「教養」は様々に解されるが、端的にあらわれるのはその人の言葉づかいと感じていた。「言葉は精神の脈絡」というように、乱暴な物言いやバカ丸出しの言葉づかいの主に尊敬や教養を感じることも見出すこともない。人の言葉づかいは教養の問題以前に、その人のなかに入る玄関口のようなものであり、乱暴な言葉を使う人間の中に入ろうという気がおきない。
言葉は玄関口の立て札であり、美しい言葉づかいの女性は魅力的。人と人の結びつきは言葉を通じて以外にない。黙っていても分かり合える関係を、「阿吽の呼吸」というが、長年の人間関係におけるご褒美であろう。言葉が意識の代用なら、心にあるものを正しく伝えるのは難しく、言葉で何かを発しても、口に出しては言い表しきれない沈黙の部分は必ず残る。
それらをこまやかに察し合うところに真の愛情をみる。人は人を理解し合うことによって結びつく。言葉の問題をさらに深めていくと、相手が言葉にあらわせられないものや表現しきれない沈黙に対する心づかいや、思いやりこそがその人に寄り添うことではなかろうか。神経が粗雑で行き届かぬ人間には、配慮という心遣いにおいて教養の欠片もない人間である。
彼らの乱雑な言葉の裏にあるものは、何事においても勝利者ごときの振る舞いは、常に他人の上にいたいとのお山の大将気質は、幼稚さ丸出しと考える。高学歴で読書好きで博識であるとか、社会的に認知された職業従事者であっても、神経粗雑な人間のどこに教養があるのだろう。人へのこまやかな神経をもつ女性には人への暖かさという教養が感じられる。
心の美しい女性は言葉にあらわれる。美しい言葉づかいが生育環境に起因するなら、「育ちの良さ」そのことが即ち教養である。そうした女性は極度に自己を誇示しない、自身を過度に目立たせるような化粧もしない、衣装などの召し物についても奇抜なものを好まないばかりか、上品な仕草や態度にもあらわれる。これらは自己顕示欲を抑制する美しさである。
かつて女性のは茶の湯(茶道)やお花(華道)というたしなみがあった。さらには上流階級の子女たちは礼作法を身につけさせられた。今川流、伊勢流、小笠原流が有名で、これは室町時代に将軍・足利義満に仕えた今川氏頼・伊勢憲忠・小笠原長秀の3氏によって『三議一統』として完成された武家の礼法である。茶道・華道・礼法はいずれも婦女子の教養である。
かなり親しい友人に、「お前は何でブサイクが好きなのか?」と聞かれたとき、「隠れた美を見つけるのは愛情よ」と答えたことがあった。「その言葉にはうならされる」と彼はいった。「うならされるならお前もやったらどうだ」というと、「うならされるって、自分が真似のできないことをやる者への賛辞。俺には絶対に無理だし美人がいい」と筋の通った正直な言い方である。
自分ができないことを批判する者、できないことを讃える者。前者は卑屈な人間で、友人にするなら後者である。人はいろいろだから、付き合う相手を選べばいい。「お前はブス好みの変人と思っていた」という彼に、「他人の好みはワカランだろ?自分以外のことは興味なくていい」といいながら、「一見美しいものってなぜかすぐに飽きるよ」とホンネを晒す。
「あばたもエクボ」は、好きになればブスも天使と解されるが、これは表面的な事象をオモシロオカシクいったまでで、内面の美しさを賛美していない。美しいものの本質は隠れていることが多い。隠れて存在し、見つけてくれるのを待っているかのように自分には映る。17歳の時にブサイクでアカギレまみれの女性に抱いた恋心は、彼女の日常生活への敬愛心だった。
初めてデートをしたとき、指定されたのは早朝の五時だった。そんな時間に二人は海岸で待ち合わせ、一時間ばかりそこにいた。家事を抱えた忙しい彼女は自分の時間すら持てない奉公人のようであった。切られる時間は充実するもの、二度とできない恋の想い出に感謝。彼女から漂うほのかな香りと熱気は、「なぜ?」であったが、二つの意味は今なら判る。
愛情は隠れた美しさを発見する。誰もがすぐに目につく美しさもあるにはあるが、目につきやすいものは飽きられやすい。自分以外は容易に分からぬ美しさは愛情なくして見つからない。こうした「Principle」を自らに植え付けることで人は自らに誇りを持つ。外野の騒音を気に留めることもなく、他人に説明して自己正当化の必要のない確信的な誇りである。
決められた寿命を楽しむこの頃だ。12月15日だからもう半年を切った。引っ越しをしないのはそういう理由もある。慌てず臆せず文句も言わず、せっかく与えられた機会をポジティブに受け取り、初体験を楽しむ。書き物は書くときこそが楽しいもので、記事は消えないから残っていたにすぎない。消えるというならこの際過去に決別できるよいチャンスと捉えられよう。