汚い言葉の横行は顔の見えないネット時代の特質である。見ず知らずの他人とはいっても、敬愛心のなさが見せる態度は、他者の自分への警戒心もあるのだろうが、あまりの自意識過剰で、こうしたことが背景にあると考える。人のことはともかく自分の場合、見ず知らずの他人だからこそ気をつかった対応をするが、そうした敬愛心は自然と湧くもののはずだ。
見知らぬ他人、初対面の相手に非礼でガサツな言葉を放つ人間というのは、自分なりに分析すると、見下した物言いをすることで、自分を相手より上位に置きたいのだろう。さらには他人を言葉汚く罵ることで自己の価値を上げていると錯覚している。他人のことゆえ正確には分からないが、そうしたことを含めて人への敬愛心が薄れた時代になっている。敬愛心も一つの、「愛情」の示し方である。
「天には星、地には花が、そして人には愛」というのは、いい言葉だが、自然なものを示している。前の二つは変わらぬが、人に愛は自然ではなくなった。人間が知性より知識を重視するようになったのは受験制度の影響もある。誰より多くの知識を持った者が認められるシステムの弊害だろう。真面目に生きようとする人を小馬鹿にする人間は知性も教養もない人間」と自分の目には映る。
知性や教養は先ずは言葉の使い方や所作にも現れるもの。他人から賢い人間に見られるには、高学歴・高偏差値というのが目安になっているようだ。「そんなことはない」と断言して見ても、それを信じる人には猫に小判。日本人の最高の頭脳は東大医学部生と世間は認めている。それが現代的水準ならいいとして、頭の良さとは別の人間的魅力ということについての考えを排除してはダメだ。
この世の誰もが自分は、「魅力的な人間でありたい」と願っている。そうなれば誰からも好かれる、異性にもモテる、社会的にも認められる。しかし、そういう魅力づくりってどうやれば?そんなことは学校でも塾でも親からも教わらない。自分が本当にそういう人間になりたいと思えばこそ身につくものではないか。つまり、人間的魅力ある人間を目標に掲げていろいろ努力をするからだと思う。
そのためにはどうするかの方法で、先ずは嫌な人間になるのを避けるが手っ取り早い。人間がある種のズルさ、ズル賢さをもっている。その一例として我々は、善意の心から自分が暇である時にだけ、なにがしかの活動に出向いたり、署名なんかしたりで、社会奉仕をしたりするが、世の中には、「真善美」への希求がある。ズルい人間は、「何も自分がしなくても…」などと塀に隠れようとする。
「自分よりも善意な人はいる」、「お金持ちはいる」のだから…、というのが言い分のようだ。何事も、「する」自由、「しない」自由が認められているから、「しない」ことで後ろめたさを感じることもない。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」(世界人権宣言第一条)。とあるが、この場合の自由の定義や概念は観念的であるようだ。
「真善美」の真は虚、善は悪、美は醜と表裏である。、自由はまた善の妨げにもなっている。残る美はどうか?真に生きるも善に生きるも無理だ、難儀だからと避けているが、「美学に殉じたい」、「美しく生きたい」ならやれると、色々思考すれば、美にはどこか真や善が関わっている。つまり、真を見ることに臆病のまま美を生きられないし、善に臆病で美を生きることもできない。
物事は何かと何かが関わっているものだと、書き物をすると如実に感じる。何かに特化して書かない限り、下手をするとまとまりがなくなるほどに物と物、事と事は関連する。不思議というより面白い。まさに、「風が吹いたら桶屋が儲かる」がこの世の実態である。したがって無理をせずに自分にできることは、真と善に妥協しつつ美を生きること。これもズルさであろう。
ズルなくして人間が生きることは出来ない。昨今、盛んに問題視されているのが秋篠宮家の長女眞子さまの婚姻問題である。世界人権宣言に触れてみて、この件の最終的判断は誰がすべきかと考えてみた。もしも敬虔なキリスト教信者と、神仏など無いがごとくの無神論者の男女が恋愛したとする。キリスト教信者同士は大反対するが、同じ無神論者の友人たちは、「へ~」程度である。
なぜなら、前者は枠に嵌った人間、後者は枠のない自由な人間であるから、「ま、うまくやれよ」で済むがキリスト教信者は、「無神論者の彼を理解してあげましょう」などと思わないだろう。理由はいろいろあるが、日曜日に教会に礼拝に行くのを、無神論者は理解できないばかりか、「そんなことをやってる暇があるならもっとやることあるだろう」と思う。自分なら間違いなくそう思う。
これはキリスト信者にしか分からない。分かっても理解することが苦痛となる。ならばそんな相手はハナから排除するのが後々のため。理解するのが愛というが、愛は無常である。狭い枠の中の眞子さまと、小室家とは自由度がまるで違い、自由主義者の自分なら後の不自由を勘案して、彼女と恋愛すれど結婚はしない。「やり逃げするのね」と眞子にいわれてもだ。
面白おかしく言ったが、眞子さまの自由な自発的思考は皇室内にあって不幸かも知れぬが、最終的な人間の幸福とは何かについて、秋篠宮家を始めとする皇族方々の定めと、恋煩い中の本人とでは乖離がある。本人重視か皇室全体の考えのどちらを選択するかで、前者以外に眞子さまの婚姻はあり得ない。今彼女は望んでいなかった境遇を呪い、苦慮しているのだろう。
一昔前なら天国で結ばれる恋もあり得たが、今の時代にそれはなかろう。昭和32年の「天城山心中」は、旧満州国の皇帝愛新覚羅溥儀の姪で、溥儀の実弟愛新覚羅溥傑の長女愛新覚羅慧生と学習院大学の男子学生の大久保武道は、1957年12月10日伊豆半島の天城山において拳銃で頭部を撃ち抜いた死体で発見された。後年これは大久保の無理心中と断が下されている。