「死ぬまで生きよう」と始めたブログは12月までの命。FacebookやInstagramにおされたyahoo blogの命運か。過去に固執しないのが若さなら、自分の中に若さはまだまだ残っている。未来はないが明日は必ずくる。刑務官による死刑囚について書かれた本を読むと、彼らは刹那な日々をとてつもない充実感をもって生きているというが、同じ気持ちを記事に反映させたい。
人間は普通に普段通りに生きていると、普通に普段通りの人間に見えるが、何かが起こるとこれまで隠していた内面が突如あらわれる。過去そういう場面に幾度となくでくわした。他人だけでなく自分にも起こることだから、隠された自分の一面が露わになるような、何か特別なことがあったかなかったか。いろいろ思いだすうち、45年前の恋人との再会したのは大きなサプライズか。
これくらいしか思いつかない。彼女との再会で種々の体験を得た。人生とはめぐり逢いという。亀井勝一郎は「邂逅」と表現をするが、不思議なことにめぐり逢いとは多くの人間のなかから一部の人間だけが招待される。我々はめぐり逢う人たちから影響を受けたり人生の糧にしたりするが、遠き昔の恋人との再会で何より印象深く感じたことは、パスカルの下の言葉であった。
「彼は10年前に愛したその人をもはや愛さない。それもそのはず、彼女はもはや同じ彼女でなく、彼もまた同じ彼でない。」
自分の視点だけでなく相手からの視点にも言及されている。めぐり逢いといっても個々の交際には長短深浅がある。素晴らしい人との出逢いもあれば、ずるく卑しい人間にめぐり逢うこともある。出逢ったばかりに命を失うことになった人もいる。これをどう捉えればいいのか?その人の人生の最大の不幸であろう。折角いい人にめぐり逢っても感受性が低いと何も得れない。
お世辞の類もあろうが、「あなたに出逢えてよかった」といわれたことがある。「ボクから何かを得ようとする力をあなたが持っていたからでは?」と返したが、テレではない正直な気持ちである。いかに送信が強かろうと受信の感度が重要で、感受性は人を成長させる。相手になにかを与えたい気持ちで発しても、受け手あっての物種。このことは恋愛についてもいえる。
世間はプレゼントのやり取りを愛の交換というが、この考えは自分には全くない。相手に何かを贈りたい気持ちは、そうしたくてたまらない時になされる。それが愛情などと考えたことも意識したこともない。それを客観的に愛情表現というなら勝手にいえばいいこと。自分が気にいらないのは、クリスマスやバレンタインやバースデイを愛の特別の日とする世間の習わしである。
世間とは社会である。世間とは他人という考えもできる。欧米の個人主義のように人は人、自分は自分志向の強い自分だから、世間に身を委ねるより自己の考えを優先する。人がやるからやる、やらねばならないというのは自分の行動基準とならない。自分を綺麗ごとをいうと見る人がいるが、綺麗ごとを嫌うのが自分である。他人の判断は各人の利害でなされる場合が多し。
が、他人の見方はその人独自のものだから、尊重してあげればよいこと。100人いれば100通りの自分が存在することになるが、愛ある進言か憎悪の中傷かを吟味し、プラスになることを適宜取り入れればよい。クリスマスやバレンタインデーを愛の日とする、そんな素朴な時代もあったが、昨今の目に余る商業主義、商売戦線にはうんざり。彼らは愛すらも商売にする。
みんながやってることをされて何がうれしいというより、バカげたことだと感じる自分をへそ曲がりという友人がいた。自分は腹を出して、「見てみろ、へそは正常だ」と冗談をいいながらも、人と同じことをしたくない自分は他人から見てオカシイと思われて当然と理解してやる。「一寸の虫にも五分の魂」という言葉を思い起こしながら、その考えで他人を尊重する自分。
しかし、暴力・暴言、いじめや傲慢、我欲や嘘つき、裏切りなどは批判も非難もし、何でもカンでも他人を尊重することはない。それこそが善悪良否の判断である。他人から善いものを学び、悪いものを排斥するのが理想的な人間関係ではないか。孔子は、「益者三友・損者三友」という言葉で、付き合って益のある友人、付き合うと損な友人をそれぞれ三人挙げている。
立派な言葉は沢山あるが、身につけようとしないのも人間である。良い言葉を頭においていても、その時の利害で人間は行動をする。これらを逆に考えると、自分の得や利にならぬことの多くに善がある。投資詐欺に合わぬ方法は、「そんなうまい話はない」と否定的になること。騙す者の責任を問うたところでお金が戻らぬ以上、騙された側が責任を負うしかない。
「舌きり雀」や、「花咲か爺」など、内外にも人間の我欲を慎む話は山ほどあるが、他人から学ばぬ者は賢くならないと思っている。こんな言い方は他人が見れば綺麗事に見えるのだろうが、実行伴う自分にとっては当たり前の事で、愚かな自分を善しとし、肯定して何も変えずに生きて行くのと訳が違う。人間は愚かさを排除するのは難しい、だからやりがいも感じる。