世の中には成功した人がいる。周囲は羨ましいなどというが、本人が満足ならそれでいい事。成功した人生も人の人生の一つに過ぎないが、幸福とか成功についての一定のイメージができあがると、外れた人は不幸の烙印を押されかねない。そんなの気にする必要はない。何の成功もない自分は何の不満はないし、不幸と思った事もない。世の中の多くの人は成功なんかしていない。
成功者を羨ましいと思えば不満も出ようが、大事なのは自分の人生を楽しく生きること。成功しても大変だろうし、そんなのより少しばかりの蓄えと自由な時間があるのがいい。決して負け惜しみではない実感だ。もっとも、自分が成功者ならその運命を生きるが、何もないならない人生を生きればいい。自分の人生こそが大事であって、だから、「成功も一つの人生」とした。
多くの人は成功を願い夢を見るのか?だったら努力がいる。自分は自由に生きることが目標だった。だからそれを叶えたが、そのための障害排除はしたろうが、辛い努力はしていない。本人が成功の夢を描いて、そのために奮励努力をするなら分かるが、親が必死になるのはバカげたことよ。親の描く成功の道しるべは、一流高校⇒一流大学⇒一流企業なのだろうが、これは親の夢では?
親は親、子は子という欧米の個人主義と違って、日本人の親は子を所有物とみなし、何が何でも親の価値観で縛ろうとするが、それを正しいとする風土かも知れない。が、考えてみるに、風土とはなにか?和辻哲郎に『風土』(1935年)なる著書があり、サブタイトルは『人間的考察』。和辻による「風土」とは、単なる自然現象ではなく、その中で人間が自己を見出すところの対象である。
フランスの地理学者ラ・ブラーシュも、自然環境はただ人間の活動のための、「可能性」を与えているに過ぎず、この自然風土に働きかけて文化・社会を構築する人間の能動的役割を主張した。つまり親が子を支配するのは日本の風土といっても、子どもがそれを認めず、反抗すればその子にとっては風土とならない。つまり、そのように生きた自分にとって親の子支配という日本の風土は他人事。
もちろんこれは自分が親になってもである。ところがこういう風土は引き継がれていかないところが、人間の多様性である。長女は孫を自分の意に従えたくて仕方がないようで、そういう言動を見ながら視野の狭さにうんざり。男親と女親の支配力の差なのかどうかは分析できぬが、自分の祖父も父も放任だった。放任というのは悪い意味ではなく、自由を尊重してくれていた。
しかし祖母は違った。支配するというより、何事にも口を出す点においてやはり母親と同じ系譜。となると、狭量な母親の方が子どもに暴君になりやすい。親心の激しさというのは、意識して自制しないと歯止めが利かない。「親の責任とは何か」という根本的な思索がなされない限り親は暴君と化す。ならば親の責任とは何であり、それを考える上での根本的施策とは何か?
思いつくのは、「独り立ちの辛さ」を教えることかと。群れる人間、群れたがる人間が集団行動に殉じるのは大事なことだが、上辺の協調ではなく、真の協調というのは自立した人間がなし得られる。上辺の協調・真の協調の違いを考えるくらい誰にもあろう、だから省くが精神的に自立するというのは大変なこと。なぜなら、どのように考えても親は子どもより先に死ぬ。
だからか早くから親を失った子は当然にして自立が促進される。子どもを甘やかせる親というのは実は子どもに甘えている親だろう。ならば、「親が子どもに甘えていいものか?」という思索も必要となる。「いいわけなかろう」という答えを導きだせて初めて親は子に甘えなくなれる。それを思索しない親は卑怯であり、ズルい親、共依存体質になりやすい親である。
子どもが親の意になるのを日本的風土といったが、背景にあるのは親を大事にしなければの考え。親に限らず他人を大切にするのは悪いことではなく評価されるべきだが、誰より自分を大切にという前提があってこそだ。真に明晰な親というのは、子どもが自分の意のままになるより、子ども自身を捨ててまで親を大切にして欲しいなどは願わないだろう。
願うというなら強いエゴを持った親だ。親に育ててもらったという意識は自然に芽生えるが、「そんな意識などもたなくていい」といえる親こそいい親であろう。なぜなら、あまりに親の恩を強く意識すると、子どもは親の期待に応えたいと思うようになる。そのことが、自分の適性が何であるかも分からず、探すこともせず親の願望を叶えるだけの子どもになりやすい。
こういう子どもを自分は望まない。だからそういう教育する。望む親はそのようにもっていくだろう。親のいう通りにしていれば間違いないといわんばかりの子育てをする。価値観は多様化する時代、子どもは自分の適性が何かが分からない。ならばそれを一緒に探してやるのが親ではないのか?子どもと向き合い相談にのり共に考える。それを親の責任というのでは?
適性が分からないことをいいことに、だったら勉強さえしていれば間違いという歩留り論が横行したが、これが保険という思惑である。自分は保険をかけるより、やりたい人生は自由に生きるであった。「自分は何者で、何がしたいのか分からない」という時代は誰にもある。青春期はそういうものに圧し潰されかねない過酷な時期でもあるが、親がそれでいいものか?
「適性が分からない」はあってもいいが、親が子どもの適性を失わせてはダメだ。子どもの適性=親の適性と思う親が子どもを支配する。他人の親子の善悪を他人が論じる必要はないが、子どもの立場だけ考えれば、平等に与えられた人生という観点からそういう子は不幸だと思う。親の熱心さで難関校を卒業したとしても、それが親の望む人生なら子どもは不幸である。
「結果よければすべて善し」もなければ、「成功すれば幸せ」という打算を排すとこういう考えになる。「子どもは親の望みを叶えるために生まれてきたのではない」のは当たり前だが、それを当たり前と思わぬ親の行動を批判すれども、親子の数だけ親子の考えがある以上、普遍性より功利主義重視の親もいる。どちらにせよ親が子の責任をどう取るかの答えは難しい。