諌山氏は数ある成功者の一人だが、彼を語る際に彼の父を抜きに語れない。諌山はいう。「俺がすごく覚えているのは、高校生の時に部屋に入ったら父がいて、テーブルの上の描きかけの原稿を見ているんですよ。父はそれ見て、『お前はマンガ家になれねぇ』っていうんです。でも父の言葉は全く自分に響かなかった。何を根拠にって思ってた」。下手にヨイショしない父は彼の刺激となる。
磯山の成功後に父は以下のように語っている。「『進撃の巨人』で思ったのは絵が下手、読みづらい、見にくい。ビックリしたのがこんな表現こんな言葉こんな発想を本人がしている事。親の世界から見えないじゃないですか。誰かゴーストライターがいるのかと思っていました。『漫画家になれん』って息子にいったのは記憶にない」。諌山は父の反対をバネにした、それも彼の才覚である。
諌山にとって父は壁だった。障害というより越えるべく壁で、その壁を壊して進撃する巨人でありたかったのだろう。専門学校のマンガ学科に入学したが、親には嘘の学部といって入学したが、書類等が家に届けば直々わかること。が、入ったらそれはしめたもの。やりたいことに手段を選ばぬ芯の強さも感じられるが、マンガ専門学校を出て漫画家になれないのが世間の常識だった。
彼はその常識を変えたが、絵を上手く書く技術よりも、様々な教養や素養を身につけ、それらがストーリーに生かされているのだろう。かつてしきりにいわれたのは、「ピアニストになるためにはピアノの技術を向上させるだけでなく、文学や哲学の本を読め」などといわれた。アインシュタインも「物理学者になるためには靴磨きになること」といったが、これは固定概念に縛られるなである。
最近、「褒めない教育(躾)」が見直されている。現代の社会構造が甘え志向であり、さらに甘やかせても効果もなく、お世辞で付け焼刃的な学力・能力を身につけてもでは、生きて行けない世の中か。誤魔化しのきかぬもの、本物以外はいらない時代である。有名大学のブランド力より中身を求められる。そのためには本当に自分がなりたいものになるような、主体性ある人間を造る必要がある。
絵が下手でも感性があれば売れるというのは、絵が凄く上手くても売れないということ。感性はスパルタで育たないし、人と同じ映画を観、同じ音楽を聴き、同じものを食っていては身につかない。人食いの巨人が地上をのし歩きまわる時代に、残されたわずかな人類は大きな城壁の中で怯えて暮らすが、大型巨人の出現で壁が崩され、巨人と人間による生き残りをかけた壮絶な闘いが始まる。
『進撃の巨人』のような斬新な発想はある意味スゴイし、これほど絶望的なストーリーを描く漫画家もいなかった。人類生き残りの命運をかけた壮大なスペクタル劇は、『スターウォーズ』に匹敵する。今となっては、『はだしのゲン』も、『ハレンチ学園』も『ドラゴンボール』も、『進撃の巨人』の前にひれ伏す。漫画に詳しくないが、テレビで放映された『進撃の巨人』は面白かった。
絶望に打ちひしがれて「すねる」人間がいる。絶望をネガティブに捉えるとそうなるのだろうが、「すねる」人間に味方をする者はいない。体験からしてハンディも能力となるように、絶望はプラスに変えられる。小学生で母親に絶望した自分は、彼女に支配されたら自分は不幸になると感じたし、反抗しないで自由は得れないと思った。だから母を捨てられたし、とにかく自分が大事であった。
母の思うところの成功や幸福の基準は、なぜにこうも自分とは全く違うものだった。見栄っぱりな母は、「社会認知」意識が強かったが、そんな母親の親の見栄を満たすことに自分が利用されていると子どもながらに実感した。子どもの立身出世こそが親の見栄であるのを感じ取れたのはそれほどに露骨だったからだ。それ以外は「絶望」と言い含めたが、言い含められることはなかった。
父と違ってキャンキャン吠えるだけのうるさい犬である。絶望から逃れる人の多くは初期行動におうて、「すねる」らしい。どんなに嫌なことを言われようとされようと、「親だから仕方がない」とすねて我慢する人間がいるが、こんなことですねてる場合だろうか?「親から必要とされていないのだ」と自らに言い聞かせた。そうではない気持ちの葛藤はあったが、断定したのは勇気であった。
相手を見切るその前に必要なことは自分を見切ること。だから勇気が必要となるが、その勇気を持つことで新たな展開となる。自己愛というのは他者から愛されたい、必要とされたい気持ちから派生するが、そうした勇気が、「親から嫌なことをされてなぜ我慢しなければならない」という疑問となり、最終的には、「敵を受け容れることなどない」と戦う勇気につながっていく。
親への反感をもっても、我慢するのは養ってもらっていることへの恩義、食わせてもらってることへの感謝であり代償だろう。これとてオカシくはないか?食わせてやってるんだから黙って従えというのは横暴である。こんな横暴な人間は良識がない、賢くない、バカであると思うべきだ。そうすれば闘う姿勢が起きるなら、吉本興行のバカ社長にひれ伏することもなくなる。
親は子どもを無条件に養わねばならない義務を負うものだから、「育ててやってる」などの恩着せがましい言い方には悪意すら感じる。親の恩は持ってもいいが縛られる必要もなければ見返りを求められるものでもない。同じことは将来的に自分に返ることだから、批判すべきは批判しておくのがいい。親に限らず人間関係のなかで、善意な親切を恩を着せるのを自分は「毒饅頭」と思っている。
『菊と刀』の著者ベネディクトは、日本人は親への義務意識を暗黙強制する文化といった。「どんな親でも親」と無条件の感謝を説く儒家思想だが、「ヒドイ親」の実態が叫ばれるようになった昨今だが、現に五賢人の皆が母親への辛辣な体験を語っている。彼らはそうした批判から思想を育んだように、障害を怖れることはない。障害を踏み越えてこそ強く逞しくなると信じて突き進むこと。