いもなかろう。「そんな風に生きてて疲れませんか?」と皮肉半分にいわれるが、疲れると思う人は手を抜けばいいこと。人の推奨や節介は無用である。
人は行動の多くを自分を基準にするが、それを超えた人を評価する人も、皮肉る人もいる。どちらの側にも適宜に対応するも人間関係である。自分が一生懸命にやってることを批判されたり、皮肉られたりで腹を立てる人もいるが、自分に言わせると自分のためにやっていないことになる。10年以上ブログをやっているが、友人、知人に教えたのはこれまでに心ある2~3人しかいない。
「いろいろ書いてるので見てよ」など思わない。「よくまあ面倒くさいことやれるね」といわれて然り。教えられた迷惑もあろうし、評価も批判も無用が基本にある。褒められて喜ぶ人ほど批判に挫け、批判を気に病む人ほど評価を求めるもので、どちらも無用なのが自然な存在と考えるようになった。他人の軌道の上に立つより、自らが敷いた軌道の上を、自ら生きるのを目標とした。
ブログの、「いいね!」や、「ナイス」がなくなるとざわついていた。「それらの数がやる気に反映していたのに…」と文句をいうのは、それが彼らの支え・依存と知った。人はいろいろだから批判はない。そのことがモチベーションであるなら、その人にとってのやりがいであって、自分に関係ないと批判するのは間違い。偏ることなく世の事象を眺めることが大事である。