「教養と愛情の関係」という表題は、自分しか分からぬ隠れた美しさ、善いところの発見は、愛情なしでは見つからないという意味だ。多くの人が見逃して素通りするものに立ち止まれるのを教養と見立てるなら愛情と教養は結びつくことになる。人が気づかぬものに気づいたり、見過ごすものに立ち止まるのは、頭脳の明晰さというより教養という感受性である。
教養人たる自覚はないが、誰も気づかぬものを発見する力は能力であることには違いない。教養なき者、程度の低い者は、目立つものにしか心を惹かれないのだろう。人間であれ物質であれ、田舎の景観であれ、都会の喧騒であれ、そこに些細な何かを発見する能力、それすらも感受性である。ず~っと前にだが、女性の化粧についてのある発言を覚えている。
「最上の化粧とは自己をあらわにするのではなく自己を隠すため」という言葉。女性の化粧について何人かに聞いたが、マナーという回答が多かった。「そりゃ綺麗になるためでしょう。私なんか2時間くらいかける」という女性に教養らしきものを感じなかった。おそらくは、「自分を隠すため」という言葉の影響かも知れない。何事も過度は過激と捉えられる。
男には分からぬが、化粧一つに思想があってもいい。昔の女性が『伊勢物語』や『源氏物語』を読むのは自己教育のためで、他のひとより文化的水準をあげるためであった。現代でもカルチャー教室で『源氏物語』を教材にとり上げ、男の一生や女性の一生について様々に思いめぐらせることは、歴史の知識というより人間の生き方としての教養であろう。
教養を学ぶといえば大学の教養学部がある。何を教養とし、何を学ぶのかは、イメージすることさえ難しい。実際問題、教養学部においては特定の学問の枠にとらわれず、さまざまなの学問分野を自由かつ横断的に扱うことから、“リベラル・アーツ”と呼ばれることもある。学んで身につける教養より、自分に合ったものを自己教育力から得るのが分かりやすい。
粗雑・乱雑な言葉づかいには教養の欠片もないと批判するのも自己教育力。「あなたはそういう人を見下している」などは思い当たるフシのある人間の戯言である。他人の批判を糧にするか、自尊心確保のために抗うかは人次第で、中一の時に級友から貶されたことを素直に受け入れたのは、頭が柔らかい年代であったことが幸いした。以後は他人から学ぶのは習慣となる。
人は自分が見えず、自分ばかりを見ている他人こそが自分を教えてくれる。自分のことは他人から学ぶべきだが、他人の指摘にムカつき批判を返さねば生きていられない人間もいる。同じ批判であれ、自己を向上させるための批判と、自尊心を守るためにする批判はそれほどに違う。知人でもなき他人の事など知ったことではない。口出し無用につき批判すらも湧かぬ。
教養を身につけたい人もいれば関心なき人もいる。なくて困らないものだが、身につけたいものだけが努力をすることになろう。ブログは他人との接点であり、何があっても驚くことはない。つまらぬ人間と敬愛すべき人間がいるだけだが、折り合いをつける生き方を身につけるも広義の教養である。ムカつく相手にムカつくようでは児戯にもとる行為であろう。
何かを思いつめる人、思いつめない人がいるのをあらためて実感させられる。他人を極度に意識するあまりに自己妄想に駆り立てられるのは、傷つきたくない一心の脆弱さである。人は誰も傷つきたくないが、それが極度に嵩じると他人を傷つけることが自己防衛となる。これがいじめの原理で、いじめられたくない人間は他人をいじめて快感を得る。だからかいじめは減らない。
かような倒錯心理は、他人を蹴落とすことで満たされる競争社会の原理ともいわれる。自分を何とかすることが何より先決だが、他人からの攻撃に敏感になりすぎるあまりに先手で攻撃を撃つ。「思いつめる」のは、もはや社会病理であろう。若者からこんな相談を受けたことがある。「他人や周囲の目が気になります。どうすれば気にならないようにできますか?」
自分はこう答えた。「気にしないようにすれば気にならないのでは?」。いたって真面目に答えたつもりだが、期待したものと違ったのか、「そりゃ、そうですけど…」と冴えない。「どうすれば気にならないようになる魔法の言葉なんかないよ。あるのは実践のみ。そういう意味でいった」。行動は力仕事だが、近年の若者は横着になって、理屈ばかりを求めて楽をしようとする。
情報社会であるのは認めるが、どんなことにも理屈が添付される時代である。あり余る情報から即したものを探すのも方法には違いないが、やってみるしかなかった時代にあって、それも一つの答えであった。身体で当たって突き止めていくそこに横着さはない。「案ずるより産むが易し」は昔の言葉。お産の不安を解消するものだが、この言葉は様々なものに置き換えられる。
近年、教育も恋愛も宗教も学問として体系化され、理屈がまかり通るご時世だ。が、子どもの頃から不思議だった言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、誉めてやらねば、人は動かじ」という山本五十六元帥の言葉。なぜに不思議かといえば、元帥なら何でも命令できる立場だが、「やってみせ」の言葉に山本の教養と愛情を感じる昨今である。